玄関が一瞬開かれると、熱の籠った外気が室内にむわりと入り込んでくる。僅かに遅れてガチャリと鍵の閉められる小さな音が聞こえた。どうやら家主のご帰宅らしい。
「ただいまー」
 ルームシューズに履き替えたその人――が間延びした声で挨拶を口にすると、彼女の帰りを待っていた同居人のジェイミーはキッチンから頭だけを覗かせて「おかえり。ちょうど今飯出来たとこ」と飾り気のない幼い笑顔で出迎えた。
 外出時は例外なくいつだってビッと決めているジェイミーも、家の中ではリラックスした格好をしている。ドリップ・イン・スタイルで投げ売りされていた上下揃いのジャージに、手櫛で一纏めにしたポニーテール。艶やかなリップや目元を囲うアイラインも今はまだない。だからといってだらしなさの類が全く感じられないのは、ジェイミーという人間を構成する信念や経験が、常に彼を美しく真っすぐに立たせているからだ。事実、上着のファスナーを下げ大胆に素肌を晒していても、まるでモデルのように様になっている。
 とはいえ現在、沸騰する鍋と対峙するジェイミーは真剣だ。ぐつぐつと煮立つ水面を眺め、額に流れてきた汗を手の甲で粗雑に拭う。一拍置いてコンロの火を消すと、手洗いを済ませて戻ってきたが軽くつま先立ちをして後ろから彼の手元を覗き込んだ。
「お昼から餃子?」
「……別に中華はいつ食ったって美味えだろ」
 カン、と寸胴鍋の縁を穴杓子の柄で叩いてジェイミーが言う。不満そうな口調だが、その口角は上がっている。
「ま、いらねえならオレが全部食うけど?」
「ジェイミー様いつもありがとうございます」
「差し返し早。必死か?」
 喉だけで笑って慣れた手つきで湯を切り、二つの皿に餃子を盛り付けていく。照明で水気が反射しぷるぷると光る皮は見るだけでの脳髄にもちっとした甘い食感を想起させた。ジェイミーの作る餃子は、の好物の一つだ。
「そもそもこの量一人じゃ食えねえっつうの。テーブルの上見てみ? スープもサラダもあんだぞ」
「豪華だなぁ……時間かかったんじゃない?」
が喜んでくれるなら大したことねえよ」
 その言葉に、はまじまじとジェイミーを見つめた。
「あれ……なんだろ……ジェイミーが凄く男前に見える……」
「気づくの遅。節穴か?」
 ジェイミーはジト目を浮かべ「オレは昨日も一昨日も男前だっただろうが」とぶつぶつ文句を垂れてから、慎重な歩行で皿を運びにかかる。
「てか今日暑くね?」
「冷房は?」
「付けてる。温度もうちょい下げていい?」
「いいよ」
「あんがと」
 上半身に湯気を浴び、あちー、と零し腕まくりをするシェフがせっせと料理を配膳している隣で、も二人分の茶を淹れる。料理はジェイミーの方が上手いが、どうしてか茶を淹れるのはの方が上手かった。

 は、メトロシティを拠点に持つ運び屋の一人だ。
 裏社会の人間にも、表で生活する潔白の相手にまともな荷物を送りたいときがある。故郷に残した家族宛ての郵便だったり贈り物だったり内容こそさまざまであるが、大抵、彼らにはその手段がない。かといって、それだけのために運び屋を介するにはそれなりのリスクが伴う。あらゆるリスクの排除を優先すれば自ら届けるしかないが、どうしたってそれが出来ない人間もいる、という堂々巡りが現実だ。
 そういった人間向けのビジネスを初めて行ったのがだった。
 アンダーグラウンドの事情に精通しながらも、彼女自身は決して悪に染まらない。にとって運び屋という仕事は純粋な運送業でしかなく、犯罪には加担しないというのがポリシーだからだ。
 ジェイミーとの出会いもその仕事の中で起こった。出会った当時、まだメトロシティに来て日が浅かったジェイミーには家を借りる手段がなく、またの生活も軌道に乗るまでは今以上に不規則だったために、住む部屋を提供する代わりに負担にならない範囲で家事をしてもらうという約束で二人は生活を共にするようになった。
 朝から昼にかけて運び屋の仕事をすると夕方から深夜にかけてトラブルバスターの仕事をするジェイミーは、すれ違いであるがゆえに共同生活の相性が良かった。
 とはいえ、当初こそ必要最低限の干渉しか行わなかった二人だったが、どちらも人懐っこい性分が幸いし気づけばいつしかその距離は縮んでいた。恐らく二人の根っこが似ていたからだろう。ジェイミーもも、手段は違えど自分にとって大切なものを守るために生きている。

 全ての配膳を終え、テーブルを向かい合って囲む。
