「『なんていうかさ、拍子抜けだよね』」

 私を組み敷きながら、まるで日常会話のそれのように球磨川先輩は紡いだ。今しがたブラウスのボタンに手をかけようかというところで、うんざりしたように肩を竦めてそんなことを言われたものだから、私としてもどうリアクションを返していいのか分からなくなって、ただ茫然とされるがままになっていた。

「『ちゃんにはさ、羞恥心とかないの? いま襲われそうになってるんだよ? 抵抗するとかないの? 男としてはさぁ、少し涙声でや、やめてください……! とかそれらしく懇願されたりして、それを全く相手にしないで乱暴に犯してやったりするのが好きな訳だよ。それは僕にも言えることでさ、まぁ実際中身はいわゆる一般やら普通のそれとはかけ離れているんだけれど、だからこそそういうのを味わってみたかったっていうか。まぁなんていうか、アレだ。手っ取り早く言えばそう! とりあえず、だ。ちゃん、さっさと泣いてくれないかな?』」
「え、えぇー……? そう急に言われても困りますよ」
「『僕も困っているんだよ。急だからこそ泣いたりわめいたりするもんなんじゃないの? こういうのって』」
「知りませんよ」
「『一男子高校生の性的欲求に基づいてそれらしくふるまってはみたものの、僕自身に剣幕が足りなかったのかも知れないね。なんせこういうのは初めてだからさ!』」
「そうですか」
「『うん』」
 そこまで意見のような白々しい言葉の羅列を並べると、球磨川先輩はあっさりと私の上からどいた。結局何がしたかったのだろう、と頭に疑問符を浮かべていれば、彼がやれやれと首を振るって私を見やった。君は何も分かっていない――ため息のようにそう呟いて、閑散とした、誰もいない教室の教卓の前まで歩みを進めると、そこから私を睥睨する。

 球磨川先輩は、一言で言ってしまえば「変な先輩」だ。
 “そこのきみ! ちょっとごめんね。善吉ちゃん呼んでくれない?”
 同じクラスの人吉善吉は、その名前からする人畜無害っぷりからして、一癖も二癖もある人間から好かれやすい。幼馴染である“めだかちゃん”は勿論、この人も例外ではなかった。
 生徒会の仕事に関しての連絡とかなんとかで、たまたまクラスに用事があったのだという球磨川先輩は、私たちのクラスに赴くと、これまたたまたま入口近くに居た私にそう喋りかけた。なんてことのない口調で、どこもおかしなところはなかったけれど、そのときクラスに居た私を除く全員が黙りこくって、彼から視線を逸らしていたのをよく覚えている。
 私はまだ、このときは、球磨川先輩のことは名前と顔しか知らなくて、今よりもずっとよそよそしい態度を取ってしまったように思う。
 “ああ……人吉なら、視聴覚室に行ってますよ。黒神さんに連れられて。”
 “…………。”
 “あのー……先輩? 聞いてます?”
 “あ、ああ……視聴覚室ね。ありがとう!”
 私の返答にワンテンポ遅れて、先輩はどこか、それこそ「へんなもの」でも見るように私を見ていた。自分から話しかけたくせに失礼な人だ――と思って、それからしばらくは会うことも無かったのだけれど、いつのことだったか、また、同じように人吉の居場所を聞かれて、答えて……そうしている内に、彼はいつしか私のことを名前で呼ぶほどに親しい人間になっていた。
 あのとき、クラスの人間がどうして彼と距離を取るような態度を取ったのか、最初は先輩だからかとも思ったけれど、どうやらそれも違ったらしく、そうなってしまえば私には理由が分からなかったが、未だ誰にも聞けずにいる。聞かなくてもいいや、と私が思っていて、ずるずると先延ばしになってしまっているだけとも言えたけれど。

