悪の花園


時折、夢を見る。
自分がもし普通の女の子だったらこんな思いはしなくても良かったのか、とか。もっと違う生き方を見つけることが出来たのか、とか。それこそ。普通に恋を経験して、好きになった人と結婚出来たんじゃないか――とか。
ベルベットに包まれた厚みのある製本のそれを受け取り、両親に勧められるがまま、首を横に振る手段を持たない私はその瞳に相手の顔を映すこともせず、ただ淡々と作業のように一度頷いて「頑張ります」……何を、と形容できない言葉を心の底から呟くみたいにふるまって。両親の期待にこたえようとする健気な娘を演出して、ひたすらに己の首をぎちぎちと力をこめれるだけ込めて締め付けた。
……このまま、死んでしまえれば楽なのに。そんな物騒なことを考えながら。

私は、控えめに言っても、由緒正しきという言葉が似合う家庭に生まれた、と思う。……自分でも言うのは憚られるけれど。
母は茶道の家元、父は医者という成功を形にしたかのような両親のもとに育ち、生きる上で何不自由なく生活してきた。けれどもそれは「生活」という水準に絞った見方をしたときにだけ言えることであって、私は色々な我慢を強いられてきた。他人からしたら、些細なことかもしれないけれど、私は決して自分の置かれた状況を恵まれているとは思えなかった。それほどに、私にとって「一人娘」という重圧は大きかったのだ。
そんな生まれ持った運命とやらに、成人して数年経った今。あらがいたくなる時なのかも知れない。
今まではこんな気持ちになることなんてほとんどなかったのに、どうしてか「結婚」という現実を突きつけられた時「ああ。私は何をしているのだろう」と思った。同時に、今まで幸せだと思っていた全てのことは両親やその他の私を取り巻く環境に、酸素と一緒にただ与えられてきただけのものだったことにも気がついてしまった。
それからというもの、自分の人生に疑問しか感じられなくなって、このままでいいのだろうか、そんな思いがぐるぐると駆け巡って。頷いてしまったお見合いの日程が近付くにつれて、私を苛む負の感情はどんどん大きくなっていく。
――けれど。
無残にも訪れてしまう時間の経過は私にはどうすることも出来なくて。

お見合いは私の両親の希望から、旅館ではなく高級なリゾートホテルで行われることになった。まるで教会のようなアンティーク感の漂う外装に、少しだけ胸が躍るも、これからのことを考えてまた消沈してしまう。私はまだ、結論を決めあぐねていた。とはいえ、腹の内ではもう決まっていたのかも知れない。
その証拠に、相手に気に入ってもらえるかも定かではないというのに、既にこれからの事を考えてしまっていたのだから。
(……うん。やっぱり……結婚なんて、まだしたくない)
感情が巡って刹那。どうやって、この場をしのごうか――隣に控える両親に隠れるように、そっと服の裾を掴めば、ざらり、と、生地独特の摩擦が手のひらを伝っていく。
レースのあしらわれた控えめなドレスと、腕を隠すような長袖のピンクのボレロ。これは母が勝手に選んできたものだ。
「お相手はきっと可愛らしい子が好みに違いない」と嬉々とした様子で買って来たそれは普段私が着ないタイプの、ふんわりとした「お嬢様」そのもののような洋服で、正直、鏡の前で自分の姿を見た時思わず苦笑が漏れてしまったほど、似合っているとはお世辞にも言い難いものだったのだけれど。母は私のそんな様子を見て満足そうに一度笑うと「今日はきっとうまくいくわ」だなんて、無責任なことを言ってのけるから、私はどんどん自分が悪いことをしているかのような気分に陥ってしまう。
……実際、迷惑はかけてしまうことになると思うけれど。
今の私はまだ両親の顔を立ててあげられるほどの器量は持ち合わせていなかった。

