万屋で買い物を終え、働いている料理屋へと戻る最中、いましがた角を曲がろうかと体を反転させたところで、誰かと大きくぶつかった。ぶつかった面積とその骨ばりから恐らく男性であろう相手はそこそこに急いでいたのだろう、相応の衝撃がわたしの体を襲ったかと思えば、声を漏らす間もなく活力丹を収めてもらった包みが地面へ、とすん、と落っこちた。
 けれども、その衝撃で倒れるはずのわたしの体はいつまでたっても倒れることがなかったので不思議に思い、咄嗟に瞑ってしまっていた目をおずおずと開けば、目の前に酷く整った顔があったので計らずも焦ってしまった。
 その際に――浅葱色の羽織は、注視せずとも視界に入った。
(……新撰組だ、)
 心のなかのわたしがそっと呟くも、声には漏れず安心した。

「あのー、大丈夫ですか?」
 気まずそうに声がかけられて、はっとする。
 彷徨わせていた自分の視線が、そのせいで彼にはっきりと注がれ、まじまじと見つめてしまえば、より鮮明にその顔が捉えられて狼狽する。綺麗なひと、というのはきっとこういう人のことを言うのだろう。けれど、その顔立ちとは反対に掛けられたその言葉が、心配だと訴える猶予げな視線とは異なった妙に軽薄そうな口ぶりだったため、思わず訝しんだのだけれど――そこで初めて自分の背中にまわされている大きな手に気が付き、わたしは小さく後ずさった。
 刹那、温度の伝っていた背中が、彼の間合いから離れ、ゆっくりと解放される。
 動いた拍子に微かに響いた、彼が腰に差している刀の鍔の擦れるかちゃり……という音が、やけに寒々しい。

「あ……はい。大丈夫です。すみません、よそ見していて……」
 支えが無くなったのは、どうやら彼も同じだったらしい。
 解放されたその大きな手は、そう言っている間にも、地面へくたと横たわる包みをそっと拾い上げて、わたしへ差し出してくれる。
 ――気の利くひとなのだろう。
 ぶつかったことは、本当にわたしの不注意だったのだ。
 改めてそう思い、一人申し訳なさを感じていれば、ふと、目の前の彼が笑う気配に、私は静かに瞠目した。
 包みを持っていた手とは反対の手が、私の腕を掴んで、その包みを手のひらに取らせるように押しつける。
「お姉さんがよそ見をしていたとしても、ぶつかったのは俺のせいでもあると思うんだけどなぁ……はい、これ。……っと、中身は大丈夫、ですかね?」
「え……ええ、たぶん。大したものは入ってないですから」
「そっか」
「こちらこそ、すみません。支えて頂いて……」
「……いや、怪我でもされたら大変だし。それに――支え、だなんて大げさですよ」
「…………ありがとう」
「あはは、どういたしまして。それじゃ、俺はこれで。ぶつかった俺が言うのも変ですが、お気をつけて」
「……はい」
 その浅葱色の羽織が、時折町中で見かけるありふれたそれと違うことはすぐに分かった。一瞬、首を捻った時に窺えた、背中に刻まれた数字は――八。
(新撰組、八番隊隊長……)
 名前は聞いたことがあった。確か、藤堂平助。
 “壬生浪の人斬りには、迂闊に近寄らないほうがいい。”
 ――料理屋の女将さんにもそう言われていたけれど、それにしては随分印象の違うひとだと思った。新撰組にも、色々居るのだろう。彼は例外なのかもしれない、一瞬、そう思ってしまうほどには。
 けれども、途端に思い出すあの、うわべに浮かべた心配の視線の奥、何も移さない水面のような瞳は、確かにわたしの知り得ない何かを経験しているのだろうというほどには、濁り切っていた。
 抱きとめられたとき、かちあった鍔の音。
 あれは人をいつでも斬れるという証拠に他ならないのだ。私が女であっても関係ない、機嫌を損なうようなことがあれば、きっと……。
(恐らく、これから会うことはないだろうけれど――、)
 ……そう思えば、何故だろう。
 ざわざわと流れ溢れる雑踏の中。
 別れを告げてすぐに立ち去ったはずの、彼の足音がまだ近くにあるような気がした。


