綺麗な女性が、絡まれていた。色とりどりの派手なスーツと、恰幅の良い身体、下卑た視線――チンピラでも最下層の人間か、サングラスをちらりと光らせて、女性の手を引きずるように掴んでいる。神室町の、ネオンに当たらぬ人気のない道へ誘うように、その女性を囲むようにして、ぞろぞろと妖しい集団は歩いていく。
 ――助けなければ、と思った。
 人間としての反射の、必要最低限のラインは超えて、ただがむしゃらに。助けなければ、と思った。
 “思った”が――それこそ、ほぼ反射の領域で身体は寸どの所で止まった。その間も、無情にも女性はどこかへ引っ張られていってしまう。片手を伸ばすふり。“彼女”と目が合う。助けなくちゃ。でも、私なんかが行ったところで助けられるわけがない。最悪、二人とも――いや、そんなことを言っている場合じゃない。けれども。けれども足は縫いとめられたまま、彼女の視線に、縫いとめられたまま。
 「たすけて」と、そんな声が聞こえる。視線の奥が、私を非難しているのが分かる。それでも、助けなければ、と――感情はただ、脳裏によぎっただけだった。

 ピンク通り裏の、ビルとビルの隙間。彼女はもう振りかえらなかった。私に愛想を尽かしたのか、それとも現状を受け入れてしまったのかは分からないが、私はそれすらただ見つめるだけで、助けることも逃げることも出来なかった。どんどんとその背中は小さくなる。チンピラは、我が物顔で通りを歩いている。もう誰も自分たちのことを咎めないと思っているのかも知れない。その証拠に、私以外にもその場には人が居たが、誰もが見て見ぬふりをしていた。日常とは、そういうものだった。彼女を助けるということは、この町では特に重要視されるようなことではなかった。呆然と立ち尽くす私のほうが、今では目立っているくらいだった。
 このままもし、彼女が乱暴されてしまったら、私は間違いなく後悔するだろう。でも、それでも、私は彼女を助けてくれる人間が現れるのを待っているだけしか出来ない弱い人間だった。自分がそういう目には遭いたくないから。遠巻きで見守って、助かるところも見守って、それで「良かったね」ってほっとしたいだけの浅ましい人間だった。
 カラカラ。
 ピンク通り裏の、角にさしかかろうというところ。
 笑うような、乾いた音。
 それが金属がコンクリートにぶつかる音だと気がつくのには時間はかからなかった。前のほうからのそのそと歩いてくる、裸にパイソンジャケットを着込んだ、眼帯の、男の人――異様だと思ったが、その様がやけに似合っていたから、女性に透けてこちらをじとりと見やるその片方の瞳と視線を逸らすことが出来なかった。カラカラ、カラカラ。彼が歩くたび、革の手袋に覆われた左手が持つ金属バットが、地面に擦れて、コンクリートの凹凸に合わせるようにして音を鳴らす。
 カラカラ。
 私が注視してしまうほどだ、チンピラも気になったのだろう。彼女のほうを見ていた首が、彼に向けられた。
「関心せんなぁ」
 カラカラ。
 僅かに笑って、彼はそう言った。金属がコンクリートに擦れるような、妙に乾いた笑い声だった。



 *



 チンピラの――ただしく言えば、極道者の集まりであったその集団の中、たった一人は酷く聡明であった。今この瞬間さえもつまらないと感じるほどに、惰性で今を過ごしていた。こうして下の人間は、形だけでも上の人間を敬わなくてはならない。それがたとえ自分の性分には合っていなくとも、白を黒だと思わねばならない。そして彼にとっては今がまさに、その瞬間の一つであり、けれども受け入れられない時間の一つであった。
 女性を乱暴するということは、彼のなけなしのモラルに反していた。
 誰かが助けてくれればいいのに――と、渦中の人間でありながら、これから彼女を襲うであろうあれこれを勝手に想像し、祈ってみたりもした。その助ける人間が、自分だったらいいのに、とは、一度たりとて思わなかったが、彼はそれをモラルに反した思考だとも思わなかった。だからこそ、こうして今もただの惰性で、こんなつまらないことを続けていられたのかも知れない。
 その証拠に、案の定、そのカラカラという掠れた音に気がついたのは、彼が一番であった。恰幅のいい男の背後につくようにして鼻からゆっくりと息を吐いていた彼は、目の前から誰かが近づいてくる気配に思わずそちらを注視する。暗がりの道に進んだのだ、誰が現れたのかということは、間もなくのところまで近づかれるまで分からなかった。やがて、そのやけに耳につく掠れた音が金属バットの擦れる音だと気づき、そして引き上げた視線にパイソンのジャケットが映りこんだのだから驚いた。
 この世界に入って、名前と格好だけは嫌でも覚えた。
 蛇のような灰色の瞳と、その柄のジャケット、きつく肌に張り付いたレザーパンツと、つま先に加工の施されたバイカラーシューズ。
 ――真島吾朗だ、
 と、息を吐くままに呟けば、目の前の男が高らかに笑う。控え目なその声は、コンクリートに擦れるバットと同じ音に聞こえた。これから何のためらいもなく、自分たちを殴りつけるであろうバットと、奇しくも同じ音に聞こえてしまった。
 この状況に、危機を感じているのは己だけであった。自分の周りにはあろうことか相手があの“真島”だと分かってなお、立ち向かおうとする馬鹿しかしなかった。連中に囲まれた女でさえ、奴もこちらの仲間だと思いしきりに震えている。
 こうなってしまえばもう、組織というしがらみなど必要のないことなのだと気がついた。上には上が居たが、狭い世界に生きていた己の上司は、もっとも大きな人間とぶつかったときでさえまだ、そのちっぽけなプライドを守ろうとしているのだと分かった。興ざめだった。
 東城会傘下の人間であると伝えたところで、何の意味もなさないだろうな、と思った。
「一人の女の子を寄ってたかって……関心せんなぁ」
 このまま逃げ果せてしまおうかと思った。
 けれどもどうしてか、男の足はその場に縫いとめられたように動かなかった。

