※本作(上―下)は全編、どんなお話でも許せる方向けです。閲覧にはご注意ください。




「女の隊士? 正気か、副長」
「ああ。文句があるなら君も、彼女と剣を交えたらいい。きっと納得するだろう」
「……よっぽど買ってるんですね、そいつのこと。俺ぁ納得いかねえな……わざわざ犬死すると分かってるやつを入隊させるだなんて」
「…………左之助、口を慎め。それに言っているだろう。腕が立つから入れた……試験に通ったものを入隊させることになんの疑問がある?」
「……けっ……まぁいい。それより、何番隊に入んだ? そいつぁ」
「……八番隊だ。すぐに任務に就くよう命じた。彼女は早急に現場に触れる必要があると思ってな」
「なるほど、やっぱり女なんざ、顔の整った男が好きって事だな。まぁせいぜい面を拝めることを祈ってるよ」
「…………」

 “新撰組”に女の隊士が入るということは、屯所の人間を大きく騒がせた。前例が無かったことも当然のことながら、入隊試験は副長直々に行われたのだという事実も相まって、流布する前に噂はどんどんと尾びれを付けて出回った。
 加えて、副長である土方が、それを治めようとも、そして否定しようともしなかったため、新撰組の中でも特に短気であった原田は“その女を見たことがない”ということもあってか、妙に苛立っていた。
 その苛立ちは、時を待たずして、その渦中の人間である土方にぶつけられたが――原田はその会話の中で「八番隊」という単語を聞くと、それまでのいらつきを嘘のようにかき消し、にやついた笑みを隠すことなくその場を立ち去った。
 このとき、原田の言葉に土方が訂正することはなかったが、彼女は八番隊入りを自ら志願したわけではない。
 “たまたま”であった。
 夜盗に襲われた八番隊隊士の一人が欠けたということもあって、その穴を埋めるために彼女が起用された、ただそれだけであったのだが、「八番隊隊長」である男が新撰組の中でも一際若く、眉目秀麗なのは事実だったので、土方は特に否定の言葉は返さず、首を僅かに傾けるのみにとどまった。

 ただ、こうして言及されてみれば確かに、彼女はどうして新撰組に入隊したのだろう――という至極単純な疑問が土方の脳裏にも浮かびあがる。基本的にこの組織は、「そこ」に入るまでの経緯や生い立ちなどを考慮しないのであるから、試験に携わったはずの土方でさえも、その理由は知らなかった。
(“犬死”、か……)
 土方が試験に立ち会い、剣を交えた時、勝敗や合否に関わらない命のやり取りの段階で、彼女は確かに自分を殺そうとしていた。
 そこには金や権力などでは語れない、何かもっと深い思いを感じたが、彼女がきっとそれを自分に語ることはないだろうということも同時に理解した。ただ一つその他に分かったことがあるとするならば、あの“目”は――自分の命を無駄にすることはない、――「そういう」人間の目つきだった。

 そして土方はもうひとり、同じような目をする人間を知っていた。

「“運命”というべきか――」
 言ってしまえばやけに陳腐にも聞こえたが、けれども土方はその響に確信にも似た何かを感じていた。


 *


 ある八番隊の隊士は、「彼女」を初見したとき、「どうして女中が自分と同じ羽織を着ているのか」と思った。それもすぐ、徐々に下げられていった視界の端に、さも当たり前のように存在していた二本の刀を認識し「まさか」と嘲りに変化するのだけれど。
 自身の隊の人間ではないが、別隊の隊長である原田左之助が声を大にして怒りを露にしていることは屯所に居る人間なら誰でも知っていることだった。そしてその理由が「女」であることも――。
 なるほど、どうやら自分の目の前に居るこの「女」こそがその怒りの原因であるらしい、ということは考えずとも分かったが、それにしても思い浮かべていた姿よりも随分と華奢だったために一頻り嗤った後の対処に困った。
 ――加えて、こちらの視線に気づいていながら何ひとつ言葉を発しないさまは、女にしては異様だった。
 普通であれば文句の一つでも出るところであろうが、彼女はこちらを見返してはいても、凛と引き結ばれた唇を微塵も動かそうとはしないのだ。
 その姿は他を寄せ付けないようにも見え、また、引き寄せるような雰囲気を兼ね備えていた。
「……ちょっといいかな。稽古はまだ終わっていないと思うけど」
「……! 藤堂隊長、すみません、すぐ戻ります」
 ぼんやりと彼女を視線で追えば、今が稽古だということも忘れ意識を飛ばしていたことに気づかされる。自身の隊の長である藤堂にあろうことかそれを注意され、どんな処罰が食らわされるかと隊士が身構えれば――藤堂は予想に反して楽しそうな顔で彼女を指差すと、

