仕事の一環である日課の掃除のため、各隊長に割り振られた部屋を回っていると次の部屋が「彼」の部屋であることに気がついた。在室だろうか、と軽く声をかけてみれば返ってきた声に丁寧に障子を開けば、彼はどうやら机に向かっているみたいだった。
仕事中だろうか、胡坐をかきながら机に片肘をつき、隊士名簿を片手に唸っている姿なんかを見ると、ああこの人も隊長なのだな、と不意に思わされる。彼に限っては、普段はいつ仕事をしているのかなど全く分からないのだ。
きっと私の想像しているよりもずっと効率よく動いているのだろう。私の前に現れる彼は、いつだって暇そうにしている。だからこそこうして時々訪れる、突然言い渡されたであろう自分の管轄外の任務のせいで時間に追われかけている姿を見かけると改めて、今このように距離を縮められている事が夢なのではないかと疑ってしまったりするものだ。
ましてや家事を行うために雇われただけの身である私が気兼ねなく名前を呼ぶことを許されているだなんて――彼は私が気軽に近づいていいような人間では、きっとない。そんなことは、一目見れば分かることなのだけれど、こういう切欠が無ければ忘れてしまうほどに彼は気さくな人間であった。
「意外と達筆なんですね」
けれども、はたきで桟の埃を掃除していたときに見えた、彼が片手に侍らす隊士名簿の名前一覧の、上から十番目。
彼の名前が書いてあるところを見つけてしまえば、控えようと思う気持ちとは反対に、自然とそんな言葉が飛び出してしまった。
……初めて見た彼の字。
特別見てみようと意識していなければ拝む機会に恵まれることは滅多にないのだから、考えてみれば何も不思議なことではないけれど。
「え? そうですか?」
「はい。何か習われていらっしゃったのかというくらい」
――藤堂平助。
と、書かれたそれは、まるでお手本かというくらいに繊細で、女である私よりも綺麗な字をしているんじゃないかと思ってしまったほどに整っていたから驚いた。
決して、形崩れた字を書く印象があったというわけではないけれど、少しだけ意外だった。年齢が若いということもあるし、年相応の、もっと勢いのある字を持つ人だと思っていたから。
「いや、全然。むしろ自分じゃあ、あんまり綺麗な字じゃないなぁ……なんて思ってたとこです。ほら、井上さんとか永倉さんとかの方が恰好良い字してるじゃないですか」
「……力強さ、で言ったらそうかも知れませんけどね。私は藤堂さんの字が好きだなぁ……」
自分の名前の少し上に刻まれた他隊長の字を見て彼が言うので何気なくそう返せば、きょとんと瞳を丸めて見慣れない顔をしたあと、困ったように頬を掻きながら彼は笑った。
「……え、っと……」
出すぎたことを言ってしまった、と後悔しても遅く、彼は名簿を閉じると私に向き直って頬を掻いていた手をうなじへと回す。
仕事はすでに終わったのか、名簿はそのまま長机に置かれ、ふたたび手がかけられる様子はない。
「……! あ、その、すみません……」
「いや、別に良いんですけど……そんなこと言われたの初めてだし、急だったからびっくりして。凄く嬉しいです」
「でも、本当に素敵な字だと思います。人柄が出てるみたいで……」
「……そうですか? 自分じゃよく分からないなぁ」
どうやら気を悪くした訳ではなかったようでほっとする。
藤堂さんは凄く優しいひとだから、私を気遣うようにそうしてくれたのかも知れないけれど……。
どちらからともなく切られた会話は、それから続けられることはなかった。こうしてみれば、普段どれだけ彼が私に話題を振ってくれていたかが分かる。私と彼との共通の話題などほとんどないのだ。
私のつまらない世間話などを聞かせることも出来ないとなれば、平坦に生きている私に彼の興味を引ける話が話せる訳もない。
元々大きな汚れなどない清潔な部屋だ。そうこうしている内に、掃除はあっさりと終了を告げた。そうなってしまえば、私がこの部屋に居る理由はなくなってしまう。
「それじゃあ、お仕事頑張ってくださいね」
会話が途切れてからも私が引き続き掃除に勤しんでいた間、何も言わずに藤堂さんは空を見つめていた。
その視界の中に私が映っていたのかはわからないけれど、立ち去ろうとする私の言葉にぱちりと瞬いた瞳がこちらをはっきりと捕えた様子から見て、きっと映っていなかったのだろう。
大き目の丸い瞳の中心に、自分が映っているのが今度は分かった。
「……
さん」
ただ名前を呼ばれただけだと言うのに。
普段は弾むような響きを含んでいる彼の声色が、一音低くなっている気がして、無意識に体がこわばる。
何か不手際があっただろうか――私がそう思っていることが分かったのか、その真剣な声とは裏腹に彼はいつもの笑顔を浮かべると立ちあがって私の腕を掴んだ。
突然のことに、まくりあげた袖の下に直に伝わる体温を感じることも出来ずにいれば、彼は一瞬悩んだ素振りを見せた後、私の腕をゆっくりと解放すると手持無沙汰にその手を下ろした。
掴まれた拍子に、携えていたはたきから舞った小さな埃が、障子の隙間から入り込んだ日差しに照らされてきらきらと光る。
「俺も、
さんの字、好きですよ」
「……え」
「屯所に回る通達とかたまの献立とか、書いてるのって
さんでしょ」
「…………」
「可愛い字だな、って思って見てました」
「あ……! あ、あの、……ありがとうございます」
知ってたのか、という気持ちよりも先に恥ずかしさのほうが勝って上手く喋れなくなってしまう。
――好き……だなんて。
字のことだとは分かっていても、藤堂さんのように眉目の麗しいひとに言われるのは些か心臓に悪い。どきどきと血液が震える感覚に、ひどい勘違いまでしてしまいそうになる。
もしかして……。
さっき私に同じことを言われたとき、彼も恥ずかしいと思ったのだろうか……。
嬉しいと、思ってくれたのだろうか。
――だなんて、そんなこと。
(そんな様子は微塵もなかったけれど……)
考えながら掴まれたときの形のまま中途半端に持ち上げていた腕をそっと下ろせば、だらりと大きな虚脱が体を襲った。
気付かぬ間に相当緊張していたらしい。
……藤堂さんは優しくて気さくでこうして私にも構ってくれる許容の広いひとだ。
けれど、時々何を考えているのか分からないような瞬間がある。怖い顔をしているわけではないのに、侮蔑されたわけではないのに……時々、凄くこわくなる。
いまもそうだった。
彼が何を考えてそう言ったのかが読めなくて、焦燥する……。
だけど私はそんな彼を見る度にその沼に足を踏み入れたい気持ちに陥ってしまう。どこまでそれが続いているのか、確かめたくなるのだ。もうすでに体の半分以上を埋めているとも知らずに。
「それだけ言いたくって。
さんもお仕事、頑張ってくださいね」
そう言うと、彼は机に置いてあった名簿を持ち上げ私の隣に並んだ。そうして小さくこちらに会釈をしたあと、閉まっている障子に手をかける。
みし、と木枠の軋む音が一度鳴ったかと思えば僅かに開かれた障子の手前で「ああ、」そんな声がひとつ漏らされた。
頭の上に疑問符を浮かべる私に振り返ると、彼は涙袋を膨らませるように微笑んで直後、何気ない口調で感嘆の続きを放つと私がそれを理解する前に、部屋から出て行ってしまう。
一人部屋に残された私は、言葉を理解するよりも理解してからの方が悩まされることになるとは知らずに、彼が寄こした言葉の意味を必死に考えていた。
「何も、好きなのは字だけじゃないけど」