 ***


 ある日の夕刻、いつものように店先で打ち水をしていると、まさに水をかけようとしていた場所に人の足が入り込んできたから驚いた。
 咄嗟に柄杓を握っていた腕を引けば、目の前にあった足が遅れて一歩退く。その動きが「避けられなかった」というよりも、「わざと避けないようにしていた」ように見え、私は無意識に顔を上げる。そこにあった相手の顔は、全く予想がつかなかったけれど、一目見て、どうしてか。妙な胸騒ぎに襲われた。
(悪い印象は、これと言ってないはずなのに、)
「ああ、お姉さんだ。この間はどうも。……へぇ。ここで働いてたんですね」
 ――藤堂平助……。
 彼と会う時は、いつもふたりきりだ。

「……え?」
「前に、ぶつかったでしょ。えびす屋のちょっと先の角で。ほら! 小さな包みの……」
「ああ……」
 私の疑問符は、まるでこの店を知っているような口ぶりだったからにすぎなかったのだけれど、どうやらその意図は伝わらなかったらしい。私が彼のことを覚えていないと取られたのか、明朗な口調で彼が続けた。むしろ、私は……彼が詳細に覚えていたことのほうが驚きだったが、私のそんな胸中を表した小さな瞠目は、彼の眉根を静かに歪めさせてしまう。
「……あ。覚えてない、って顔してますね。寂しいなぁ。俺は覚えてたのに……まぁ良いですけど」
「……え?」
「この場合、初めまして、って言い直した方がいいのかな」
「えっ……いや、あの、覚えてます!」
 持っていた柄杓を木桶に放し入れ、そのまま木桶を地面に置いて答える。焦って咄嗟に出た身振り手振りに、着ものの袖がすれ合ってもどかしい。
「……ぷっ、……はは、すみません。ちょっと意地悪でしたね。流石にこの羽織を見て忘れるってことは無いでしょうし」
「…………」
「あ、黙っちゃった。……なんていうか、お姉さん。真面目な人なんですね」
 持つものが無くなった私の両手が、手持無沙汰に宙を舞って、腰にぶつかる。
(――掴めないひと。)
 私を見る目が、声をかけられた時よりも楽しげに光っているのが分かる。それでも、からかっている風には見えないのが、やけにちぐはぐで……掴めない。
「……そういうあなたは……少し軽薄なんですね」
 それに、私がそう言えば、普通に傷ついたような顔もする――、
 けれどそれも、一瞬で掻き消されてしまったけれど。

「そう見えます? まぁ、今のじゃそう思われても仕方ない……か。でも、そんなつもりじゃなかったんですよ?」
「…………」
「……すみません。なんだか縁を感じてしまって、少し気分が昂揚しちゃって、」
「……いえ、別に、謝らないでください。気にしてませんから。それにわたしだって、出すぎたことを言いました」
 彼がどうして私にまたこうして声をかけてきたのか、ということは分からないけれど、単なる気まぐれならばそれでいい。
 彼の琴線に触れることなく過ごせたならば、それで……。
「…………本当に真面目なひとだ」
「……え?」
「いや、なんでもないです。いつかお店にも遊びに来させてもらいますね」
(いま、何か呟いたような気がしたけれど……)
 私の反芻は、彼のにこやかな視線に流されて消える。
 それに、店の暖簾を眺めながら楽しそうにそんなことを言われてしまっては、追求する気持ちもどこかへいってしまうというものだ。
「……ええ、」
 小さくわらって頷けば、満足そうに彼が首を振るう。

