高校からの腐れ縁である今吉と諏佐と三人で課題をするためにと今吉宅に集まった日の夜。
 諏佐がどうしても外せない用事があるとかなんとかで早く帰らなくてはならないらしく今吉とふたり駅まで見送ったのだけれど、わたしとしてはコイツともう少し遊んでいたいな、と思わなくもない時間で――案の定、これからどうしようかという話になった。
 今吉は丁度一か月後に資格試験が迫っていたから多分今日だって帰って勉強したかったと思うけれど、こちらのそんな意図をくみ取ってか「せっかくやし駅前で飲んでから帰らへん?」なんて調子のいい誘いをふっかけてきてくれた。
 わたしとしては「いや、勉強したほうがいいんじゃないの?」と言わなくてはと思う気持ちも少しはあったけれど、正直まだまだ話足りなかったから「奢るよ、今吉と違ってバイトしてるし?」そんな風に気取って誤魔化した。
 とはいえ、そんなわたしのちっぽけな建前なんて。
「わは、せやったら存分お言葉に甘えさせてもらうで~?」
 ――と言って笑う今吉には、全部お見通しなんだろうけど。


 今吉の家の最寄の駅がそれほど拓けていなかったお陰か、ふらっと入った居酒屋はすんなりと通されるほどには空いていた。
 時間帯もあったかも知れない。
 目的が飲みとはいえ、夕飯時に男女二人で入る店に居酒屋を選ぶなんてと周りには言われそうだけれど、相手が今吉なら全然アリだと思えるから不思議だった。
 しかし実際、気を遣わなくていい相手というのはなんとも楽だ。
 席に付いたあと適当にメニューを選んでいると、少し遅れて席へと座った今吉が背負っていた鞄を横に置いた。
(そういや、家から出てくるとき鞄提げてたっけ)
 などと思いながらそれを横目に見ていると、徐に鞄のファスナーを開けた今吉が中から一冊の本を取り出した。
 タイトルを見るまでもない。
 装丁からして明らかにアレは参考書だ。
 それを視界に収めて刹那、うげ、と声に出すことはなんとか堪えることが出来たけれど――
「今吉、居酒屋でまで勉強? だったら家帰ったほうが良かったんじゃないの?」
 ――さっきは飲みほしたはずの言葉が嫌みったらしい口調と一緒に口から飛び出してしまう。
 だってそうだ。酒の席で勉強おっぱじめる人間がどこにいる。
 そう思って顔を顰めれば、当の今吉はへらへらと笑ってその参考書をテーブルの上に置いた。
「いやぁ、とまだまだ話したかったしなぁ。せやけど、勉強はしなアカン思って。ま……とかなんとか言いつつ頭になんてほっとんど入らんやろうけどな」
「じゃあ仕舞ってよ。なんかやじゃん。わたしまで勉強してる気分になるしさ」
「う~ん、そやねんけど……なんちゅうか、ワシも流石に安心出来へんちゅうか……妙に不安やねん」
「そ、れは……分かるけど」
「なぁ? 置いとくだけならえぇやろ?」
「せめて座席でお願い。テーブルの上は……ナシで」
「……りょーかい」
 素直に頷いて参考書を持ち上げた今吉が鞄の上へとそれを置いたのだろう、手ぶらになった肘をテーブルの上に付くと一緒になってメニューを眺め始める。