「『なにその顔、納得いかないのは僕の方だぜ。ちゃんがそんな尻軽だとは思わなかったよ』」
「べつに……尻軽じゃあないですよ」
「『拒否らなかっただろ。……ま、でも、あのまま無理やりやるのがアダルトビデオのセオリーって聞いてたけど、実際にやろうとすると難しいんだって分かったのが今回の唯一の収穫かな! 嫌がる女の子にそんな事出来ないって話だよね、まったく!』」
「嫌がってなかったですけどね」
「『ああ、そういえばそうだった…………って、え?』」
「……え?」
「『いや、……いま、ちゃんさ……』」
「……はい」
「『嫌がってなかった、って言わなかった?』」
「言いましたよ」
「『……なにそれ』」
 だが――私はそんな先輩のことが嫌いではなかった。
 皆がどれだけ彼に嫌な顔をしようとも私には関係のないことであったし、事実こうしていつも私がおしゃべりしている球磨川先輩は、それこそ“人吉とあまり差別ないくらいに人畜無害である”し――、彼が私を押し倒した時、別にこのまま最後までやられちゃってもいいかな、って思っちゃうくらいには、“嫌いじゃなかった”し。
「『ええっと、つまりは僕とセックスしてもいいって思ってたってこと?』」
「この場では身体痛くなりそうだしちょっとなぁ、って思いましたけど」
「『いやいや! 大事なのはそこじゃなくてさぁ!』」
「思いましたよ」
「『…………マジ?』」
「マジもマジ。大真面目ですよ」
「『うーん……なんていうか、前からヘンだなぁって思ってたけど……ぶっちゃけきみ、頭のネジいかれちゃってんじゃない? 回し直してあげよっか?』」
「ああ、大丈夫です。遠慮しときます」

 教卓のほう、一際大きな机に手をついてこちらに身を乗り出していた先輩が、また私の元へ戻ってくる。怪訝そうな顔と愉快そうな顔が混じって、なんとも気色悪い顔になっているのを見て笑えば、普段は明朗に伸ばされている眉間のしわがこっそりと刻まれて私を睨んだ。
 自分から襲ってきた癖に、何が納得いかないんだろう――そう思っていたら、目の前に先輩のその、面白おかしい顔。あ、キスされた。どうしよう。まず一番にそう思って、硬直する身体に、ああは言っていたもののやっぱり緊張していたんだな、とこんなときにふと、自分を客観視してしまう。
 頭の後ろに華奢な手のひらが当てられているのが分かって、胸とか押し返したほうがいいのかな、拒否ったほうがいいのかな、でも別に厭じゃないし。次にそう思って、アダルトビデオのセオリー……は分からないから、恋愛漫画のセオリーに則って、とりあえず先輩の背中に腕を回せば、ぴくりと震える先輩の肩、直後に、後頭部の手も、唇も離される。呼吸が自発的に出来るようになった唇に違和感を感じながら、ぼうっと球磨川先輩を見上げれば――「『ちゃんさぁ……それ無意識?』」「……え?」「『ほんっとーに拒否しないんだもん! 腕も回してくるし、唇も……なんかふにふにしてるし。さっきから良い匂いする気もするし……きみも女の子だったんだね』」「……そうですけど……」
(あ、球磨川先輩、なんか困ってる……?)
 寄せられていた眉根が緩められ、目じりが少しだけ下がっている。
 男の子にしては潤いのある肌と唇。大きな黒眼を煌々と輝かせて、私を見下ろしている。
 キスしたとは思えないくらいのいつも通りさに、回していた腕を下ろし、首を傾げていれば「『いま、僕たちキスしたんだぜ?』」確認みたいに、茶化すみたいにそう言うから、そうですね、という顔で一つ頷いて返した。先輩の唇もふにふにだったから、私の唇が軟らかかったんじゃなくて、先輩の唇が軟らかいだけだったんじゃないですかね、と続けようとしてやめた。恋愛漫画では、そういうことは言わないものだと決まっているのだ。それに総じて、やわらかいのも女の子と決まっている。
「『やっぱり、ネジいかれてるぜ、ちゃん』」
 どこから取り出したのか、大きなネジ。三十センチはありそうなそれを、球磨川先輩は楽しそうに弄んで、私に見せびらかす。
「言葉尻を貰うようですが、それ、私のネジじゃないですよね」
「『やっだなー、そんなわけないでしょ。違うよ。僕のネジだ』」
「なら良かった」
 ふと、その大きなネジを見て、クラスメイトの一人がこんなことを言っていたのを唐突に思いだした。
 “球磨川先輩は普通じゃない。”
 私は最初その意味がよく分からなくて、普通じゃないってどういうことだろう、と人吉に聞いたような気がする。確か、人吉は私のそんな意味の分からない質問に「普通じゃないって思ったら普通じゃないんだろう。、てめーはめだかちゃんを見て普通だ、って思うか? つまり、そういうことだろ」と答えて、それっきり、言葉を続けようとしなかったから、なんとなくあまり言葉にして言いたくはない類のものだろうなとは理解した。
 でも私は、人吉のいう普通じゃない、という基準も、よく分からなかった。
 だって、“めだかちゃん”も、“球磨川先輩”も、何もおかしなところはない、普通の、ごく普通の、それこそ漫画に出てきそうなくらいありふれた人だっていうのに、何をそんなに奇特な扱いをしてあがめようとするんだろうって、そう思ってしまったから。