「そんなに“あの子”が気になる?」
 隊士の一人にだけ聞こえる音量で、そう、呟いた。


「…………は、」
「……だったら、手合いに誘えばいいのに」
「手合い……ですか」
「不服そうな顔してるのは、多分、もう相手にもバレてると思うけどなぁ……」
 男所帯である新撰組に、女が入るということに抵抗がないと言ったら嘘になる。今まで築き上げてきた先人達の歴史を踏みにじられた気持ちに陥るのは何も原田に限ったことではない。
 この隊士もそうだった。

 藤堂は、隊士が何も返事をしないことを肯定と取ったのか、軽やかな足取りで彼女の元へ向かうと、一言二言交わした後に、その細い腕を取って引き摺るようにしてこちらに連れだした。すると、それまで無言で稽古していた他の人間の視線が――と言っても、それほどの数はいないが――それをきっかけにこちらに集まる。
 こうなってしまえば、面子のためにも、“女”になど負けるわけにはいかない。
 隊士の男は彼女と顔を向かわせるとそう決意を深くしたが、いざその面を目の前にしてみれば、存外その目つきが和らげなものだったので驚いた。
(どうしてこんな女を新撰組に……)
 思わずそう思ってしまうほどには、まるで人を斬ったことなどなさそうな、それこそ、剣術とは無縁の、ただの女と何ら変わりない――。

「……お手合わせ願おう」
 大丈夫だ、すぐ終わらせてやる――胸中ではそう浮かべていた隊士が口苦そうに呟いた一言に、藤堂が頷く。
 それに、遅れて反応した彼女が、小さく会釈を寄こす。
「こちらこそ、ご指導ご鞭撻宜しくお願い致します」
 顔に似合った声が一度耳を撫でたかと思えば、少しの間の後、緩慢な動作で上げられたその顔に、隊士は一瞬狼狽する。
 藤堂がくすりと笑う気配に反応する余裕すら無くなるほどには。

 “殺される”
 ――と、目の前の「人間」から発せられた確かな殺気に体が震えて仕方が無かった。


 *


 ――“殺しますよ、俺は”。

 三番隊隊長斎藤一、基「坂本龍馬」である男は、今しがた部屋を出て行った、自身の所属する組織の隊長格の一人である藤堂平助の言った言葉を脳内で反芻しながら、その人間の手によってすでに亡骸となってしまった男、秋元を見つめていた。
 真実を追い求める中で辿りついた一筋の光を、手繰り寄せるように後先を考えずに行動し、そして上り詰めた新撰組隊長という肩書。
 龍馬は決してそれを甘んじていた訳ではない。
 けれども、いざこうしてその組織の闇とも言える一部始終を目の当たりにしてしまえば「何かがおかしい」と思えども、それを明確な反論として言葉に出すことが出来ずにいた。
 秋元が目の前で殺され、その馴染みであった女は狂ったように泣き叫んだ。死体を抱きとめることはせず、赤ん坊のように涙を流す女を自身の胸中を少なからず濁らせながら見つめていると、徐に、自身の居る部屋に繋がる裏口の方向から足音が聞こえてきたために龍馬は身構える。

 その足音の主は、すた、と中途半端に開かれた障子の前で止まると、一呼吸置いてから姿を現す。
 垣間見えた華奢な肩幅は、詮索するまでもなかった。
 はら……
 と、その人物の結われていない長髪がこちらに差し出した一歩分の慣性に合わせて緩やかに靡くのがやけに遅く視界に反映され煩わしいと思いながらも、反して、その細身の体には不釣り合いな仰々しい大刀が腰に据わったまま堂々とこちらを睨んでいる気さえして、龍馬は密やかに顔を顰めた。


「……
 ――名前は知っていた。
 けれども、その顔を拝むのは龍馬も初めてであった。
 にも関わらず自然と名前が口を突いて出たのは、目の前に居る人物が「新撰組の羽織を着た」「女」であったからにすぎない。
 そんな人間など、この世に一人しか居ないのだ。
 ――
 藤堂の居る八番隊の隊士であり、恐らく、先ほど藤堂が言っていた「裏口に張り付かせている隊士」は、彼女のことだったのだろう。
 は龍馬と秋元と女とを見比べると、その惨いさまを見て瞳を細める。女――美月のほうはと言えば、突然の来客に今度こそ意識が飛んでしまったのだろう、虚ろな瞳を浮かべたまま、赤く濡れた畳を見つめている様子だった。
「……これは、藤堂隊長が?」
「ああ。新撰組の掟だと言っていた」
「…………そうですか」
 瞼をゆっくりと持ち上げた彼女が言う。
 裏口で待機していた彼女に伝達は行かなかったのか――龍馬の返事を聞いたはひとつ頷くと、秋元のそばで膝を折ってしゃがんだかと思えば、懐から取り出した布を剥きだしの顔をさらけ出す骸へと被せた。