 料理を作ったのはジェイミーだが、彼はいつもが口を付けるまで食べ始めない。それが分かっているはこちらを見つめる彼と目線だけを合わせて、ゆっくりと箸を持ち上げた。
 真ん中を摘まめば、ぷに、と弾力で凹む餃子にタレを付けて、食む。
 途端、じゅわと広がる肉汁の熱さに堪らず目を瞑って背筋を震わせた。
 唇から零れた呼気と共に、心からの賞賛も溢れていく。
「~~っ……美味しい……!」
「にゃはは、そりゃあ良かった」
 の反応に満足げに頬を緩めて、ジェイミーも箸を構える。
 そして一口餃子を頬張ると同様に身を震わせて「うーん、オレって天才かも」と頷きながら呟いた。
「かもじゃなくてガチで天才だよ。店開いた方がいい」
「……って作り甲斐ある反応してくれるよな」
「ちなみに冗談じゃなく本気で言ってるからね」
 ずい、と身を乗り出し圧をかけてくるを、片手を前に出したジェイミーが顔を背けながら制す。ピアスの光る薄い耳たぶがほんのり赤く染まっていた。
「ハイハイ、ちゃあんと分かってるって。、嘘吐くとすげえ顔に出るもんな」
 自他ともに認める料理上手のジェイミーだがここまで頻繁に手料理を振る舞ったのはが初めてだった。家という対価があり、自分のためだけに作るときよりも幾分か気合いを入れているとはいえ、ここまで正直に褒められることにジェイミーは慣れていなかった。
 第一、そもそもという人間は他人の人生を肯定するのが上手いのだ。ジェイミーが彼女と共に暮らすようになってから、一体何度その爆弾を食らわせられてきたことだろう。
 おかげさまで。ジェイミーがトラブルバスターとしてメトロシティにこのまま根を張る決心をしたのも、他人を許容するあまりどこか危なっかしいのことを己自身の手で守りたいとうっかり願ってしまったからだった。
 ――まあ、は守られるようなタチじゃねえんだけど。
 そんなジェイミーの心情などつゆ知らず、はニコニコと上機嫌に餃子を飲み込んだ。かと思えば、一転してふと気まずそうにジェイミーを上目遣いで見やる。
「……部屋貸してるだけじゃぼったくってる気がしてきた」
 ぽつ、と零れた言葉に、ジェイミーは柳眉を逆立てる。それは聞き捨てならない言葉だった。
「だけ、じゃねえよ。なんだかんだ、色々世話になってるしな」
「えー? そうかなぁ?」
「そ。にとっちゃなんてことねえことかも知んねえけどさ」
 聞かれないなら、と、にはあえて言っていないことがある。もう何か月も前からジェイミーは自分で家を借りられる立場にあるということ。あるいは、この家ではないどこかへ行くことも可能であるということ。だが、それらは決して自分からは切り出さないと決めていた。
 ジェイミーにとって、が「ただいま」と「おかえり」を言ってくれるこの家はもう自分の居場所になりつつあったからだった。
 の近くが安心すると思うようになったのはいつからだっただろう。もしかしたら初めて会ったときには予感がしていたのかもしれない。他人に対し警戒心の強いジェイミーが見ず知らずの女性と共に暮らす選択を取るくらいだ。何か魔法をかけられたのでなければ、が特別だったとしか考えられなかった。
 今となっては、正しく特別であるけれど。

 ジェイミーは食事を進めながら、静かな眼差しでを見つめた。
 ルーツが近しいのか、二人の持つ容貌の印象はそう遠くない。雰囲気すらも、ともに暮らすようになってからは同じ色に重なりつつあった。
 家族。
 ジェイミーの脳裏に、ぼんやりとそんな単語がよぎった。ジェイミーにはひどく馬鹿馬鹿しくも、同時に強く愛おしくも思える響きだ。
 生みの親、おばあ、ヤン哥、ユン哥。頭の中で指折り数えて、最後にもう一本折りたたむ。
 そこに並ぶ人間が現れるなんて数年前の自分には思いもしなかった。どこか他人事のように考えながら、の動きを目で追った。咀嚼によって不規則に動く頬。はらりと落ちた前髪を耳にかける仕草。料理に向けられた伏し目がちな瞳が、ふと、ジェイミーの視線に気づいて持ち上げられる。
「ジェイミー?」
 きょとんと瞳を丸めたが首を傾げてその名を呼ぶ。
 途端に――喉の奥からせり上がる熱い衝動が、前兆なくジェイミーの肉体を襲った。
 ドッドッと正中線を突き動かす沸騰のような血潮の高鳴りに、頚椎がぐらつく感覚。箸を持つ手が震える。口角がひくひくと不自然に痙攣する。思わず、瞬きを忘れた。
 今更、どうして。