「それじゃあ、また」
 そう言って壬生の方角へと歩みを進める彼の後ろ姿を眺めていると、彼の背が角に消えたのと時を同じくして、買い出しに行っていた女将さんがそれとは逆の道から慌てた様子でこちらに走ってくるのが見えたので、置いておいた木桶を持ち上げながら私は首を傾げる。
 ぜえぜえと息を乱しながら、私の目の前で呼吸を整えようとしゃがみ込んだ女将さんは、野菜の入った籠をこちらへ差し出すと整わぬ息のまま青ざめた顔で私に告げた。
「いまさっき、この先の旅館で人が斬られたの……新撰組の仕業ですって……」
 その口から飛び出した思わぬ単語に、背筋がぴくりと跳ね上がる。
「……新撰組……?」
「……脱走した隊士の処分だって、居合わせたお客さんが言ってたわ」
 新撰組に伝わる、鉄の掟は町民であれば誰だって知っているものだ。隊から抜けようと逃げようものなら、切腹される。それがどれだけ恐ろしいことかということも、新撰組ならぬものでも常識のように扱われる事柄だった。この辺りの人通りが、いつもよりも少なく感じられたのはその事件のせいか――、さきほど彼と話しているときも、全くというほど人の姿が見えなかった。
 ふたりきり……。
 おかしいとは、思わなかった。
 けれども一つ、思い浮かんでしまった考えに、指先から伝う僅かな震えが木桶に残った水の表面を揺らがせる。

「…………“それ”って、」
 羽織に、汚れなど無かった。
 どこ吹く風で、飄々としていて……一度あった時と変わったところなど、何も無かった。

「八番隊よ。さっきまで、隊長も現場に居たらしいのだけど……」
 あんなにも、変わらないものなのだろうか。
「……八番隊、」
 人を殺したばかりのひとが……。

「なに、ちゃん、何か知ってるの……?」
「え、」
「だって、難しそうな顔してる。八番隊って聞いた途端……」
「…………」
 彼がやったと、決まったわけではない。それに、私が彼の何を知っているというわけでもないけれど。例え一瞬でも、悲しいと、そう思ってしまったのだからどうしようも無かった。
 隊士に処罰を与えられる人間は限られている。
 もし、私の考えの通り、彼がやったのだとしたら……。

 ――掴めないひと。
 目を閉じればすぐにだって、彼の上がった口角が瞼に映される。
 それでも私にとって、知らぬ人でも無くなってしまった彼の取っ手の無い感情は、想像も出来ないほどに恐ろしくて、とても悲しいものだった。


 ***


 彼と最後に会ったあの日から十日ほどが経過して、先に有ったことも忘れかけていた頃、女将さんが長期の旅行に行くと言い出した。なんでも、京では手に入らない食材の買い付けに行くらしい。大きな料理屋では無いとは言え、女将さんの味を求めて日夜沢山の人が訪れるこの店を今まで手伝いとして働いていた私だけで切り盛り出来るとは到底思えず、買い付けは私に、と言ったのだけれど「そろそろちゃんにも厨房を任せたいと思って」と言われてしまっては、その期待を無下にすることが出来なかった。
「接客はもう手慣れているもの。料理だって独り立ちさせてもいいくらいよ。きっとお客さんだってすぐちゃんの方が私よりも良いって言うわ」
「そんな……わたしなんてまだまだ、」
「今回は練習だと思っていいから。それに、二週間ほどの辛抱よ……任せたわね」
「……はい」
ちゃんなら大丈夫、心配しないで」
 そう言われたのが先週の事――もうすぐ、女将さんが居なくなってから一週間。店の方はなんとかやれていたものの、いつもの倍の疲労もあって早くも根を上げそうになっていた。

 今日は週唯一の定休日であったので、起きてすぐ、暖簾を下ろすために店先へと出ていた。
 扉を開け、外に置きっぱなしにしていた木桶を玄関に戻し、暖簾へと手をかける。左側からつっかえを外し、店名の書かれたそれを巻きつけ、店内に戻り、靴棚の上へ置く。
 まだほんのりと暑さの残る時期だ――少しの間しか外に出ていないというのに、室内に居れば感じる温度差。中途半端に開けられた扉から入ってくる風がやや温い。玄関独特の、ひんやりした空気がその隙間から漏れださないよう、扉を閉めようと手を伸ばしたとき、その先に影が作られた。
「あれ、もしかして、もう閉めちゃいました?」
 直後――耳を撫ぜた声に、扉に触れかけていた手が思わず止まる。
 すると、一瞬の間をおざなりに置いて、申し訳なさそうにこちらを見やる瞳が私の顔を覗き込んだ。無邪気そうな瞳に映る自分が、明らかな困惑を顔に浮かべているのが分かった。
 ……日常を取り戻しかけてきたところだったのに。
 それをまるで、狙っていたかのように、彼はまた私の目の前に現れた。