 自分もその馬鹿な人間の一人だったということに気がついたのは、病院の天井を視界に捉えてすぐのことだった。



 *



 音の出所がバットだと気づいた後は、彼の革靴が鳴らすカツカツ、という軽妙な音の方が気になった。
 ――関心せんなぁ。
 彼はそう言って腰を折り、チンピラと同じ目線まで下げると、顔を窺うように覗きこんでにやりと笑う。言葉の割りに、楽しそうな声色だった。まるで、「さっさとやれ」と言うくらい、それは彼らの行為を促しているようにも思えた。彼の登場に、幾らか自分を囲む男たちの雰囲気が変わったのが分かったのだろう、囲まれたまま両腕を抱え込みじっと俯いていた彼女の小さな声は私の鼓膜をも震わせた。
「……助けて」
 けれども、その声はチンピラの癇に障ったようで、彼女の腰を抱くようにして掴んでいたリーダー格の男が声を荒げた。
 ……正確には、“荒げようとしていた”。
 誰も助けちゃくれねぇよ――途中まで発せられたその言葉は、言い終わる前に宙を舞ったのだ。覆いかぶさるような、ガコン、という重く鈍い音。鉄柱が折れるような鈍い音は、地面に反射してもう一度頭の中に響くようだった。
 ――彼が、殴ったのだ。
 携えたままの金属バットで、思いっきり、その男の頭を。
「おい。誰の許可貰うてお喋りしとんねん。あ?」
 びくん、と、彼女を取り囲む男たちの肩が跳ねる。
 威圧、殺意、なんと例えていいのか分からなかったが、今、彼はその類のものを発しているのだと思った。張りつめた空気を切るようにして、彼女を置き去りにするように男たちが彼に向っていく。
 “助けなければ”――、と思った。
 助けなければ、死んでしまう、と思った。
 さっきは縫いとめられたように動かなかった足が、前へ進むことに驚いた。少しだけ彼らと距離があったために、辿り着くまでの数歩の間にも、ガコンガコン、と鈍い音が何発も聞こえてくる。一人、また一人と倒れていって、私がそこに立ったときはもう、誰一人として彼女を囲んではいなかった。
 男たちが倒れても尚、腹や足など、見えるところをバットで叩きつけようとしている彼の、バットを持つ手をほとんど反射的に掴んだ。私の力だけでは彼のバットを振りおろす力を殺しきれなくて、掴んだバットの先が、私の腹部を抉るように掠めていく。けれども今はそれを痛いと思う余裕さえ無かった。
「……なんや? 嬢ちゃん。今エエとこなんや。邪魔せんといてぇや」
 私の突飛な行動に、ぽつんと佇むだけであった彼女がその場からあっさりと立ち去る。屍のように倒れるチンピラたちと、それに追い打ちをかける男。乱暴で、怖くて、何を考えているのか分からないその男の視線が、びっちりと逸らされることなく私に向けられている。
「……それ以上は、関心しません」
 絞り出した言葉は、彼の琴線を揺らすことに成功したらしい。
 にやりと笑って、彼が立ち上がる。地面に一度も付いていないズボンのお尻を叩いて、「せやなぁ」今までの行動も言動も何も感じさせないような、能天気な声で。
「よー考えたら、わしもそう思うわ」
 首をぽきりと鳴らしながら、彼がそう放って、金属バットを床へと擦りつける。カラカラ。彼が笑っているのか、それともコンクリートが鳴っているのかは分からない。

