百々目鬼
 土方さんと二人、祇園へ出かけた帰りにふらりと立ち寄った青葉で湯豆腐を食べていると、先に食べ終わった彼が箸を置いて私を見やる。どうしたのだろう? と思いながらも、それにつられる様にして店内の壁に掛けられた料理表に向けていた視線を彼へと注げば、きりっとした顔を崩さぬ彼がそんな私を鼻で笑った。
「豆腐田楽か。私の記憶が正しければ……いま食べていたのは何だったかな」
「べつに……。ただ美味しそうだなぁって見てただけです!」
 ――どうやら、知らぬうちに視線を辿られていたらしい。
 嫌味を含んだからかう声色に、唇に力を入れいじけたように言い返せば、彼は尚面白そうに口角を引き上げて私に言って寄こした。
「そうか。ならいいが……君なら頼みかねんと思ってな」
「…………」
(た、たしかに、ちょっと頼もうかとは思ってたけど……)
 長机が等間隔で配置されているような、襖や障子の隔たりのない料理屋は、通常なんとも誘惑が多いものである。だからこそ隣の客が注文している料理の匂いにつられて、少しだけなら……と思ってもそれは仕方の無いことだと私は思うのだ。
 けれども。
 至極当然のように、土方さんはそういう経験がないらしい。

 まだ食うのか、という容赦の無い視線を向けられ、楽しく湯豆腐を食べていたはずの私はなんともつまらない気分に貶められる。
「何をふてくされることがある。私の事は構わなくていい。まだ君の胃袋にゆとりがあるなら迷わず注文すればいい話だ」
「……なんかその言い方、棘がありますね」
「どうだかな。ただ、そう言えば君は我慢するだろう?」
「…………う、」
(見透かされている……。)
 以前、井上さんにも「副長はおまえの扱いに長けている」とか、そんなことを言われたような気がするけれど、日を追うにつれてどんどん私に対する態度が雑になっているような気がするのは私だけだろうか。……打ち解けた、と言えば、そうなのかもしれないけれど、なんというか、女として認識されていないような気もする。
 元々、ただの女中である私がいま、新撰組の副長たる御方にこんなふうに気にとめて貰えるだけでも十分なことなのだけれど……。
「…………どうした?」
「……意地悪ですね、土方さん」
「そんなことはないと思うが」
 ――それより先を望んでしまうのは、私が彼を思慕しているからか。
 その気持ちを自覚したのは最近のことだったが、かと言ってそれ以前と何かが変わるというわけでもなく。
 相手からの対応もずっと「このような」感じであるので、私は他人事のように自分の気持ちを静観する毎日であった。
 慣れる、と言えば若干の語弊があるが、それ以外にこの状況を形容する言葉が見つからない。
 気兼ねなく時間を潰せる友人――という関係でも私はいま十分に満足出来ているのだ。それ以上を望み、この関係が崩れてしまうことのほうがよっぽど恐ろしかった。

「……それに、そろそろ屯所に戻らねばならない頃だろう。目の前の料理を片づけるほうが先決だ」
「…………え、もうそんな時間ですか!?」
 横目で覗き見た店先の地面を照らす太陽が、来た時よりも幾許か陰りを持ち始めていたことにそう言われて気が付き、楽しみに取っておいた湯豆腐の、御出汁と葱のかかった最後の一口を焦って頬張れば、もごもごと咀嚼する私に対して、机に肘を置いた土方さんがゆっくりと瞬きを落としながらため息を零した。
「君が注文に悩まなければもっと余裕があっただろうな。それこそ、豆腐田楽を食べる時間もな」
 店の中の照明が、土方さんの瞼から枝垂れた睫毛をぼんやりと照らす。今しがた放ったばかりの料理が口の中に残っていたので、反論する間を完全に失ってしまった私はといえば、ぼうっとそれを眺めながら未だ持ち上がる気配のない瞼のその、彼ののんびりとした瞬きが終わるのを待っていた。
 けれども、思ったよりもそれは長く――私が湯豆腐を食べ終わったいまも、血管の透けた薄い瞼が開かれる様子はない。
(もしかして、寝ちゃった……?)
「……土方さん?」
 そう思って呼びかければ、名前を呼ぶ途中で、図ったかのように彼がその瞼を開いた。
「……なんだ?」
 掠れた低い声に、やっぱり寝ていたのではないかとも思ったけれど――その視線からは眠気の類は全く感じられなかったので気のせいだったかと思いなおし、首を振るう。
「……いいえ、その……ごちそうさまです」
「ああ」
 こうして出かけた時、いつも勘定は彼が持ってくれることになっている。曰く、これも仕事の一部なのらしいが、相変わらず真意は読みとれない。


