“坂本龍馬”。
 聞き慣れぬ名だとは思った。
 すべての元凶はこの男に繋がっているということを斎藤から聞かされたとき、それと同時にその「斎藤一」こそが「坂本龍馬」であるということも聞かされた。
 ――とはいえその話には続きがあり、彼はその世間を騒がす坂本龍馬とは別の人間だというのだが、ではその「坂本龍馬」とは誰なのかと尋ねれば、何とも今この世には、二人の「坂本龍馬」が存在しているのだと言う。
 一人は、「斎藤一」を模した偽物だと……。
 その人物が何故斎藤の名前を騙ったのかは知らないが、は彼に近しい者で間違いないだろうと予想していた。恨みがあるのか、それとも、憧憬からかは分からないがどちらにせよ良い方向に転ぶものではないだろう……とも。
 そして恐らく、二人の坂本龍馬が対峙したとき、すべてが幕を閉じることになるだろうと漠然と感じていた。



 ――伏見の端。
 寺田屋という宿の一室に、男が六人。

 開け放たれた窓から差し込む景色を瞳に反射させながら、その内の一人が呟いた。
「“会合”の件だが……」
 新撰組の隊長らは、その「偽物の坂本龍馬」をどうにかして自分たちの前に引き摺り出さないことには話が始まらないと計画を練り始めていた。
 斎藤が拠点にしていたこの寺田屋にて知り合ったらしい今しがた口を開いた本人である中岡、という土佐の隊士が言うには、薩長を利用するのが良いのではないかということだった。
 中岡は生まれを同じとする斎藤と目的を共にする同志だという。
 そんな彼が今しがた口にした「会合」――というのは、最早名目にすぎない。斎藤には以前より薩長の長達との面識があるというので、会合という形式を繕えば、怪しまれることなく対面の機会を取れるだろうという算段だった。
 とはいえ、いま、もし斎藤が薩摩や長州の人間に会おうものなら、こちらの計画が漏れてしまう可能性がある。
 新撰組の人間が目立つ動きをするとなったら、京に張り巡らされている間者が黙ってはいないだろう。
 ただでさえ斎藤は、渦中の人間であるのだ。
 だからこそ、中岡は重々しげに言葉を続けると、部屋の中に居る人間へと視線を流していく。
「薩摩の方は、俺に任せろ。何とかする」
 そう放つ彼の手元には一枚の紙があった。
 「ほとぐらふ」と拙い発音で中岡が示すそれには墨色で人物の姿が映し出されており、曰く、重要な交渉材料になるとのことだった。
 そこに映しだされている人物に見覚えのある人間は居なかったが、斎藤だけは視界に収めて一瞬、言葉を詰まらせた表情で瞠目した。
 ――もうひとりの坂本龍馬である、と。
 中岡がそう言って寄こす前に。


 *


「長州の方は俺が引き受けますよ」
 聞きなれた声が言葉を発した瞬間、は「ああ、元々すべてが決まっていたのだな」と思った。
 寺田屋の、隊長の集まる部屋の前。
 襖を一枚隔てたその場所で、は中には入らずに聞き耳を立てていた。
 その身には既に新撰組の象徴である羽織は纏われてはいなかったが、仰々しい刀が未だ彼女がこちら側の人間であることを悟らせる。
 続けて話を聞けば、斎藤の声が耳を掠めた。
 “長州”
 ……。
 “――は、松之井という店に居る”
(……松之井、)
 直前の単語から推測するに、目的の人間である長州の桂は、松之井という店に居るのだろう。
 平助は単身そこに乗り込む気なのだろうか……そう思ったがいくら耳に意識を寄せようとも、その後に言葉が続けられることは無かった。だが自身、御陵衛士としての顔を持つ平助がその役目を負うことは仕方の無いことだとは分かっていた。
 一人は中岡に任せるとは言っても、手引きしたい薩長の人間は二人。もうひとりは隊の人間がやらなくてはならない。
 そして、この中で中岡を除いてしまっては、ばれる可能性が低い人間は、平助しか居ないことは一目瞭然だった。

 ただ、それは「部屋の中」の話であり――
 はその命を受けるに最も適任の人間が居ることを知っていた。


 *


 壬生の小さな神社にふと立ち寄った際、は何を願う訳でもなく賽銭を投げいれると鈴を鳴らして手を叩いた。
 瞼を伏せてみれば何か思いつくだろうか――そんな安易な気持ちで目を瞑ってみても、空っぽだった頭の中に浮かぶものは何も無く、結局は何も祈らずに参拝を終えた。
 希望や夢がない、というのとは、少し違うと思う。
 欲がない、というわけでもない。
 ただこうして漠然と何かを願ってみようとしても思いつかないというような状況を何と呼んだらいいのかということが分からなかった。否、知らない、と言った方が正しいか――の辞書にはそれらをあてはめられるような言葉は用意されていなかった。