 それからお互いに気になったものを注文して、酒と一緒に運ばれてきた料理をつつきながら学校のことやバスケのことを話していたときのことだった。
 今吉がまた思い出したように「あ、」と呟いてこちらに視線を寄こした。
「どうしたの?」
「いや……ちょっとここに人呼んでええ?」
「え。誰?」
「宮地クン」
「宮地くん!? わたし接点ないけど!」
「ん~? まぁ大丈夫やろ。あの人コミュ力高いしそんなん心配いらんて」
「そういうわけじゃなくて……」
「な。呼んでもええ?」
「……来るか分かんないよ?」
「いや、来るやろ。あの人意外と飲み会好きみたいやし。今日一日オフやーってtwitterで言うとったしな」
「……はぁ」
 今吉がこうしてわたしと一緒に遊んでいるときに誰かを呼ぼうとするのは、これが初めてだった。
 確かに今吉と宮地くんは高校時代からバスケを通して面識があったり、大学に入ってからもちょこちょこ一緒に遊んだりとかで仲がいいのかも知れないけれど、今吉だって分からないはずないだろうに、わたしが面識のない人間を苦手とすることくらい。
 そりゃ私だって宮地くんの名前と顔くらいは知ってるし、今吉を通じてどんな人かくらいかは認識しているけれど、でも、それだけだ。
 わたしにとってはまだ十分他人の域を出ない人で、そんな人と初めてちゃんと話すのがこんな場だなんて……。
 それに、今吉と楽しく話している時間を邪魔されたくないという気持ちもあるのが本音だった。

 高校時代、桐皇の面々にもからかわれるように何度も言われたものだ。
 特にお互い親交のある諏佐なんかには「は本当に今吉の前だとはしゃぐよな」とか言われる始末であるし……
 そのときも勿論今吉は一緒に居たのだけれど、それに「まぁはワシのこと大好きやからなぁ」とか言って返していた。
 わたしはといえば、そんな茶々に気の利いた言葉が返せなくなるほどそのやり取りにどきまぎしていたというのに。

 ……確かに、楽しいよ。
 今吉と一緒にいると気を遣わなくていいし、なのに今吉はわたしに気を遣ってくれるし。遠慮するとこしないとこ、ちゃんと分けて接してくれるし。本当に、なんでわたしと仲良くしてくれてんだろって思うくらいには、わたしにないものをいっぱいもってる人間だし。
 だから時折、無性に寂しくなって、どうしようもなくなって、自分を馬鹿にしたくなって。
 ……けど。そんなときに頼るのもコイツなんだから、わたしは本当、それこそ「大好き」なんだろうと自分でも分かっていた。
 突き放すような真似がしたいのにまだまだ一緒に馬鹿やって騒いでいたくて、一緒に居られる時間を伸ばすことに必死で。そうしている内にいつの間にか自分の気持ちに気がついてしまった。
 自分が、この男の一番でいたい、とか。そんな甘い考えを抱いているってことに。
 そしてそれが多分――無理だと分かっているからこそ欲してしまうのだということも。

「……やっぱり、二人でこのまま飲もか」
 見るからに気落ちしていたのだろう、そんなわたしを励ますように今吉がにへらと笑ってそう零した。
 その優しさが辛かった。けれどもわたしは、縋るしかないのだ。
「……いいよ、呼んでも」
「え? エエってエエって。相手にも都合があるっても言うてたやろ? あ~せやなぁってワシも思ってな」
「ううん、無理しなくて良いよ。わたしは平気だし……宮地くんとも仲良くなりたいし」
「……ほー……そうか」
 言ってて、少しだけ悲しくなった。
 たぶん宮地くんがここに来たら、今吉と二人にしか分からない話が始まって、わたしは大学の慣れない飲み会みたいにきっと愛想笑いしか出来なくなるに違いない。
 それに今までの少ない情報を総括した限りで宮地くんは気さくそうな人であるし、そんなわたしを気にかけてテンションが落ちてしまうかも知れない。そうなったら今吉はたぶん、わたしを見て申し訳ないと思うだろう。わたしがもう少し気の利く――それこそ諏佐みたいに優しい人間だったらよかったのに。
 さっき今吉が参考書を取り出した時だってそうだ。
 きっと諏佐なら、あんな風にキツく当たったりなんかしないで、気の利いた言葉の一つや二つぽんぽんと膨らませて今吉の緊張を上手くほぐしていただろう……とかなんとか考えていたら、まぁ、なんというか……余計に空しくなってきたから、そこで止めた。
 宮地くんが来たら適当に理由を付けていい時に帰ろう……
 たぶん、その方が二人にもいいはずだ。
 ――そう完結して思考に擲っていた視線を今吉へと向ければ、眼鏡越しの瞳がこちらをじっと射抜いていたから、思わずびくりと背筋が震えた。
「……今吉?」
 いつもみたいに名前を呼べば、今吉が驚いた顔でこちらを見つめる。
 今見た鋭い視線は何だったのだろうと思う、気の抜けた顔で。
「へ。何やねん、
「何やねんじゃなくて、今わたしのこと見てたでしょ」
「……あぁ……おん、すまん。なんでもあれへん」
「で、宮地くんは?」
「んー……今日はええわ。もあと二時間くらいで帰らなアカンやろ。明日も授業あるんやし」
「まぁ……そうだけど」
「三人で遊ぶのはまた今度、やな」
「……あんたから言い出したんだけど?」
「まぁまぁ、細かいことはえーやんか」
「べつに……わたしはいいけど……」
 なんだか腑に落ちないなぁと思いながら、まぁ、呼ばないならそれはそれで良いだろうと思うことにした。
 さっきまでぐるぐる渦を巻くみたいに存在していた嫌な気持ちがすっぽりと頭から抜け落ちる感覚にわたしはすっかり落ち着きを取り戻していて、もしまた今吉に連れられ三人で遊ぶ機会が来るのだとしたらその時は、きちんと心の準備をしていこうと思った。