 ***


「おう! 歳チャン! なんやも一緒やったんか?」
 食事を終え、屯所へと戻れば、門の前で大荷物を抱えた沖田さんにそう言って呼びとめられた。
 ぱんぱんに膨れ上がった風呂敷を片手で持ち上げる沖田さんを尻目に土方さんはと言えば、そんな沖田さんを一瞥すると「では」と言って去って行ってしまう。
 とはいえ、沖田さんは沖田さんで「つれへんのぅ……」と少し寂しそうにするだけでその背中を追いかけようとはしないから、特に用事があったわけではないのだろう。
 足早に去っていく土方さんを見ながら、また自室に籠り俳句でも読むのだろうか――そう思っていると、先ほど私を呼びとめた張本人に、どしん、と重い包みを両腕に抱えさせられ思わずのけぞる。
「な、なんですか急に……」
「洗いモンや。知らん間にぎょーさん溜まっとってのう。どこに置けばええんかも分からんかったからな、お前が帰ってくんのを今か今かと待ってたちゅう話や」
 大きな風呂敷に包まれた衣服がどれほどの量かは想像出来なかったけれど、重さから察するに相当な量を溜めこんでいたのだろう、辟易したような顔で沖田さんが言うものだから、私も自然と同じような顔を浮かべてしまう。
「……私の部屋に置いておいてくれればよかったじゃないですか」
「…………そういう訳にもいかんで。これ見りゃ分かるやろ?」
 ぐい、とこちらに顔を近付けながら徐に羽織の裾を掴んだ沖田さんの、指先を辿るよりも早く視界に入った滲んだ赤に、手に持っていた荷物を落としてやろうかと呆れれば、それを察知した彼に風呂敷を奪われた。どうせ洗うのだから同じだろうに、そう思ったのは、二人同時のことだったようで、直後ぼすんと本人の手によって地面に優しく叩きつけられることになるのだけれど。
「ま、それは冗談や。ただ、何日洗うてへんか覚えてない具合やから中身は察してくれ」
「……はぁ」
「そんなことより、お前歳チャンと進展あったんか? 昼間っから逢引とはようやるやないか!」
 ここで大事なのが――前提として、私は沖田さんに自分の胸中を語ったことはない。これは彼が勝手に言っている、けれども簡潔に言えば「事実」である。
 最初に確信を突かれたときは驚いた。
 ある昔、屯所の井戸の向かいにある壺の中身を探る沖田さんがそれこそ日常会話の中で何気なく言ってのけたのだ。
 “お前、歳チャンのこと好いとんのか?”と。私は私で、まず一番に否定すればよかったものを、彼の前であろうことか一瞬戸惑ってしまったのだ。その後慌てて取り繕うもすっかり彼の中ではそう認知されてしまったらしく、それからずっとこの調子であるのだ。……間違ったことは言っていないけれど、明らかに、からかっている。
 私と土方さんが結ばれることなんてない――これはそう思っている人間の目だ。

「逢引って……ただ用事帰りに青葉に顔出しただけですよ」
「青葉……? 祗園まで行ってたんか、二人で」
「結局予定よりも長居してしまって、さっき帰ってきたんですけどね」
 そのせいで、今日中にやらなくてはいけない仕事もまだ沢山残ってるし、早いところこれも洗濯しなくては……と、足元に放置された風呂敷を見つめていると、沖田さんが「あ?」と小さく声を漏らした。
「いや……そもそも用事ってなんやったんや? 買い出しは終わってんのやろ?」
「……? そう言えば……特にこれと言って大きな用件は何も……」
 言われてみれば、祗園に向かった理由というのは教えて貰ってはいなかった。
 “ついてくれば分かる”
 ――そう言って、結局分からず仕舞いだったことを思い出してしまう。
「まず、副長は何てお前に声かけたんや。俺ら組の人間ならまだしも、出掛けで直々なんてほとんどあり得へんやろ」
「えぇと……。たしか、“暇があるなら祗園についてこい”と……」
「おい……、それって……」
「なんか変ですか?」
「いや…………」
 何かを言いづらそうに視線を逸らす沖田さんは初めて見たかも知れない。私以上に戸惑っているさまに中てられ、こちらまで気が逸ってしまうのを堪えていると、申し訳なさそうな顔で沖田さんが口を開いた。気まずそうな顔は、彼自身もどうしたらいいのか分かりかねているようで、普段の声量からは想像出来ないくらいの密やかな声で彼は言った。

「それ、ほんまに逢引なんちゃうか……?」

「……え、」
 投げられた言葉に、心でそう思うよりも前に、思わず喉から声が出てしまう。

 すると沖田さんは先の静けさはどこへやら、昂揚したように手のひらをがしっと開くと、胸の前で何度も空気を握りつぶしながら私に詰め寄った。
「せやってどう考えても誘っとるやないか! なに普通に祗園回って飯食って帰ってきとんねん!」
 急に大声を出した沖田さんに、周囲に居た隊士の視線が集まる。
 興奮した沖田さんの足が度々足元の風呂敷を蹴飛ばしていたけれど、それすら気がつかない様子でどんどんとこちらに首を伸ばしてくる。会話の一節を聞かれたところで話を理解出来る人はいないとは思うけれど、それでも噂にはなるだろう。
「ちょ、聞こえますって! もっと音量落として下さい!」
 言いたいことは沢山あったが、何よりもまず、早く黙らせなければ――と彼の口元に伸ばした手は、
「誰か聞かれてはまずい人間でも居るのか?」
 ここには居ないはずの人によって遮られた。