約束の時間が近付いて、部屋に置いてある時計の針が動くたびに、手のひらに滲む汗の量も比例して多くなっていくのが分かる。
ローテーブルを挟んだ向かいの席にはまだ誰も座っていない。両親は私の後ろで、ソファへと腰を落ち着けた私の緊張を解す素振りを時折見せながら、相手方の到着を今か今かと待ちわびている様子だった。私の焦れる気持ちとは裏腹に、母が嬉しそうに、「あ、」と窓の外に視線を送りながら呟いた。
(……もう、来ちゃったんだ……)
――そう思った時。父が、私の肩を叩いた。「落ち着け」とか、そんな優しさからの行動だったのかも知れないけれど、それが無性に疎ましく感じて仕方が無かった。
母の声に応えるように遠くから微かに聞えた車のエンジンの音。
……次いで、ドアを開ける音。何足かの革靴が砂利を叩く音。また、扉の開く音。(ああ近づいてくる……)足音は、徐々に大きくなってきて、やがて、かつり――と。私の目の前で止まった。テーブルに反射するスーツに、身体が強張る。
……顔は、上げられない。

「初めまして、今日は宜しくお願いします」
私の垂れた首元に入り込むように声が落とされた。さも爽やかそうな、はきはきとした喋り口調は私の気持ちを更に追い込んだ。
母の「」という私を窘めるような言葉に、靴の踵を一度床へと滑らせて姿勢を正し、ゆっくりと顔を上げて答えれば、その先にあった顔が意外にも張り詰めたものだったから驚いた。……――そして同時に、やっぱりこの人とは結婚出来ない……と、私の直感が告げてしまった。
「初めまして。こちらこそ宜しくお願いいたします」
軽く会釈をして、微笑みかければ、その張り詰めた顔が少しだけ和らぐ。相手も緊張しているのだろうか、それとも、私と同じように自分の運命を壊しに来たのだろうか。なんとなく、後者な気がしてならなかったけれど彼が懸念しているものは何か違うもののような気がして、私は僅かに首を傾げる。

――傾げた、先。
彼の背後から覗く一つの視線が、気になった。

銀縁の装飾が施されたロココ調のソファへと腰を下ろした彼の両隣には、背もたれを挟むようにして両親だと思わしき顔の良く似た男女が立っていて、私と同じように、その視線を私の背後へと送っていた。両親同士、何かと思うこともあるのだろう……その視線は心地のいいものとは言い難いものだったが、どちらかともなく始まった親同士の会話はその場の雰囲気を確かに和らげていた。
そんな空気に絆されるように目の前に居る「結婚相手」がこちらを心配そうにちらりと一瞥しているのをひらりと交わしながら、私は曖昧に持ち上げた口角を少しずつ下げて行く。
……。…………だって、
彼の背後から覗く、二つの黒は確かに私を見抜いている。
知らない人なのに、知っているみたいに、「彼」は私を見抜いている。
この場にそぐわぬ風貌で佇む彼はただじっとその深淵のような双眼を私に向けて、何を言うでもなく、何を伝えるでもなく、笑いかけるでもなく。本当にただじっと、こちらを見て、時折、目を細めては瞳の奥に何かを光らせる。
小豆色に、それより少しだけ淡い色のストライプがかけられたスーツは、ネクタイの金も相まって神聖な雰囲気を醸すホテルには不釣り合いで。けれどもそれに相反した彼の整った造形が何ともアンバランスな魅力となり、髪の毛の黒が彼の輪郭を尖らせて、一層その存在を際立たせて見せた。
「……あの人。どなたなんですか?」
「彼」が視線を逸らした一瞬の隙に、投げかければ、結婚相手になる筈の男性はなんとなく誰を指しているのか理解した様子で一度頷くと何とも言えない顔で言葉を紡ぐ。
……、まるで、彼のことはあまり語りたくないと言わんばかりの表情で。
「ああ。“あれ”はうちの人間で……SPみたいなものだよ、気にしないで」
「はぁ……」
――だからこそ。私は余計に「彼」のことが気になってしまう。
(……そういえば、この人の名前、なんだっけ)
質問に答えながら顔に僅かな焦りを浮かべた相手の顔を見ながら思考を巡らせたけれど、頭のどこにもそれらしいものが引っかからず、まさか名前を知らないなんて言葉に出来るわけもなく、どう切り出してよいものかと思案してしまう。
そんな時、私の発言を調子よく取った母が、陶器のように白い両手を胸の前でわざとらしく合わせながら、私に向かって微笑んだ。
。あなた、早速正人さんに興味が出たのね。それじゃあ予定より少し早いけれど、これからは二人に任せましょうか」
それと同時に発せられた言葉に聴き慣れない名前が過り、私はああ、とややあってからその名前を咀嚼することに成功した。
(――そうだ、“正人”さん。確かそんな名前だった)
思い出す、というよりは、覚える、という感じだったけれど、私は正人さんの名前を頭の中で数度唱えながら、そんな母に曖昧に笑い返す。
――「彼」はもう、こちらを見ていなかった。