 それから二人でゆっくり酒を飲んでいると、先ほどの微妙な空気も忘れ話に食事に盛り上がり、些細なことも笑えるような楽しく酔えた気分を久しぶりに味わえてわたしはなんとも饒舌なお喋り野郎に変貌を遂げていた。
「でもさぁ、なんか来ないって分かったら逆に気になってきたなぁ、宮地くんのこと」
 うすらぼけた視界の先で今吉が頬杖をついてこちらを見ているのがぼんやりと見える。
 紅潮した頬のほてりを冷ますようにおしぼりをほっぺたに宛がえば、ひんやりとした水気がわたしの肌と心臓を潤わせた。
 あともう少しで帰らなくてはならないという逸りもあったかも知れない。
 気が落ち着かなくて、忙しなかった。
「学校のこととか、あと……恋愛のこととか? 初対面なら聞けそうな気もするしさぁ……」
 次今吉に会えるのはいつかなぁ、なんて思いながら、わたしは自分でもよくわからない内に言葉を発してしまっていた。
 ――その、直後。
「……多分、には合わないんちゃうかな」
 ぼそっと呟かれたその言葉は、空気を揺すりはすれど夜を迎えた店内の賑わいにかき消されて、こちらの鼓膜へ到達する前に消えてしまう。
 それは普段の今吉では信じられないほどにか細い声だった。
「え? よく聞こえなかったんだけどー? もっかい言って」
 なんと言ったのか素直に気になり首を傾げながら、人差し指を上に突きだして問えば、ぼやけた姿の今吉はわたしに呆れたように肩を竦めると大きくため息を吐いてから、くすりと笑った。
「ワシから話せる面白い話はなーんにもあらへんで~言うたんや」
「えー」
「えーやない」
 良い感じに酒の入った頭では今吉の笑顔もよく見えないばかりか、放たれた言葉についても「へぇ、そうか」くらいの認識しか持てなかった。
 そんな心地だったからか、自分から吹っ掛けた癖に宮地くんの話しも忘れて、会話が途切れた瞬間思い出したように「ああ、もうすぐ帰らなきゃ」とか、そんなことを思ってちょっぴり寂しくなって。

「わたしさぁ、今吉のこと大好きだわ」
 酔いの入った今なら言っても許されるような気がして、いつぞやにからかわれたことを引き出しから引っ張り出して投げ放ってみたものの。
 口から出た声色のその思ったよりも真面目なそれに自分でも驚いてしまった。
 そうなってしまえば、この言葉が本心だということが伝わらなければいいと、わたしは祈ることに必死になるしかなかった。
 ――だから、
 今吉があのときどんなつもりで三人で飲もうと誘ったのかも、いまわたしが言った言葉に今吉がどんな表情を浮かべていたのかにも、わたしは全く気がついては居なかった。
「何やねん今さら。知ってるわ、そないなこと」
「……だよねぇ」

無知の知