「と、歳チャン……」
「土方さん……」
(お、終わった……。)
 絶望の顔を浮かべる私と沖田さんとを流し見て、土方さんが額にそっと皺を刻む。
「二人とも、何をそんなに騒いでいるんだ? 周りが迷惑していることにも気がつかないなんて相当だな」
「…………」
「いや、これは、その……な」
 咄嗟の言いわけも思いつかずそう言って私に同意を求める沖田さんの頼りがいの無さにがくりと肩を落としていれば、
「……まあいい」
 次に降ってきた声のその、呆れを隠さぬ物言いに、沖田さんが申し訳なさそうな顔で私を見やる。
(そんな顔するなら最初から騒がないでくださいよ……)
 胸中で文句を呟く私の頭上で、二人が視線を合わせると、土方さんはやれやれと首を振るって彼の名前を呼んだ。いつもはしっかりと組まれている腕が、刀の柄頭に添えられ、普段はあまり見られない彼の懐が垣間見える。
「沖田」
「……なんや」
「土蔵で斎藤が呼んでいる。そもそも呼びだしたのは君だろう?」
「…………あ、せやった。せやせや。……ほな」
 そうして二言三言言葉を交わしたかと思えば、沖田さんは風呂敷を置き去りにしてそそくさと土蔵へと向かってしまう。
 残された私はと言えば、無論、土方さんを見ることも出来ずに、一人俯いていた。
 一体、どこから聞こえていたのだろう。
 怖くて聞けるはずもない……。

「……

 ついさっきまで食事を共にしていたというのに、聞きなれたはずのその声ですらもまるで別人のように感じてしまう。後ろめたい気持ちがあるからか、何かを期待してしまっているからか。
 ……聞いていて欲しくないけれど、聞いていて欲しい自分も居る。
 こちらを見据えているであろう彼の言葉に意識を集中させていれば、ふっ、と漏れた吐息のあと、唇が開かれる気配に思わず身構えた。

「話は聞いていない。安心したまえ」
「……え、」
 その言葉に頑なに背けていた視線を向けてしまえば、いつもと変わりない表情で佇む土方さんが瞳を細め、こちらを見ていた。
「……どうした? やけに不服そうな顔をしている」
「いえ……ですが、その……“何も”、ですか?」
「…………ああ」
(何も、かぁ……)
 思ったよりも残念がっている自分に気がついたとき、正直なところ切欠を窺っていた自分がいたことにも気付かされた。もし、今の会話を聞かれていたら、何かしら変化が起こるのではないかと、期待していたのだ。諦めているようなそぶりを見せながら、平坦を望んでいるように言い聞かせながら……。
 妙に浮ついていた心がしゅう、と音を立ててしぼんでいく感覚に(いい加減仕事へ戻ろう……)と土方さんへ会釈をし、足元に転がっていた沖田さんの荷物を両腕に抱え直せば、それを見ていた土方さんが「……ああ、そうだ」と思い出したように私を呼びとめた。

「それは沖田の洗濯物か?」
「? そうですけど、それが何か?」
「ああ。私のところにも洗濯物が溜まっているのを忘れていた。それを運び終わった頃で良い。部屋に取りに来い」
「……! ……え、と……分かりました」
 私の腕の中に視線をやった土方さんが、いつもと変わらぬ口調で言う。
 その厳然とした雰囲気に流されそうになったけれど、もしかしなくても今――私はとんでもないことを言われたのではないだろうか。

「……頼んだぞ」
「…………はい」
 荷物を抱えたままの私がぎこちなく頷いたのを確認すると、土方さんはこちらに背を向け去って行ってしまう。

 ――咄嗟に了承して返したは良いものの。
(……どうしよう、沖田さん、)
 一人その場に残された後も、冷静にならなくてはと改めて彼の言葉を咀嚼してみたけれど、再度変わらずに辿り着いてしまった一つの答えに尋常じゃないほどに心臓が高鳴るのを感じる。
(聞き間違い、ということはあり得ないだろうし……)
 一瞬、重い荷物を持っているということを失念してしまうくらい、その頼みは私にとって衝撃的だった。

 “洗濯物が溜まっている”、“部屋に取りに来い”。
 ……流石に私でも、そんなことを言われたら期待してしまう。
 だって、今朝洗ったばかりの土方さんの洗濯物はきっとまだ、庭に干されているだろうから。

了