 浅葱色の羽織に目がちかちかと瞬いてしまうのをぐっと堪えながら、彼を見据えて答える。
「……今日は、定休日なんです」
「……あっちゃー……今日は仕事も無いし、やっと食べれると思ったんだけどなぁ」
 ――生憎というべきか、今日は本当に定休日なのだ。
 とはいえ、先日この店の存在を知ったであろう彼がそれを知ってるとも思えず、わざわざ足を運んでくれたとなればなんとなく申し訳ない気持ちになる。
 緩慢な動きで頭の後ろを困った顔で掻く彼を見ていたら、そんな気持ちは自然に膨れ上がっていくというもので。
 彼を、怖いと思っていたはずの自分は、この店の中では随分と強気になってしまうようだ。
 日光の差し込む扉の前、こちらを見下ろす彼に笑う。
「いまから私もお昼を食べるところなんです。良ければ上がっていきますか……?」
「え? いいんですか?」
「……はい。先日のお礼もきちんとしなくては、と……ずっと思っていたので……」
 ぶつかったのはお互い様だと彼は言っていたけれど、それでもあの時咄嗟に支えてくれなければ私は怪我をしていただろう。
 彼のことに関して、怖かったり、悲しかったりを逡巡した出来ごとは忘れようと努めても、そのお礼だけはいつか別の形でしなくてはと思っていた。
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
「ええ」
 私の突然の誘いに、今まで見たそのどれにも当てはまらないような不思議な表情をした彼は、どこか居心地悪そうな顔で頷くと、店内に促す私の手のひらに誘われるように扉を潜りながら、思い出したように呟いた。
「ああ、そうだ。俺は藤堂平助って言います。もしかしたら知っているかも知れないですが……」
 ――彼が、後ろ手に扉を閉める。
「藤堂さん……」
 面と向かってその名を呼ぶのはこれが初めてだった。
 けれど、自分の口からすんなりと紡がれたその名が、形容しがたい響きを持って自分の耳へと戻ってくる感覚に気恥かしさを感じてしまうほどには、それは言い慣れている口ぶりで発せられた。
「はい。ちなみに、お姉さんの名前を伺っても?」
 それが伝わっているのか、いないのか――彼は変わらぬ笑顔で私を見つめる。
「……わたしは、です」
さん。……すみません、ごちそうになります」
「はい、お構いなく」
 からかったように見せたかと思えば、厭に礼儀正しくて、どれが本当の彼なのか分からなくなる。一度や二度会っただけの間柄であるから、分からないのは当たり前かも知れないけれど。
 ――もし、彼自身もそれが分からないのだとしたら、どれくらい怖いことなのだろう。

 段差に腰を下ろして草鞋の紐を解き始めた彼を見ながら、私はその気持ちを誤魔化すように、先に店の奥へと戻って行った。


 ***


 季節の野菜を天ぷらにしたもの、それから、お味噌汁に、お漬物と、かて飯……簡易な料理であったにも関わらず、藤堂さんはとても美味しそうに食べてくれた。
 時折、「美味しいなぁ」とか「これって何が入っているんですか?」とか、そんな会話を投げかけてくる彼に返事をしながら、私も久しぶりに誰かと面と向かって食事をする喜びを感じていた。
 けれども、いまは箸を握っている彼のその、男性にしてはほっそりとした繊細な手のひらが、彼の常では刀を握るためだけに存在しているのかと思うと、私は私のこの日常こそが非凡的なものではないかと思ってしまう。
 よくよく考えてもみれば、私はいまだ、彼の深淵には皮一枚も触れてはいないのだ。
 ……そう思えば、どこか寂しい。
 きっと私は、自分の作ったご飯をこんなにも幸せそうに噛みしめてくれる彼が、偽りであるとは思いたくないのだろう。