「それじゃあ、粗相のないようにね」
「……うん」
とはいえ、用意することもあるだろうという相手方の提案に、一度別室へと戻って化粧を直していれば、それを見守っていた母が父と顔を見合せながら私に念を押すように、そう呟いた。肯定とも否定とも取れる返事を一つ返せば、ノブの回される音が耳を掠め、二人が部屋を去ったのを告げる。それを確認した後、私は再びゆっくりとした動きで鏡に向き直る。
自分では明確な答えは出てこないけれど、きっと、美人に分類される顔だちではないということくらいは自覚していた。「正人さん」は私のことをどう思っただろうか。この縁談を破談にしたい私としては、考えなくても良い事だったけれど。
中途半端な自分の気持ちを誤魔化すように首を数度振るって、思考を中断させる。
勢いのままパフを押し付け、ファンデーションを肌に乗せれば、いつもよりワントーン明るいそれが私の嫌な感情さえも隠すみたいにそこに留まって、鏡越しに私をせせら笑う。
その時、キィ……と緩やかにドアノブが回される音が部屋に響いた。
あれからどれくらいの時間が経ったか分からないけれど。準備の遅い私に痺れを切らして母が呼びに戻って来たのかも知れない、そう思って何となしに振り向けば、そこに居たのは予想外の人物で、私は慌てる素振りを隠すことも出来ずに鏡へと身体を戻した。
(……!? どうして……?)
疑問が脳を回る前に、かつり、かつり。「彼」の靴が床を滑る音がする。
かつり、かつり。
ゆっくりとこちらに近づくその音は、私の背後に寄り添うようにぴたりと止まり、私の背中を這って通り抜けて行く。
私の目の前にある大きな鏡に、ストライプのスーツが映り込んで、「彼」が腰を曲げたのだろう、鏡に映る金色に光るネクタイが徐々に首元へと近づいて行く。結び目が、鏡の縁へと差し掛かり、間もなくして、
――鏡越しに、あの二つの黒がまた、こちらを射抜いた。

「どうしてそんなに浮かない顔をしていらっしゃるんです?」
初めて聞いたはずの声なのに、やけに耳になじむ声色だった。抑揚のない、機械の読み聞かせのような彼の声に、どくり、と心臓が不可解な音を立てて跳ねる。
「あ、……。えと…………」
脳と身体のその違和感に言葉を濁していれば、鏡に映った彼が私を覗きこむ。途端、みしり、小さな音が耳を掠め、私の意識を浮上させた。どうやら彼が椅子の縁に手を置いたらしい。ゆらゆらと動いていたネクタイの反射が治まったのがその証拠だった。
覗きこまれたその顔を鏡越しに直視してみて、思ったよりも、光を通す瞳をしている人だ、と思った。鏡に当たったシャンデリアの光が彼の瞳に跳ね返って、まるでどこまでも続く闇のような不思議な色を彼の瞳に浮かべていた。少しでも強い力を加えたら壊れてしまうガラスのような、それでいて力を吸収してしまう宇宙のような、うまく形容しがたいその独特な瞳に吸い込まれそうになっていると、彼の口角がじわり、と。僅かに傾いた。