 ジェイミーは呆然と自身の感情を俯瞰することしかできない。どこから沸いてきたのか、分からない。
 だから、多分きっと。本当は、ずっとそこにあった。
「ああ、悪い」
 反射的に謝ってから、謝る必要性のなさに気が付いた。
「ちょっとだけ、家族のこと思い出してた」
「……家族?」
 が身じろいで、衣擦れの音がする。その音を聞いて、ジェイミーは改めて二人だけの空間を知覚する。狭くはないが、広いとは言えないリビングで、だけがジェイミーの声を聞いている。ジェイミーだけがの声を、音を、聞いている。
 こんなにも簡単に人を独り占めできることを、ジェイミーはと暮らすようになってから知った。独り占めしてもまだ、足りないと感じる己の浅ましさにも。そうと気付ける贅沢な喜びにも。
「オレの手料理、血の繋がった家族よりもに食ってもらった回数の方が多いなぁと思って」
 はぐらかしに使うには随分と重たい言葉が口を突いて出た。だが、は微塵も不審に思わなかったらしい。
「もうすっかり胃袋掴まれちゃってるよ。ジェイミーが居なくなったら困っちゃうくらい」
 それは決して、言わせた言葉ではなかった。けれどもそう感じてしまうほど、ジェイミーにとって都合のいい言葉だった。
「……出ていけって言われない限りは、居なくならねえよ」
 彼女と離れて本当に困るのはジェイミーの方だったから、どうしたって受け身の言葉になってしまう。しかしは、その言葉が一番欲しかったかのような顔をして待っていた。
「それじゃあ、一生一緒ってことかぁ」
 刹那――ジェイミーは無意識に唇を噛み締めた。こうしていなければ、みっともなく泣いてしまいそうな心地がしたからだった。
 心を落ち着けるように、はあ、とため息を模して息を深く吐いてから、ジェイミーはいつもの軽い調子で返した。
「長くね?」
「そうかな? 案外短いかもよ。試してみる?」
「むしろそれってもう本番じゃねえの?」
「あー……確かに! ジェイミー頭良いね」
「適当かよ」
「真剣です~」
「でも顔は笑ってんだよなぁ」
「ジェイミーに言われたくない」
「あん? オレが色男だって?」
「そうじゃないけど、部分的にそう」
「ランプの魔人かよ」
 言うだけ言って満足したのか、はジェイミーの突っ込みを聞き流してサラダを口に運ぶ。会話が途切れたせいで訪れた静寂の中央で、咀嚼されたレタスがしゃきしゃきと新鮮な音を立てる。その何の変哲もない平凡な音があまりにも的確に今までの人生で誰にも触られたことのないところを揺らすから、つい口ごもってしまったジェイミーは遅れて食事を再開した。
 味付けは変わっていないというのに一口目よりも遥かに美味しく感じられる餃子に、ジェイミーは確かな幸福が形を成すのを自覚する。物心ついたときには実の両親相手でさえ気の抜けなかった自分が、人と食卓を囲んで幸せを感じる日が来るなんて昔は思いもしなかった。
「なあ」
「ん?」
 なんてことのない風を装って、ジェイミーはと目を合わせる。唾を飲み込んで喉元が動いたせいか、ジェイミーの首筋に汗が一粒流れては、服の内側に染みていった。
 それから。
のこと、今度おばあに紹介してえんだけど……一緒に来てくれるか?」
 永遠にも思える、一瞬があった。
 現実では数秒にも満たない時間の後、問いかけられた内容を理解したは「うん」と、あっさり頷いて笑った。
「だったらその次は、私もジェイミーを家族に紹介したいな」
「そ、れは、構わねえけど」
 声が裏返るのはギリギリ耐えたが、妙にそわそわと落ち着かなくて、ジェイミーは手元にあったグラスを掴むとぬるくなってしまった茶を勢いよく飲み干した。
 片方が黙れば再び会話は途切れた。一足先にが食事に戻る。箸が食器にぶつかる小さな音。冷房のファンが回る音。それらと溶け合って、今しがた飲んだ常温の茶が、ぐるぐるとジェイミーの胃の中で踊っている。
 ――オレだけならまだしも、お互いの家族に紹介ってなったら、それはもう、なんか、違えんじゃねえか……?
 考えれば考えるほど何か途轍もないことが起きたような気がして、処理しきれない思考だけが置いて行かれてしまう。
「……? どうしたの? 早く食べなよ」
 首を傾げたに優しく促されても、変なことを口走ってしまいそうで生返事すら返せない。そんな自分をダサいと感じながらも、ジェイミーは意思とは裏腹に緩んでしまう頬を抑えることが出来なかった。
20240709