「ごちそうさまでした。今まで食べたことがないくらい、美味しかったです」
「そんな、有難うございます」
「本当にお代はいいんですか?」
「ええ、お礼ですし、それに、こんなことを言っては何ですが……自分の昼食のついでですから」
 昼食を終え、彼を店先まで見送ろうかという時。
 草鞋を履き終えた彼がこちらにくるりと振り返って言う。通常注文は受け付けていないような簡易な料理であったことは何度も説明したけれど、それでも彼は幾度かこうして食い下がった。その言葉に、眉尻を下げながら首を振るえば、一瞬口元をまごつかせた彼が腰に手を置いて吐息混じりに呟いた。
「それでも……何だか、俺ばっかり得しちゃって申し訳ないです」
「……?」
「女の人とこうして楽しく話したの、久しぶりなんです。ほら、新撰組って男が多いでしょ? もうむさっ苦しくて」
 何かを思い出しているのか、時々、視線を左右に泳がせながら、彼はそう言うと笑った。その笑みが、心底辟易しているといった色を浮かべていたから、私もつられて笑う。
「……揚屋とかには行かれないんですか?」
 途中、頭に過った純粋な疑問をぶつけてみれば、考えるようなそぶりの後、答えが返ってくる。
「……ああ、ああいうの、俺あんまり好きじゃないんですよ。接待って言うんですか? どっちかって言えば普段やる側だから、色々考えちゃって……それに、新撰組ってだけで見る目が違うし、噂になったりするのも嫌ですしね」
「…………そうなんですか」
 ときどき、祇園の町を歩く時、客引きの従業員につられて何人もの男性が揚屋へふらりと立ち寄る姿を見ていたから、なんとなく皆ああいうお店が好きなものだと思っていた。日ごろの疲れを癒すというのならば、豪遊するのが好きな人も居るのだろう、と。
「意外でした?」
 ふと考え込んでいれば、視界に入りこんできた、なんとも意地悪そうな顔。私の瞳孔をじっと見つめて、何て返すかを想像しながら待っている顔。
 ――彼は、こうして時折、私を試すかのような顔をする。
「……いえ、なんとなく、そんな感じがしてました」
「…………へぇ」
 言いながら、とん、と彼のつま先が砂利を蹴る。
「……さん」
 そのつま先を軸にして、彼はくるりとこちらに背を向けると、徐に扉へ手をかけた。木枠が風に軋んで僅かに音を立てたとき、首だけをこちらに振り返らせた彼が私の名を呼んだ。
 背を見た時、嫌でも入るその数字と、彼の獣のような鋭い瞳を見れば、どうして今まで団欒としていられたのだろうというほど、寒気が体を蝕んでいく。
 これからきっと、私にとって良くないことが起こるかも知れない。
 ……それでも。

「……少し、外を歩きませんか」
 ――断れない。
 咄嗟にそう思ったのは、彼が新撰組だからか、それとも、
「……ええ」
 その視線に、特別な感情を感じてしまったからだろうか。


