ちゃんさぁ、マスクとか持ってへん?」

我が社の取締役である真島吾朗は、その見た目に反して、なんというかとてもフランクである。
パイソン柄のジャケットに本革のつやりと光る黒いパンツ、スワロフスキーのような輝きを放つ蛇の装飾が施された眼帯は左目に、カラーなんて経験したことなど無いと言わんばかりに蛍光灯に当てられ青く反射する黒髪はテクノカットに切りそろえられて、その全てが相まってなんとも奇抜な雰囲気を醸し出している。
ジャケットの下は何も着ない、というのが彼のポリシーなのか、その素肌には太鼓柄の刺青がちらりとこちらを窺っていて、彼がいわゆる堅気と呼ばれる人種ではないことを表していた。入社初日に「社長」なんて呼び方は自分の柄ではないからと即座に却下し、私や組以外の社員から平等に「真島さん」と呼ばれている彼は、真島建設の取締役であり東城会という組織の幹部でもあったのだから驚きだった。

いつものように事務所にて雑務をこなしていれば、頭に黄色のヘルメットを被った真島さんが私の肩を叩いた。真島建設、と自身の名前が書かれたそれを、まるでファッションの一部のように被りこなせるのは本人であるこの人と西田さんだけなんじゃないかという疑惑が最近私の中で話題になっているのはここだけの話で。
「……マスク、ですか?」
「おう」
短く返事をすれば、更に短い返事で返される。
風邪でも引いたのだろうか。確かに鼻の頭が少しだけ赤らんでいる気がしないでもない。ずびり、と返事とともに鳴らされた一つの音に私は思わず睨みつけるように真島さんを見遣った。
「マスクよりももっと大事なものがあるのでは?」
「あ? ああ。……もしかしてちゃん。風邪やと思っとんのとちゃうやろな」
目を細めて怪訝そうな表情を浮かべた真島さんが、私の右肩に軽く肘を置きながら口を尖らせる。四十半ばにしてそんな顔をしても許されるのはずるい。……と思いつつ、横目で彼の挙動を窺いながら私は面倒くさそうに言い返した。
「思いますよ。心なしか鼻声に感じますし」
事実、今日の真島さんはどこか元気が無い様子で、普段の年齢を全く感じさせないテンションはどこへやら、少しだけ大人しいようにも見えたから、その要因であろう気付いた点を述べれば、舌打ちでもしそうな勢いで真島さんの顔が顰められる。
「……風邪やったらまだ我慢出来たわ」
「……? じゃあ何なんですか?」
私の肩にかかっていた負担が無くなったかと思えば、徐に私の隣の椅子がきぃ、と音を立てる。そちらに視線を送れば、椅子を両足で跨ぐように座り背もたれに両腕を組む形で置いた真島さんが、その腕の上に顎を乗せながら渋々答えた。

「……スギ」

「はぁ……」
ぽつり、と。不貞腐れた声が事務所に響いて、私は頭で考えるまでもなくため息を零してしまう。

「あッ! スキちゃうで? スギやで?」
「いや。分かってますよ。つまり花粉症ってことですよね」
私の溜息に、革で覆われた手をこちらに勢いよく指しながら、必死に抵抗しようとする様がおかしくて笑う。花粉症、というフレーズを聞くだけでもその存在を思い出してしまうのか、その顔がむず痒そうに一度歪められたかと思えば「ぶぇえっくしょん! おらぁボケェ!」と、乱暴な言葉とともに真島さんが顔を背けてくしゃみを放った。
……ずびり。
鼻水を啜る音が更に大きくなって、真島さんが少しだけ疲れたような顔をする。

「……認めたないけどな。……目ぇは痒いし鼻はずっとこんな調子やし……もうこの年になったら頭痛まで引っ張ってくるからかなんわ」
うなじに手を当てながらしかめっ面でこきりこきりと首を回す真島さんがそんな事を言うものだから、必然的に私の脳裏に一つの疑問が浮かび上がる。
「じゃあなんで自分でマスク用意しないんです……」
「はぁ? アホか自分。そんなん負けた気ぃするやろ」
「何にですか。粒子にですか。人から貰うのとどう違うんですか」
ちらりと彼の頭を守る黄色を見つめながら、守るところが違うだろうと辟易した声でそういえば、頬を人差し指で掻きながら真島さんが再び唇を緩く突き出した。
ちゃんからの貰いもんやったらワシ大切にするし。それがマスクやったらめちゃくちゃ有難いなァ〜〜ちゅう話やろ……そんくらい分かれや」
「はぁ……」

