「
さんって……歌声酒場とか、行かれないんですか?」
屯所の敷地の中、土蔵近くの井戸の前で洗濯に勤しむ私にそんな声がかけられたのは正午をすこし過ぎたころだった。
八番隊は今回の任務から外れたと聞いていたし、きっと暇なのだろう。彼はそう言って私の足元にしゃがみこむと、こちらを見上げるようにして私の返答を待っていた。
――藤堂さんは、なんというか。
八番隊の隊長でありながら、こうしてときどき私を構う、不思議な人だ。
そして、……私の密やかな想い人でもあった。
「え……?」
「いやぁ、なーんか聞きたいなぁと思って。あ、俺自身はあんまり行かないんですけどね。歌、上手くないし」
彼とする世間話は楽しい。
こんな一面もあるのか、と知ることも出来るし、何より彼自身が私を楽しませようとしてくれているのが見て分かるからだ。
元々そういう気質のある人なのだろう、それがこちらの負担になることもないのは勿論のこと、彼と話している時には苦しい沈黙を感じたことも無かった。
「……私もです」
「意外ですね。
さん、声可愛らしいし、上手そうなのに」
けれど不意に、こんなふうにさらっと気を持たせることを言うから心臓に悪い。
(惚れた弱みかもしれないけれど……ただでさえ顔は整ってるし、優しいしでこっちはいつも必死なのに……)
私のそんな気持ちなどどこ吹く風で、彼はにこにこと笑みを浮かべたまま私を見ている。
もしいま、その何気ない笑顔が好きだと言ったら、驚くだろうか。
藤堂さんは、いつも飄々としていて、それこそ私なんかが「好き」と伝えたところでさらりとかわしてしまいそうな雰囲気も持ち合わせている。伝えられた気持ちを無下に扱うことはしなさそうだけれど、かといって求める返事がかえってくるとも思えない。
この時代に生きる彼が、目に映るすべてに対してどこか冷めた胸中を抱いているということは知っていた。そして恐らく私もその一部にすぎないのだろうな、ということも。
「……人に聞かせたことないので、なんとも言えないです」
繕ったような声が出てしまったことに驚く前に、彼の視線が私を射抜いた。
女の人のように大きい黒眼がちな瞳が、丸みを崩すことなく白目に存在して、その表面に私の背後を映している。
――その丸い瞳に、薄らと熱がこもっているように感じてしまったのは、私の勝手な思い違いだろう。
「……え? じゃあ上手いか下手も分からないじゃないですか。聞きたいなぁ、俺。今度一緒に行きましょうよ、一曲おごりますよ」
だからこそ、その社交辞令にも似た誘いは、私の心を激しく揺るがした。話している最中も濡れた洗濯物を絞ることをやめなかった手が止まり、誤魔化したかったはずの胸中をさらけ出すように彼を見つめてしまう。
何を考えているのか、綺麗な色や光をそこに置いたまま、けれども底を窺わせない瞳が、私をじいっと見返している。
(首……痛くないのだろうか)
ずっと首を折り曲げて視線を上げている彼の、そんなところを気にして、なるべく「変なこと」を考えないように努める。
「……藤堂さんも歌ってくれます?」
誘いを、本気にしているとも、断るともせず――曖昧に濁して、彼がもうひと押しをくれるのを待ったような言葉が口から出てしまう。
――ばれてはいないだろうか。
私がその実現を望んでしまっていることが……。
そんなことを思っていれば、一瞬、私の言葉に瞳を瞬かせた彼が「よ、」と小さく声を漏らし、立ち上がりながら笑って言う。
「良いですよ。でも、俺、本当に上手くないですからね?」
「……! そんな、それは私も同じです!」
勇む様に言葉を返した時、自分の手のひらにまだ布の感触があることに気がついて更に慌てた。
水気の十分に飛んだそれを盥に戻すと、洗濯物がたんまりと入れられ、洗う前よりもすっかり重くなってしまった盥を彼が何気ない動作で井戸の縁角から私の足元へと下ろしてくれる。
「じゃあ
さんの次の休みのときに、俺も土方さんに頼んでみます。最近は大した仕事もないし、一回くらいならきっと許してくれますよね」
あまりにもそれが自然だったために、お礼を口にする間もなく彼が言葉を続けてしまう。
彼はそういうさり気ない優しさが、相手にどんな気持ちを与えるかということに、きっと気が付いていないのだ。
「……楽しみにしてます。藤堂さんの歌、聞くの」
(本当は、“歌も”、だけれど……)
膨れ上がる気持ちを抑えながら、今しがた下ろしてもらったばかりの盥を力を入れて持ち上げれば、思ったよりも重いそれに足元が僅かに傾いた。
(あ、倒れる……!)