 ***


 鴨川沿いの人道橋は、子供が一人二人と居るだけで、端のほうへと寄れば水の音しか聞こえないほどの殺風景に包まれていた。
 すたすたと先を歩む彼についていけば、丁度道の途切れるところで立ち止ったので、私も合わせるように歩みを止めた。
 ざぷん、と、静かに波立つ鴨川に視線を移せば、間もなくして彼がこちらを向く気配に、けれども私はまだ、真っすぐ川を見つめていた。鴨川へ来るまで、会話という会話は無かった。空気の切れる音、地面を摩擦する音、袖の触れる音……、時々彼がこうしてこちらを見ているのには気が付いていたけれど、私は視線を返すことなく後ろをひたすらついて歩くだけだった。
 二人の体重がかかった木橋がぎぃ、と弛んだとき、足元まで辿りついた波の名残が私と彼のつま先をぬらした。その思わぬ冷たさに、彼の方を見てしまえば、彼はまだ、私のほうをじっと見つめたままだった。
 視線がかちあって、相手から外される。
 そうしてまた戻ってきたとき、彼の視線はどこか初めて会ったときのような色を携えていた。
「……さんは……」
 私の後ろの、町並みを見ているのか、自分を透けてどこか遠くを見ているようなその視線は、合わさっているようで僅かにずれていた。縮みきった瞳孔が、その中心を窺わせまいとしているせいかも知れない。名前を呼ばれ、小さく返事を返せば、彼は腰に差した刀の柄頭にそっと手を乗せ、私に放った。
「俺が隊士斬ったの、知ってるんでしょ?」
「え……」
「嘘は吐かないでいいですよ。だからどうしようって訳じゃないですし」
 突然の問いに答える間もなく、彼がへらりと笑って歯を覗かせる。
 私はといえば、“俺が”という前述に思考のすべてを持って行かれ、頷くことも首を振ることも出来なかった。
 ――信じたくない、信じられない……という訳ではない。
 彼がどうしていまこのときに、それを私に告げたのかということのほうがきっと重要であるから、それが図れなくてもどかしくて堪らなかったのだ。
 “きっともう会うことはないだろう”
 初めて会った時、彼にそんなことを思った私が、今は逆のことを考えているだなんて、図々しすぎることかも知れないけれど。
「……はい」
「やっぱり、知ってたんですね」
「…………」
 あの日の、女将さんの慌てた顔、八番隊隊長がそこに居たこと、それから、私に会いに来たこと……。人を殺めて尚、あんなにも人となりが変わらない人も居るのかと思った時、私は怖いと思うよりも先に悲しいと思った。明日を生きるために犠牲にしているものが何も、他人だけではないのではないかと思ってしまったからだ。そうして、それに彼が気が付いていることも。
「でも、だとしたら……俺には分からない」
「……え?」
「知ってたならどうして、俺にお礼だなんて」
 彼の視線が不意に外れ、徐々に下がっていく。
 私は、知らぬ間に自分が拳を握りしめていたことに気がついた。その内側に何も掴んでいないというのに、まるで握りつぶすみたいに、爪が皮膚に食い込んでいるのが分かる。
 ――痛い。
 その痛みを誤魔化すみたいに、どんどんと拳に力が入ってしまう。

「……助けてもらったからです」
 一番に浮かんだことを素直に舌に乗せてみれば、思っていたよりも大きな声が出て、自分でも驚いた。
「急いでたなら無視することだって出来たのに、わざわざ支えてくれて……」
「……それは……」
「嬉しかった。純粋に……藤堂さんはお互いの不注意だと言っていたけれど、それでも……」
「…………」
「…………」
 言葉が途切れた一瞬の沈黙の後、彼が視線を引き上げて寄こす。
「……なら、」
 その瞳は、今度ははっきりと、私を見ていた。

「本当はあの時……ぶつかった時、あんたのことも斬ろうと思ってた、って言ったら、どうします?」

 初対面の時からずっと、笑った顔を絶やさないような人だった。
 口角はいつも少しだけ上がっていて、瞳も、丸い時よりも三日月になっていることの方が多いような人で……だからこそ、掴めない、と私も思っていた。
 その瞳が、真っすぐ、何の色も浮かべずに私を睨んでいる。
(……ああ、怒ってるんだな)
 そう感じて、私はなぜか無性に安堵した。彼の瞳に映る自分は、悲しそうな顔をしているというのに。
「そういう人間なんです、俺は。さんが思っているような人間じゃない。知ってるんでしょ? 例えあんたの親でも、もし上に殺せと命じられたら殺す……、そういう人間なんですよ……」
「……藤堂さん……」
「怖いと思っても、無理はないです。それに対してさんが後ろめたさを感じる必要はない」
「……いえ、」
 さわさわと緩やかに泡立つ水音に、掻き消されそうなほどの音量であった私の否定は、彼の鼓膜を確かに震わせたらしかった。怪訝そうな瞳が、未だに私を捕えて離さない。
 ――私はいつから……、こんなにも彼のことを分かった気でいたのだろう。私の言葉の続きを待つ彼のその姿が、諦めにも似た雰囲気を纏っていることに気がついてうろたえる。私は、彼に期待されてはいないのだ。ここで何を言っても、きっとその心に響くことは無い。
 それでも、彼は私に会いに来た。一体何のために……。
 そう考えた時、もしも彼が試しているのが、私ではなく、自分自身だったとしたら、そんな恐ろしいことが、あってたまるだろうかと思った。
「もし……、もし逆の立場だったとして、わたしが同じことを言ったら、藤堂さんはわたしを怖いと思いますか?」
 唇が震える。
 こちらを睨んでいたはずの彼の視線が緩んで、困った顔つきになる。柄頭を握っていた手のひらが首の後ろに回されたかと思えば、そのまま頬を滑って指先が数度そこを行き来する。
「そんなこと……」
「……答えてください」
 ――彼は、恐ろしくて、悲しくて、それでいて、
「…………分からない。俺にはそれが、想像できませんから」
 なんて空虚なのだろう。