「……願い事?」
 そうしてぼうっとその場で佇んでいると、の後ろから声がかけられた。流される様に緩慢と振り返れば、自身の所属する八番隊の隊長である藤堂平助がそこに居た。
「……いえ、」
 が小さく首を横に振れば、平助は先ほどがしたようにがらがらと鈴を鳴らす。けれども彼はそれから手を合わせることも祈ることもしない様子で再びのほうを見ると、神社の柱に背を預けながらふ、と笑って見せた。
「これで神様も怒っちゃったかも知れないね」
「……ええ」
「怒って、俺の前に現われてくれるかも」
「…………」
「うわ、呆れた顔。でもさんも同じでしょ。神様呼び出しても願い事しなきゃ呼ばれ損じゃない」
「……それは……」
「そう考えたら、さ。いま、結局同じことしたんだよね、俺達」
「…………」
 迷信であろうと事実であろうとの知らないことであったため、否定も肯定も出来なかったが、そう言われればそうなのだろうと妙に納得させられてしまった。が「神様」などの類を信仰していなかったことも合わさって、妙に面白く感じさえした。
 ただ、こうして何かに縋る人間の気持ちもは理解していたし、それをどうこう言おうとは思っていなかった。自分に無いものを否定するつもりは無かった。
 ただ、平助の意図しているところはそういった部分に少なからず直結しているだろうとは思い、彼に向けていた視線をそっと外した。
 ぐるりとそのまま瞳を動かせば、この場所からでも、活気のある茶屋が見えた。木々の隙間にぽつんと落ち込む銀杏の実も見えた。
 遠くの方ともなれば、家屋や壁に阻まれて見えなくなってしまったけれど。

 その景色を視界に映せば、先に願いを浮かべなかった自分を酷く勿体なく感じた。神様が降りてきたと思った訳ではない。ただ、些細なことすら求めることの出来なかった自分をひたすらに恥じた。
 自分の中で、自分の幸せすらも咄嗟に浮かぶ願いではないということが、は何故だか心苦しく思えてならなかった。

 ふと袖を振るえば、まだいくらかの重みがあることに気がついた。
 逆の手を突っ込んで漁れば、一枚の銭が指に引っかかる。
 一度目よりは少ない額になってしまったが、無いよりはマシだろうとそれを再び投げ入れれば、いつの間にか柱から体を話していた藤堂がの隣に並び、同じように賽銭箱の底を鳴らした。
 ちゃりちゃり、という軽い音の後、
 辺りに響いた鈴の音。
 お互いに一言も発することのないまま、儀礼に倣い参拝を終わらせると、どちらからともなく視線を合わせる。
「願い事?」
「……ええ」
「なんてお願いしたか、聞いてもいい?」
 鈴紐がゆらゆらと余韻に合わせて揺れている。
 平助の瞳の端に映り込んだそれは楽しげにゆれたまま、けれども黒眼を逸れた時、ぴたりとその動きを止めた。 
「藤堂隊長に、幸せが訪れるようにと」
 こちらを射抜く丸い瞳を眺めながら、もう二度と、このように参拝することはないだろうとは思った。

「――奇遇だね。俺も同じことを考えた」
 願うことなど、少ない方が良いに違いない。


 *


 逃げるようにしてその場を後にすれば、自分がしでかしたことの重大さには気がついた。次いで、体が重く、引き摺るようにしか歩けないことに笑いが零れた。まるで自分の体ではないかのように全身が言うことを聞かないのだ。恐らく、気力だけで生きているというのは、こういうことを指すのだろうとは思った。今まで経験していなかったにも関わらず、それだけは重々に理解出来るのだから不思議だなぁとそんな馬鹿なことも考えた。

 ――は、松之井に来ていた。
 幾松という女性が切り盛りしているその店に桂の気配は無かったが、彼女にその名前を切り出せばすべてが繋がった。
 自分の持っていた情報と会合のことを伝えれば、桂を必ず向かわせると約束してくれた。
 は、ここで漸く、杞憂だった、と思えた。
 謝らねばなるまい、と思えた。
 藤堂が責任を持って請け負うといった仕事を代わりに終わらせてしまったことを、勝手に動いてしまったことを、謝罪しなくてはいけないと、そうして、これでもう嫌な思いに襲われることもないだろう、とも思った。