「はぁ、て自分。溜息吐いたら幸せ逃げるでぇ?」
「……はぁ」
「うっわ! しょうもな……もうええわ。ほんで、どないやねん。マスク持ってんのか持ってへんのか」

苦虫を噛み潰した顔を隠しもせずそうつまらなそうに呟いた真島さんが顎の下に置いていた腕をどかしてこちらに向けたかと思えば、手のひらを上に向けて数度緩やかに上下に振って見せる。
そんな真島さんに溜息を一つ返しながら、デスクの一番下の引き出しに手をかけて、お目当ての物を引っ張り出しその手のひらの上に乗っけてやれば、ややあってから手に置かれた物を理解した真島さんが酷く驚いた顔で目を丸くしたままこちらを見たから、私はその胸中を窺えずに首を傾げてしまう。
「……マスクやん」
真島さんに今しがた渡したものは、彼が散々欲しがっていたそれだった。
事務所は、社員の人もバイトの人も出入りが激しいから、木くずや埃を身体につけたままあちこち走り回るなんてことはざらで。そんな男臭い事務所の中でせっせと書類整理をする私を見て「流石にこれは女の子にはきつないですか? マスクくらいしはったらどうです?」と西田さんがアドバイスをくれて以来、なんとなく仕舞って置いた業務用の箱入りマスク。準備した頃にはもうそんな環境にも慣れてしまったから使うことは無かったけれど、こんな時に役に立つなら持っていて正解だったかも知れない。
そう思って渡したものは、真島さんのお気に召さなかったのか、箱入りとはいえ一枚一枚薄いビニールに包まれていたそれの感触を確かめながら怪訝そうに顔を歪めた真島さんがその名称を吐き捨てた。
「……? マスクですけど」
見て分からないんですかと言わんばかりに反芻すれば、真島さんは鼻を啜りながらこちらを盗み見るように一瞥して、もじもじとマスクを包むビニールを指で引き延ばしながらため息を漏らした。
「……はぁ……ちゃん自分……。はぁ……」
「溜息吐いたら幸せ逃げるんじゃなかったんですか? ……要らないなら返して下さい」
マスクを見つめながらため息を連発する真島さんに悪態を返して徐に手を差し出せば、慌てたように彼が自身の背後へと隠すようにマスクを持つ手を回す。
「いやこれはもうワシのもんや。絶対返さへんで」
「その割に納得いかないみたいな顔じゃないですか。不織布は肌に合わないとかですか?」
先までの態度とは裏腹に必死にマスクを死守しようとする様に矛盾を感じてそう言えば、一瞬楽しそうに口角を上げた真島さんの顔が見る見るうちに歪められていくものだから、それに合わせるように私の顔も顰められてしまう。何がそんなに不満なのだろう、と問いただそうとした時、背後に回していた手を再び前に戻した真島さんがマスクを慈しむように見つめた後、唐突に視線を私にぶつけてぶつぶつと呟いた。

「……。……前々から思っとったけど、ちゃんて何か惜しいねんなぁ。オモロイし顔も可愛えし、こうして気も利くしなんで彼氏出来へんねやろな」

――ワシがあと十五若かったら貰ってやりたいわ。
やけに真剣な顔で口を開いた真島さんの、突拍子もない言葉に私の眉間がひくつくのが分かった。
「……やっぱりそれ返して下さい」
「ああッ!? ごめんて! ほんまごめんって!」
マスクを持つ骨ばった手首を乱暴に掴んでぎりぎりと締めあげれば、痛くなんてないだろうに、掴まれた腕とは反対の腕で私の肩を軽く叩いて抵抗する。
盛大なため息を真島さんに見舞わせて満足した後、マスクはあげたんですし帰って下さいよと言わんばかりにその手を解放しデスクに向き直った私に、自分の仕事も花粉症も今はいいのか不織布片手にそれを着ける様子もなくすっかり居座る気の真島さんがきぃきぃと椅子の関節部を鳴らしながら思いついたように私に問うた。