 龍馬は、そんなを見ながら漠然と思っていた。

 ……藤堂がここに来なければ、彼が秋元を斬らなければ。
 彼女が“斬っていた”とでも言うのだろうか。


「…………」
「…………」
「……脱走者は死罪、だそうだ」
「――ええ、」
 立ちあがったの視線が龍馬へと注がれる。
 少し距離があるとはいえ、並んでみればより一層彼女が華奢な体つきをしていることが分かる。女の隊士を入隊させたのは副長である土方だと言うのは龍馬も噂で聞いていた。だが、その理由や経緯というものが、こうして向き合った今も全く想像が出来ない。
 男のように屈強であれというつもりはないが――それでも、龍馬は思案していた。
 今このときのように、刀が抜かれる間が図れないというのは、なんとも恐ろしいものだ、と。

 例えば、藤堂のように。

 人殺しなどしないように見える人間が、いとも簡単に人を斬るのだという事実は、「斬る」と分かっている人間がそうするよりもずっと恐ろしいということを龍馬は知っていた。

「……俺はこいつを裏口から逃そうとした」
「…………」
 の背後に透けるもうひとつの入り口を顎で指しながら龍馬は口を開いた。
「藤堂が来なければ、あるいは……」
「……あるいは?」
「…………」
「…………」
 秋元が死んでしまった今、考えるのすら無駄なことかも知れなかったが、それでも――龍馬は胸につっかえたままの小骨のような感情を無視して生きることなど出来なかった。

 静寂が二人を包んで二度、三度の呼吸が流れたあと。
 龍馬が掠れた吐息を漏らしながら鋭い瞳をへと向ければ、彼女は依然として涼しげな顔立ちのまま、龍馬の視線を受け止める。
「……裏口に居た隊士というのは、やはりあんたのことなのか? 藤堂は、俺がこの男を逃がしても良いように裏口も見張っていたと言っていた」
「…………」
「……答えられないのか?」
 かさり、
 という音。
 右足にかけていた体重を左足へと移すときに生じた衣擦れの音。
 それは間違いなく龍馬自身が発していたものだったのだけれど、どうしてか――それは妙に、体の外側を通っていくような、他人から発せられたような、やけに小さなものに感じられた。

 受け止められた視線もいまだ逸らされることなく、は龍馬を黒眼に収めながら、やや緩慢に首を振るうと答えた。
「……いえ。ただ……もしそうだとしたら、なんだと言うのですか」
「いや……」
 このとき、言葉を濁した龍馬に、が初めて不快気な表情を見せた。一瞬判断が遅れるほどに突然だったそれを正面から見てしまった龍馬は、
 ――ぞくり、と。
 自身の背後に這う悪寒にようやく「彼女」が「新撰組の人間」であると認識する。
(きっと“裏”がある――)
 そういう人間がする独特の殺気に、武者震いのような感覚を覚える自分に龍馬は気がついていた。きっと彼女は、自分のように明確な目的でなくとも、腹の中には大層立派な獣を飼っているに違いない。

「……なるほど。“あるいは――この男が生きて逃れることが出来たのか”と、斎藤さんは仰りたい、と」
「…………」
 ――腰に差された大仰な刀は飾りでは無かった。
 必要とあらば抜かれるだろうそれは、彼女の手であり足なのだ。


「正直に申し上げるなら、私が仮に貴方と共謀したとて、この男が生き延びることは難しい事だったでしょう」
 と邂逅して、龍馬は彼女のその大きな瞳が常人よりも瞬くことがないということに気がついていた。
 瞬きとは、いわば隙のようなものであると龍馬は感じていた。
 たとえ一瞬であっても、瞼を閉じてしまえば何も見えなくなるのだから、戦場ではそれが命取りになるのだ。
 その瞬きが、自身が三度ほどしたときにようやく一度落とされるかという具合で、空気の触れる面積の多そうなその黒眼は絶えずずっと開かれているように見えるのだから、彼女が異常であることはそれだけで十分に説明出来るだろう。
 その貴重な瞬きが、龍馬の問いに対する返事とともに落とされたので、龍馬は自然と両の踵へと力を込めた。