――その瞬間、私の意識の大半を奪っていた盥の重量が消え、浮きかけていた踵が事態を理解する前にゆっくりと地面へと戻る。
気がつけば、私の手のひらを覆うようにして添えられた大きな手が、ぐっと込められた力で盥を支えてくれていた。
こんなことが出来る人間など、この場には一人しか居ない。
「す、すみません……!」
慌てて謝れば、彼が覆っていた手のひらに少しの隙間を空けてくれる。抜け、ということだろうか、と思い恐る恐るその隙間から最早添えるだけになっていた自分の手をひっこめれば、盥を持ち直した彼が「……頼めばいいのに」と、ぽつり、呟く。
「……危ないじゃないですか。俺が居なかったら今頃大惨事ですよ? これひっくり返したら、中身もう一回洗い直しですよね」
「…………こんなに重いと思っていなくて、すみません」
「……謝られたくてやったわけじゃないんだけどな」
「……有難うございます」
「
さんって、へんなとこおっちょこちょいですよね。いつもは絶対こんなドジ踏まないのに」
言い返す言葉もなく項垂れていれば、腰を支えにして盥を片手に抱え直した彼が呆れた顔で、二度三度つま先を地面に弾ませた。
いま、彼は“俺が居なかったら”、と言ったけれど……
藤堂さんが居なかったら、きっとこんなヘマはしていないだろう。彼が居ると、調子が狂ってしまう。
その証拠に、触れたばかりの手は、未だ熱が下がる気配がない。
「これ……庭まで俺が運びますよ」
「え?」
「目離したら、またこけちゃいそうだし」
心配しているのかからかっているのか、分からないような口ぶりでそう言ってのけた彼は、私より半歩早く庭へと歩き出す。
それを追いかけるようにして歩き出せば、斜から窺えた彼の横顔が何かを言いあぐねているように見えて、私は惹きつけられるようにそこから視線を逸らせなくなってしまう。
彼と居る時には滅多に訪れることのない、僅かな沈黙に、じゃり、じゃりと二人が地面を蹴る音だけが辺りを飛びまわっていく。
いよいよ庭の目の前まで来たかというとき。用事の無い人間は普段訪れないということもあって、屯所の中では特に人気のないそこで彼は立ち止ると、徐にこちらに向き直った。何かを言いにくそうにしている表情は健在しており、私にとってよくないことを言われるのではないかと身構えてしまう。
そうやってびくびくしている間にも、私がいつも洗濯物を干す場所の近くに、彼が盥を置いてくれる。
「有難うございました。何から何まで……」
彼が何かを言い出す前に、これだけは伝えておかねば――、そう思い口を開けば、神妙な顔付きをしていた彼の頬が僅かに緩む気配に、小さく瞠目する。
いつもの快活とした笑顔とはまた違った、優しい顔。
幸せそうな顔。
まるで何かを慈しむような……。
そこまで考えて、顔に熱が集まるのが分かった。
良いように勘違いしてはいけない。私にだけじゃなく、彼は誰にだって優しいのだから……。
――けれども私のその必死の言い聞かせは、彼によって遮られた。
「こういうことは、俺と二人きりのときだけにしてくださいね」
その意味を計りかね、ほとんど反射的に彼を見上げれば、ほんの少し前の余韻すら感じさせぬ無機質な瞳が私を貫くように存在していて、心臓が鷲掴みにされたような錯覚に陥ってしまう。期待しても良いのか、と見上げた先に居た彼は、私に好意を持ってくれているとは思えない顔をしているのに、それでも彼は確かに私の返事を待っていた。
「……はい」
「良かった。それじゃあ俺は先に戻りますね」
“良かった”
――それはどっちの意味だろう。
私の心配をしてくれているのか、それとも別の……。
こちらに右手を上げて立ち去ろうと背を向ける藤堂さんの姿を見ていたら、このまま帰してしまうのは駄目なような気がして、私はその背中を呼びとめる。
「藤堂さん!」
「……
さん? なに?」
私がいま、好きだと言ったら、彼はどんな答えを寄こすのだろう。
言えるわけがないことを考えても仕方が無いと首を振るいながら。
「……さっきの話、楽しみにしてます」
けれども口から出てしまったものは結局、同じなような気がした。
私の呼びかけに振り向いた彼の口元が微かに震えたのが少し距離を置いたところからでも見て取れた。
先ほどからこうして、彼は私に何かを言いあぐねている素振りをする。何を考えているのか、分からない表情で……けれどもそれはきっと私も同じだろう。
彼に対して何て言葉をかけたらいいのか、時々迷うのだ。
(彼が好きで、自分をよく見せたいから……)
それでも、彼は違う。彼はきっと、私を傷つけないように言葉を選んでくれているのだろう。
息を吸う音。
彼が私を見つめたまま、視線を逸らすことなく口を開く。
「……それって、都合の良いように解釈しても良いんですか?」
「…………え?」
「いまの言葉は、“そういう意味”なのか、と」
その言葉に、彼を中心にして不意に広がっていく視界に、私がどれだけ彼を注視していたのかということが分かって、恥ずかしくなる。
私の背後にある、触られることなく放置されたままの洗濯物の上っ面は、皺が寄ったままほとんど乾いてしまっているだろうなと思った。せっかく、彼が運んでくれたというのに、洗い直しをせねばならないだろう。
「私が、もしそのつもりで言ったといったら、そう受け取ってくれますか?」
けれども、それを見ていたら、すんなりと紡げてしまった言葉に自分でも驚いた。呼吸が止まるような感覚が、一歩遅れて私の体にやってくる。
「……そんな大事な物を、俺が受け取っても良いのなら」
――次いで返って来た彼の言葉に今度こそ、本当に呼吸が止まりそうになるとは知らずに。
「それって……」
「……洗濯物、すっかり固まっちゃいましたね」
「え? ええ……」
「また付き合いますよ、井戸のところまで」
そう言って私のところまで戻ってきた彼が盥を持ち上げるのを見つめていると、頭に疑問符を浮かべたままの私を見て彼が笑う。
意図的に私の言葉の腰を折っていたことにそうして気が付き、反論しようと口を開けば、それは彼の視線によってふさがれる。
(……ずるい人、)
「そういう顔も、俺と二人のときだけ、ね」
きっと、私がそんなことを思っていることも彼の前ではすべてお見通しなのだろう。