「『ところでちゃん』」
「はい」
 ネジをどこかに仕舞って、両手を肩のあたりまで掲げた球磨川先輩が、私の名前を呼んだ。
「『僕は君のことがどうやら気になって気になって仕方がなくって、さらには好きかも知れなくてキスだけじゃなくて勿論セックスもしたいし、その先にも君となら進んでいけるんじゃないかってそれこそ幸せに普通のありきたりでクソみたいな夢を描きかけてしまっているわけなんだけども、それに関してはどう思う?』」
「ええーっと……別にいいんじゃないですかね? 個人の自由ですよ」
「『そっか。それは良かった。じゃあまた僕が今、ここで君を組み敷いたとしてもそれは合意のもとってことになるわけだけど、いいかな?』」
「うーん。ここはちょっと、体が痛くなりそうなので、別のところが良いかなって思います」
 好き、かぁ……。
 言われてすぐは現実味がなくて咀嚼しきれなかったけれど、笑顔で迫りくる球磨川先輩に好意を寄せられているのだと気づかされて、一気に顔が紅潮してしまうのが分かった。私は彼のことを嫌いでは無くて、むしろ好きで、それは身体を許してもいいと思えるくらいで――(あれ?)ってことは、今の状況って私が望んでいたものでもあるわけで、それってつまり、
(私たちってもう、付き合ってるって認識でいいのかな、)
「『じゃあ行こうぜ。ラブホテル。お金は僕が出すよ。こういうのは男が払うのが鉄則だろ』」
「それもアダルトビデオのセオリーですか?」
「『え? 違うよ。そもそも僕はそういう下品なものは見ないからね!』」
「良かった。安心しました。他の女の人の裸とか、見てほしくないですもん」
 ぐるぐると回る思考の中で、つい思っていたことを言ってしまったような気がする。固まる球磨川先輩の、ぎろりとした瞳と視線がかちあって刹那、私の右腕が彼の左手に乱雑に掴まれる。
「『…………やっぱり僕の家に行こう。うん。そうしよう』」
「え?」
「『おおよそ人には見せられないアブノーマルなプレイを沢山したいんだ。いいだろ?』」
「…………はぁ」
 思ったよりも、熱い左手に掴まれた手首がじんじんと痛む。
 そのままの格好で教室を出て、二人廊下を速足で歩く。きゅっきゅとタイルの擦れる音。これから何をされるかということよりも、球磨川先輩にも家があったんだということに私は驚いていた。
「『これからも君には使うことが無いんだろうなって思うよ』」
「……? 何をですか?」
「『僕の高級ネジ回し』」
 言って、球磨川先輩は私を引っ張っている方とは逆の手に、またネジを持つ。仕舞ったり出したり便利なネジだなぁとそれを見つめていると、球磨川先輩は「『きみってほんとに変だよなぁ。変で変で一周して人間になれたって言われても疑わないくらいには変だ』」「『でもそこが良いんだけど』」そんな事を言いながら、楽しそうに笑った。

「『ちゃん、好きだよ!』」
「私も、嫌いじゃないですよ」
「『つれないなぁ。好きって素直になっても良いんだぜ?』」
「じゃあ、好きです」
「……えっ?」
「?」
「……えーっと……ウン。女の子がそう易々とそんな事口にするもんじゃあない」
「はぁ……そうですか」
 僅か前を歩く学ランは、この学校では彼一人。どこに居ても見つけられたし、どこへ行っても見つけられる自信があったから、以前から、自分でも気がつかぬくらい私は彼のことを気にかけていたのだと気づかされた。
 ――それにしても、気になったことがひとつ。
「……先輩、もう格好つけるのやめても良いんですか?」
「え?」
「でもまぁ私は、そっちの方が“先輩らしくて”いいと思いますけど」
「……やれやれ。そんな分かりきったお世辞なんて、いまさら僕に言っても何も出ないぜ、ちゃん」
 一瞬の真顔の後、少し遅れて彼が笑う。それは驚きよりも、どこか照れた口調で、初めて聞くような声色であったから。 私の心臓がまたどきりと跳ねて、反射するみたいに先輩の丸い両の瞳から視線を逸らしてしまう。
 ――直後、手首から遠慮がちに手のひらに繋ぎ直された熱。
 それに倣う様に思わず先輩の顔に視線を戻せば、こちらを見ないようにしているのか、耳を少しだけ赤らめた背けられた横顔が見えて。 つられて恥ずかしくなる気持ちを誤魔化しながらそっとその手を握り返すと、私はまた、強い力の込められた華奢な手のひらに引き摺られるようにして歩き出した。

地獄へ未知連れ