「…………」
さんが誰かを殺すところを想像出来ないんじゃない。俺が人と変わらない生活をしているところが、想像できないんですよ」
「……藤堂さん、」
「すみません、変な空気になっちゃいましたね。そんなつもりは無かったんですが……」
 じゃり、と、彼の踵が地面を滑る。
 あれほどに波打っていた鴨川の水の流れは今ではすっかり静かなもので、そこにあったこの時間さえも無かったかのように感じさせてしまうほどに落ち着きを放っていた。
「……さんは、本当に真面目な人なんですね」
 ――もうきっと、二度と会うことはないのだろう。
 彼の目が、口が、言葉が、そう語っているのが、酷く心苦しい。
 そう思ってしまえば、いつの間にか絆されている自分にも気がついてしまい、僅かに焦燥する。
 掴めないひと。
 話していても、どこか違う世界に居るようなひと……。
「藤堂さんも……」
「……え?」
「……真面目なひとなんですね」
 その言葉が口から出たのは、ほとんど無意識の内だった。

 未だ濡れたままのつま先が、先にあったことが現実であったことを教えてくれる。ひんやりと冷たさの残るその足の違和感に思わず指を動かしてしまったとき、彼が私の言葉を咀嚼するように呟いた。
「もし……俺が死ぬようなことがあったら、貴方は……さんは、悲しんでくれますか?」
「えっ……?」
「誰かが俺のために泣くというなら、俺は死ぬまで弱音を吐いたりしません。その人を、馬鹿にすることになるから」
 これが答えの無い問いであるということは、彼の目を見ればすぐに分かった。恐らく私がどう答えても彼は満足しないだろう……きっと他に、本当に聞きたい相手が私の知り得ぬ“どこか”に居るのだ。
「わたしは……」
 そこに、彼の闇に通じる道があるような気がしたけれど、私が踏み込める隙間は恐らく無い。
 ……踏み込む勇気も、私には無かった。
「わたしは、泣かないと思います。それに、わたしが悲しんだら、藤堂さんが悲しむでしょう?」
「…………」
「わたしは貴方の悲しむ姿を見たくはないです」
「……死ぬ時は、さんの前には現れないですよ」
「それでも……藤堂さんはきっとわたしのことを思い浮かべるでしょう。あなたは“そういうひと”だから」
 生温かい風が、一度だけ私たちの間を通り抜ける。
 彼はその間に私の言葉に何かを言い返そうと口を開きかけたけれど、それはそのまま何も言わずに静かに閉ざされた。

 橋の先に居るであろう子供の無邪気な声が聞こえてきても、互いに言葉を発しようとはしなかった。
 数分とも数時間とも思える間の後、彼は私から視線を外すと、参ったような顔をこちらに向けながら静かにわらった。
「……俺は、軽薄な男ですよ」
 ほとんど抑揚のない冷たい声が、優しく私を突き放す。
 言葉を返すよりも先に、彼の体が私の横を通り過ぎていく。それを止める術を持たない私は、ただ彼の背中を見つめるばかりで、手を伸ばすことさえも出来なかった。
 通り過ぎる間際の、憂い気な顔にも、何も言うことが出来ないまま。

ちはやぶる