「せやけどちゃん、ほんまに今好きな奴とか居らへんの」
その声色が、思ったよりも真剣なものだったから、反射的に真島さんの方を向いてしまう。けれども向いた先に居た真島さんはいつもと同じ、何を考えているのかよく分からないような表情で、灰色の瞳を細めながら、ただ大人しく私の返事を待っているみたいだった。
……すきなひと。
改めて聞かれてみて、しばらくそういった感情から離れていたんだなぁ、と気付かされた。大学生活中も課題に追われたり資格試験に忙しかったから、恋愛に人並みに興味はあれどしている暇なんて無かった。就職が決まってからも、この仕事と職場が自分に合っていたのか生活にこれといった不満がなくて、その中から恋愛というものがごっそり抜けおちていることにも気が付かなかった。
(……あれ。恋するってどんな気持ちだったっけ)
そんな、女らしくない言葉が一瞬脳裏に過ってしまうほどに、私は恋愛から遠ざかっていたのだと気付いて、こちらを見つめる真島さんに曖昧に笑って返す。
「……う〜〜ん。今は居ないですかね」
デスクの上に乱雑に置いてあるバインダーの背に書かれた文字に視線を送りながら呟いたそれは、正直な気持ちだったのだけれど。
「そうかぁ? 気付いてないだけとちゃうん」
きぃきぃと椅子を揺らしながら、納得のいかない表情を浮かべた真島さんがぶっきらぼうに呟いた。いつの間にか手に持っていたはずのマスクはポケットに仕舞われたらしい、手持ち無沙汰にだらりと下ろされた腕が照明に反射してつやりと光る。
「気付いてないも何も、出会いが無いんですよ。ここに就職してからは付き合いも減って、それらしい人には出会ってないですし」
「ふ〜〜ん……」
ずびり。鼻をまた一度だけ啜った真島さんが、徐に立ちあがって私を見下す。細いとは言えど私よりも遥かに大きい身体と、その身長にすっぽりと覆われて私の目前に影がかかる。座ったまま首を引き上げてそちらを見やれば、遥か上、少しだけ鼻を赤らめた真島さんがにぃ、っと唇を綺麗に引き上げて、私の頭をぽんぽんと優しく叩いた。

「ここやってアホかって言いたなるほど男臭いっちゅうこと、忘れたアカンやろ」

いきなりの事に、花粉症とは無縁の私の鼻が、すんと鳴る。
革の無機質な感触がつむじに伝わって、背筋が強張る。真島さんは時折、こうして前触れもなく凄く心臓に悪いことを簡単にしでかすから、その度に私のちっぽけな脳みそじゃ形容しきれない感情がさわさわと音を立てながら成長して、馬鹿みたいに頭から溢れてしまいそうになる。
けれど、恋がどうとかそういう感覚からは随分と離れていた私でも、流石にこれは分かる。――私は別に、この人が好きとか、そういうわけじゃない。だって。付き合いたいとは、出会ってから今までの一度も思ったことがなかったから。
……でも。
それは真島さんが「東城会幹部の真島吾朗」だということを知ってから、私が知らずの内に壁を作ってしまっていたからかもしれない。平凡に生きる女として、この人のことは好きになってはいけないと、心のどこかで潜在的に思っていたからかも知れない。
――それは既に、恋愛を見越した考えであるというのに。
(付き合いが減ったのも、出会いが無いなんて思うのも、ぜんぶ、)
……だって、今だって、現に。
私と同じように、他の女の子にこういうことをする真島さんが居るのかも知れないって、そんな当たり前なことを考えられるくらいの余裕は無くなってしまっていた。

「それって、どういう意味ですか」
立ちあがったせいか、革に覆われた太ももが僅かな動きに擦れたのだろう、真島さんの黒く艶めくパンツの右ポケットから、少しだけ弛んだビニールの端が僅かに飛び出てこちらの様子を窺っていた。
それを視界の隅で確認しながら、一つだけ見える灰色をぼうっと眺めて問えば、ゆっくりとした動きでその視線が逸らされて、ほどなくして小さな声が辺りに響いた。

「ん〜〜? ちゃんはやっぱり可愛えなぁ、って意味」

言葉とともに戻ってきた灰色が、先ほどとは違う色を携えている気がしたから。
その言葉の真意を図れずとも、それを単純な頭で素直に受け取ってしまった私は思いっきり眉根を寄せて頬に集まる熱を必死に誤魔化した。
……ずるい。やっぱりこの人はずるい。
私なんてきっと眼中にないのだろうに、こうやって気まぐれにその冷たい指先で心臓を撫でて、こっちがその都度どんな思いをしているかなんて気にしないで、何ともなかったかのように目を細めてけらけらと笑って。
(……好きじゃない。多分、まだ、すきじゃない、けど)
この持て余している感情が、きっといつか確固とした恋愛のそれに変わってしまうんじゃないかということを、私はどこか他人事のように感じながら、相も変わらず楽しそうに笑う真島さんに投げつけるように言葉を放ることしか出来なかった。

「……十五歳若返ってから出直してください」
「なんや、ごっつ手厳しいのう……せめてあと五歳にまけてくれへん?」


プリマヴェーラ