 けれども幾松に見送られ、店の扉を開けた時、不意を突かれた。
 視界に飛び込んできた装いには見覚えがあったというのに、早く帰らねばと気が逸っていたのか、咄嗟に刀が抜けなかった。
 撃たれた、と思ったときには遅かった。
 謝ることが増えてしまった、と思った。
「……なんや、ワレやったんか。まあ丁度ええわ。屯所に女が居るっちゅうんで長いこと目ざわりやったからのぉ……」
 ――を撃ったのは、かつての伊東一派の人間であり今は御陵衛士に身を置く元新撰組五番隊隊長、武田観柳斎だった。
 心臓を狙った弾は少し下に逸れたのか、にはまだ息があった。息がある内は自分を「新撰組」の人間であると鼓舞していられた。
 だからこそ、どうして「ここ」に武田が居るのか――と思うよりも先に「“どこ”から居たのか」ということが気になった。
 撃たれて直後、玄関先の石畳に膝をつくを一瞥すると、興味を失ったように武田は店の中へと入っていく。
(まだ、まだ“ばれて”いない……)
 確信があったからこそ、は這うように店の外に出ると、寺田屋へと体を引き摺って歩き始めた。
 斎藤にすべてを話せば、平助にも伝えてくれるだろう――。


 ……。
 振り返っても、武田が追ってくる気配はない。
 ただ、出血のせいか視界がぼやけて前が見えない。
 足を止めたらもう「終わり」だということは分かっていたが、は己の勘を頼りに歩いているような状態だった。
 もう既に、目の前から来る人の姿すら、気付けないほどには衰弱していた。

「……、さん……?」
 それでも。
 その声はの前進を簡単に止めてしまった。

「……、……隊長、」
 が名前を付けず「隊長」と呼ぶ人間は一人しか居ない。
 呼びとめた人物である平助は、の血に塗れた姿を確認すると慌てたように彼女へ近づいた。
 動きの止まった体が、途端に鉛のように重くなったのをは感じた。もう膝をつくことさえ辛い状態だった。
「――! 出血が酷い……一体何があったんだ!」
「武田隊長に、見つかって……」
「“見つかって”……? まさか、……」
「……会合の件……桂さんを必ず向かわせると、そう、約束してもらいました」
 膝を地面につけたまま、がくりと倒れ込みそうになったの体を平助が咄嗟に支える。
「どうして……」
 もはやその姿を見れば、聞くまでもなかったが、聞かずにはいられなかった。
 言葉を貰わずとも平助はすべてを理解した。
 自分の代わりに、彼女が長州へとかけ寄ったということも。
 ――自分の代わりに、撃たれたということも。

「どうして、って……」
 自分でもよく分からないのだから、彼はもっと分からないだろうなとは思い、ふと笑った。思えば、彼の前でこうして笑うのは初めてのことかも知れなかったが、そんなことはもはやどうでも良いことだろう。そう思ったらなぜか、殊更笑えた。
「こうするのが一番良いって、皆分かってたはずなのに、」
「……そんなこと、」
「でも、誰も、それを言わなかった」
「…………」
「私の役目は……自分が一番理解しているつもりです」
 人はいつか死ぬ。
 それが少し早く来ただけの話だ。
 平助もも、それだけは理解していた。
 それでも……冷静なとは裏腹に、平助はなんとも形容しがたい表情を浮かべると、彼女の傷口をそっと抑え、独り言のような口ぶりでぼそと放った。
「殺さなきゃ、俺が……」
 奥歯を噛みしめるように低く呟かれたそれは、の琴線を酷く乱暴に揺さぶった。
(それじゃあ、何も変わらないじゃないですか)
 ――そう、言いたくても、口がもう思うように動かない。
 このままでは、行ってしまう。
 武田のところへ行ってしまう。
 寺田屋に行けば「彼」がきっとなんとかしてくれるに違いない。
 そう思っても、今のにそれが言えるはずもない。
 平助はその大きな瞳にだけを映していた。
 そんな彼になにを言っても、もう伝わってはくれないだろう。

「行ってください。“藤堂隊長”」
「――!」
 最期の力を振り絞って息をゆっくりと吸い込めば、自身の命の燈が間もなく消えかかっていることをはより実感する。
 結果的に、自分の言葉が平助の背中を押すことになってしまったとしても、心のどこかでは彼が「そう」してくれるのを望んでいたのかも知れない。
 曖昧な言葉とともに、はその名を呼んだ。
「勝手なことしてすみません……でも、私は後悔していません」
「ああ……」
 もうすぐ死ぬのか。
 けれども悔いはない。
 その行く末がどちらに転ぼうとも。
 彼のために死ぬことが、少なくとも……いつかの平助が願ってくれたの幸福に繋がることは確かなのだ。
「ほら……早く」
「…………」
「私を、無駄死にさせる気ですか、隊長」
「いや……ありがとう。行ってくる」
 短い会話を終わらせる最後の言葉。
 流れ出た血の量から、がもう生きながらえることは難しいと惟みたのだろう、苦々しい表情を浮かべた平助は、
 ――どこへ、とは決して言わなかった。

「ええ、……ご武運を」
 そうなれば、が寄こせる言葉など一つしかないことを、平助は痛い程に分かっていた。

死なば諸共