 瞼を伏せるその一瞬の間に行燈が彼女の涙袋に影を差しこませたが、けれども決して、今なら“斬れる”と龍馬は思わなかった。
 斬る気は微塵もなかったのだから当たり前だと言われたらそうかも知れない。だが、なるほど確かに――どうやら副長直々の試験に合格したというのは嘘ではないらしい。
「……どうしてだ」
 それに気がついて初めて、自分が彼女と同じ舞台に立てたのを感じる。だからこそ、その疑問を投げかけることに抵抗もなかった。

「逃げようとしたことが、その証拠では?」
「…………」
「死ぬと分かっていたから逃げていた。むしろ……いくら三番隊の隊士であったとはいえ、その隊長である貴方と、同伴の藤堂隊長に見つかったのは運が良かったと思います」
「…………殺されて、運が良かっただと?」
「ええ……。他の人間に見つかったのなら、ただ殺されるだけでは済まなかったでしょうし」
「…………」
「…………」
 ただ、気がついたからと言って、彼女の突っぱねるような態度が変わるということはなく――龍馬は無情に浴びせられたそれらを納得するよりも先に乱暴な咀嚼を求められ言葉を失った。
 “運が良い”
 それは決して理解出来るようなことではなかったが、一度思考を巡らせれば、先ほどまで頭に犇めいていたかつての言葉が浮かんでくるようだった。

 ――“殺しますよ、俺は”。

「それが……お前だったとしても、か?」
「……それ、とは?」
「今言った“他の人間”の中に、あんたは入ってんのか?」
 思わず力んだ体の揺れが、龍馬の刀を僅かに揺らした。
 かちゃり、という鍔のかち合う音に、静かにが眉根を寄せる。
「面白いことを聞くんですね」
「…………」
 それは、初めて見た声色で、初めて聞いた吐息で、
 初めて見た顔だった。
(こんな表情もするのか、この「女」は――)
 初対面の短い邂逅の中でも、龍馬はそのやりとりからという人間がどういう人間なのかということを多少なりとて感じ取ることが出来ていたと思っていた。
 殺す間が掴めない?
 刀を抜く姿が想像出来ない?
 ――それはいまこの時、自身に見せられている淡々とした姿と、頭に浮かべた彼女の激昂を勝手に比較していたからそう思えたのだ。
 「波」が無い。
 彼女はさざ波のような穏やかな海の中に居て、いつでも心を冷やしているのだ。
 波立つことなく煮得る人間の、一体何を想像出来るというものか。

「そんなの、当たり前じゃないですか」
 呆れたようなその声色は、確かに龍馬の琴線を震わせた。
 “いまさらどうしてそんなことを聞くのだろう”という彼女のありありとした本音が飾られることなく乗せられていたせいもあったかも知れない。その本音こそが龍馬にとって疑問で仕方が無かったことであるというのに、彼女はまるで……
 その答えを「最初からこちらが持ち得ている」とでも思っているような顔をする……。

「貴方も本当は分かってるのでしょう?」

 整理の行き届いている龍馬の心の中を、がずけずけと踏みにじっていく。
 時折、彼女の携える大刀の先が、歩みと共に龍馬の心臓の壁に擦れるように当たってかりかりと小さな音を立てるのを、龍馬は不快に思ったが――けれどもそれを口にすることは無かった。
 思考に潜む彼女の存在を口にしてしまっては、“認める”ことであると同義である、と龍馬は気付いていたのだ。 
「……何をだ」
 そして同時に――
 先ほどから疑問しか投げかけられていない自分にも、気がついていた。

 いま、このとき。二人の居る部屋は、内装こそ立派なものであったが、広さはそれに見合ったものではなかった。
 龍馬が二歩ほど足を伸ばせばすぐにでも現在地から廊下に差し掛かろうかというくらいで、絵の描かれた障子から逆側の障子までの距離は、大股で歩けば五歩も要らないだろうというくらいの短さであった。龍馬とは、丁度その一歩分ほどの間隔を有して向き合っていた。
 の足元には依然として横たわる秋元が居たが、彼女はもう視線すらくれていなかった。そしてそれは、龍馬も同じだった。

「例え可笑しくとも、狂っていようとも、それがまかり通る環境であれば、正当であるかどうかなんて何の意味も持たないことを」
「…………」
「斎藤さんは、この処罰を重いと感じていらっしゃる。――悪だと、少なからずそう思っていらっしゃる」
「……だとしたら、何だ」
「それがそもそも“こちら”から言わせればおかしいんです」
「…………」

「だって、まるで…… 自分が正義であるかのような言分ではないですか」