「……なるほど。典型的な“お嬢様”か」
傾いて刹那、大きく歪んだ眉根と彼の口調が、はっきりとした私への嫌悪を表していたから、思わず振り返って彼を睨みつけるように見つめてしまった。
そして――振りかえって気が付いた。
「…………」
「ふっ……。否定しないんですか?」
抑えきれない吐息のような微笑を漏らして、眉根を寄せたまま彼が問うた。
……その通りだった。
何も言い返すことなんて出来ない、と改めて気付かされて、それと同時にどうしてこの人にそんな事を言われなきゃいけないのだろうと思い、私は瞳を伏せて小さく呟いた。
「貴方……、正人さんのSPではないんですか? こんな所で、油を売っている暇は無いと思います。私のことなんか気にせずに、仕事に戻られてはどうですか」
遠回しに、この部屋から出て行って欲しいと伝えたつもりだったのに。
彼はどこ吹く風で、口角を上げたままこちらを一瞥すると、徐に鏡の中から消えて、かつり、かつり、と。機嫌良くつま先を鳴らしながら、私の横へと気配を移動させる。
「SP……? まさか。仮に私が守る可能性があるとしたら、それはあの男じゃなく貴女の方ですよ」
右耳を通過した思いがけない発言に、無意識のうちにそちらを見てしまう。彼は形の良い唇を左右対称に持ち上げると、私を横目で見ながら鏡へと視線を移した。その横顔があまりにも綺麗だったから、何と返せば良いものか戸惑った。
「ああ……。あんたは何も知らねえのか。……だとしたら随分と直感の働くお嬢様なこった」
ため息交じりに吐き出された彼の言葉が、私の奥底へと深く突き刺さる。
「……、どういう意味ですか」
「私は仕事でここに来たんですよ。貴女を巻き込んでしまったのは申し訳ないと思っていますが……まあ、貴女にも“そのつもり”は無かったみたいで安心しましたがね」