 元々人通りの少ない道だった。それでもまだぽつぽつと残る人影と、傷だらけの男たちはそのままにして、彼へと会釈をすると私は歩きだした。これ以上、かかわる気などなかったからだ。けれども彼は、ほんの今まで人を殴っていたとは思えないほど嬉々とした顔で私の隣に並ぶと、血のついたバットなど隠すそぶりすら見せず、音を鳴らしながら私に問いかけた。
「なぁ嬢ちゃん。わしの女にならんか?」
 思わず、足が止まる。
 合わせるようにして、彼の足も止まった。
「……無理です。人を殴るような趣味はないので」
「……そうかぁ。そら残念やけどしゃーないわな」
 彼の方を見て、きっぱりと言い放つ。いきなり何を言い出すのかと思ったが、態度を見るに本気ではなかったらしい。お茶らけた様子からは、先ほどの血の気の多そうな視線は微塵も感じられなかった。彼は私の返答に緩やかに口角を上げると、うなじの辺りに手を添えながら、わざとらしく僅かに目を見開いて思い出したように口にした。

「そういえばさっきの女は助けへんのに、男のほうは助けるんやなぁ」
 彼の言葉が、耳を通り抜けて、心臓を突き刺したような気がした。
 次いで、少しの間をおいて彼女の顔が脳裏に過る。
 どうして知っているのだろう、いや、そもそも、あの距離で、あの暗がりで、チンピラを掻きわけるようにして、私と視線が合ったこと自体がおかしかったのだ。
「見てたんですか」
「見えることでやってんのが悪いんやろ、あーいうんは」
 悪びれる様子もなく、金属バットを地面から上げて肩に乗せた彼が、ぽんぽんと肩を叩きながら言ってのける。
 角の先から現れたように見えた彼は、もっと前からあの場に居て、私たちを見ていたのだ。見ていながら、助けようとはしなかった。私のように、迷っているという訳でもなく、最初から、ただ「何か」のタイミングを待って。そしてあの瞬間にその「何か」が訪れて、彼は私たちの前に出た。ただそれだけだったのだ。
「……助けたんじゃないですよ」
「ほぉ」
「あのまま続けられてたら、気分が悪くなりそうだったので」
「女の方は? あっちは何で手ぇ出さへんかったんや」
「怖かったんですよ、私も、女ですから」
「ハッ、わしは怖くなかったんちゅうんかい、こらけったいやのう」
 嘘を吐いているわけではないけれど、今こうして形にした言葉に小さな矛盾があるのは私にも分かっていた。鼻で笑われ、彼の馬鹿にするような態度に言い得ぬ心地の悪さを感じて、止めていた足を再び前へと進めれば、そんな私を遮るように、彼が私の進路上に立ちはだかる。
「アッカンなぁ〜〜嬢ちゃん。アマアマや!」
 大げさな身振り手振り。肩を叩いていたバットが、宙に振られ、上下に揺れている。街灯のほんのりとした明かりさえなかった路地裏。そこから出た今なら、はっきりと見えた。暗くてよく見えなかった彼の、上半身、ジャケットに隠されていた胸板が、ようやく眼前に晒される。色とりどりの、模様――刺青が、本来の色よりも濃くなってそこに存在していて、私を睨んでいた。
 あんなにも強い彼がヤクザであると気がつくのに、どうしてこんなにも時間がかかってしまったのだろう。
 楽しそうな表情と、肋の浮きあがったわき腹とは反対に隆々な胸板、腹筋――。
「……今更何も無かったみたいにお別れ出来るとでも思ってたんかいな」
 視線を滑らせていれば、宙に揺れていたバットがガツリと地面にぶつけられる。ワントーン低くなった彼の声と、変わらずこちらを射抜く灰色の瞳に言葉を言いあぐねていると、カラカラとバットがコンクリートを走った。
「…………冗談はやめて下さい」
「生憎、笑えん冗談は言わん主義やねん。それに出会いも大切にしなあかんしな」
 そう言うと、彼の唇は温度を感じさせない形のままで固まって、次の言葉を発する刹那、見間違いかと見紛う一瞬だけ、口角がゆるりと弧を模した。ぞくりと、背筋に悪寒が走るような、見たことのない類の笑みだった。恐らく、それが彼の本質なのだろう。無遠慮に人間を殴れるような、暴力的な部分ではなく、落ち着いた、穏やかな狂気。
「すまんかったなぁ……こう見えてもわし、甘い物には目がないねん」
 ――さっきのように茶化してくれたら、いっそ笑えたのに。
 けれども彼はそんな期待を一蹴するように、明朗な声色からは感じられぬほど、獰猛な光をその瞳に宿しながら私を見ていた。
睥睨