「…………仕事って、」
「もう終わりましたよ。その証拠に、誰もあんたのことを呼びに来ないでしょう」
ドレッサーの木目を人差し指で二度叩いた彼が笑って言う。
鏡の中で動いたその視線の先を追うように顔を動かせば、ぴったりと閉まったままの扉が目に入って、私は途轍もない不安に駆られ椅子から乱暴に立ちあがるとその勢いのまま足を進め、衝動に任せるようにしてドアノブに手をかけた。
かちゃり、と。思ったよりも軽快な音が手元から発せられる。
「……、どういう、こと……?」
開けた扉の先、先ほどまで座っていたソファにも、その先の庭にも、人の気配は勿論、座っていた形跡も、何もかもがそこからくっきりと切り取られるように失われていて。それを目にして、なんとなく気配で分かった。
相手方は勿論、私の両親も、もうこのホテルには居ないということが。衣擦れも、呼吸音も、何も聞こえないこのフロアが全てを物語っていた。
途端に、背後に居たままの「彼」のことが怖くなって、そこから一歩も動けなくなってしまう。振り向くことも、言葉を発することも出来ないそんな状況で、私の脳裏に一つの疑問が過る。「仕事とは一体なんなのか」――と。
「……気になってらっしゃるみたいですね。こんな状況で、不安になられるのも無理はない」
私の胸中が伝わったのか、背後から投げかれられたその声色が今までよりも随分と優しいものだったから驚いた。もしかして、彼が何かをしたというわけじゃないのかも知れない――だなんて甘い考えが頭に浮かんでくるほどに。
ノブの冷たい感触が残る右手を握ると、私は意を決して彼の方へと振り返る。振りかえった先、揉みあげを引っかけたまま耳を撫でた彼の指の動きに視線が奪われると、それに気がついた彼がこちらを向いた。
相変わらず、射抜くような、呼吸のし辛くなる視線だと思った。
「安心して下さい。相手方は勿論、ご両親はもう帰ってはきませんから」
「……えっ……?」
言い聞かせるように発せられた言葉の咀嚼に脳が追いつかず、私はただ彼の瞳を見つめることしか出来ないまま、涙腺を殴るような感覚に必死に抗おうとしていた。
「こちらにも不可侵領域ってものがありましてね。ちょっとごたごたしていたんです。恐らく、今回の縁談もそれを丸く収めるつもりで立ったものだったんでしょうが……こちらとしては都合のいいものだったので利用させて頂きました。――ただ一人、無関係だった貴女には申し訳ない話なのですが」
飛躍した話についていくことが出来ず、それを視線で訴えれば「ああ、」一度視線を右上へと投げた彼の瞳がまた私の元へと戻ってくると同時に、その双眼が愉快気に細められる。
「簡単に言えば、約束を破った罰ですよ。お互い、それぞれが色々と世間には言えない事をしていたみたいで。それを隠すために今回利害関係が一致して、子同士の結婚まで発展したみたいですが、先も言った通り、貴女が相手方に惚れていたらそれ相応のお詫びも考えては居たんですよ。見る限り、その心配は必要ないみたいで安心しました。今回私がこの場に来たのは、これ以上被害が広がらないようにその根源を絶たねばならないという命がありましてね」
「……両親は、どうなってしまったんですか」
考えがまとまらぬまま、やっとのことで絞り出した声は彼の微笑にかき消される。
「さあ……そこからは私の仕事じゃないので、なんとも。でも、二度と会えない環境には連れて行かれてしまったと思います」
「そんなに悪い事をしていたんですか……」
普段の雰囲気からは何も感じ取ることが出来なかっただけに、それは衝撃の事実だった。未だ信じることの出来ぬ頭が徐々に冷静を取り戻して、彼の言葉に耳を傾け始めると、私は自分が置かれた立場も理解してきて……けれど、「これからどうしようか」とか、そんな事を考えるよりも先に「もしかしたら私の思い描く未来が手に入るかも知れない」……だなんてそんな不謹慎な事を考えてしまったから、まるで他人事のように何て親不孝な娘なのだろうと心の中で小さく嘲笑した。
「悪い事、とは少し違います。この世界では、悪が善に発展することもありますしね。ただ、今回は相手が悪かった」
「……この世界?」
彼の言葉の中、気になる単語が耳を掠めて思わず反芻する。すると彼は何かを思い出すみたいに頬をぴくりと震わせると、私から少しだけ視線を逸らした後、その大きな手のひらをこちらに向けた。その拍子にスーツの隙間から覗いた時計に光が反射して、突然の眩しさに自身の瞼が一度ひくついたのが分かった。
「さっき、貴女のことをお嬢様、と言ったでしょう」
「…………はい」
「あれは別に貴女のことを侮蔑したわけじゃないんですよ」
「……えっ……?」
「むしろ褒めてたんです。あんな環境に居てよく染まんねぇもんだ、……と」
彼の無機質な声と底の知れない瞳のせいでその言葉の意図を計ることが出来ず黙ってしまっていると、彼が再び言葉を紡ぎ出す。

「今回、相手のあの男も、その両親も、……そして貴女の父も、それを黙認していた母もそうですが……皆貴女の知らない世界に繋がっていたんだ」
「……」
「極道、って言ったら流石の貴女にも分かりますかね」
ごくどう、――唇をその形にかたどって、酸素だけを吐き捨てれば、彼は頷いて、私に向けていた手をゆっくりと下ろしていく。
何故だか、酷く納得のいく単語だった。彼の風貌が、何ともそれらしいものだったからというのもあるけれど。もし彼がその「極道」だったとして、高そうな時計と靴――目に見える装飾だけでも、きっと中々の地位に居ることは容易に想像できた。
……だからこそ、今こうして対面しているのかも知れないけれど。
「この世界にはけじめってものがあるのはご存知です? 彼らにはそのけじめをつけて貰ったんです」
「でも……まだ信じられません。こんなこと……」
「まあ、そうでしょうね。けれど、おかしいとは思いませんか? 今回の縁談も、端から見てすぐ分かりましたよ。貴女だけが、乗り気ではないことくらい」
その言葉に、先の視線を思い出して、はっとする。
確かに、両親は今回の縁談を何としてでも成功させようというやる気を見せながら、どこか緊張した面持ちだった気がする。それは私の心配ではなく、自分達の身を案じてのものだったのか。私がへまをしたとしても取りつくろわれた「成功」は安心されていたというのに。
そう理解して、自分勝手な私は酷く寂しい気持ちに襲われて。どくり、どくりと、先ほどから鳴りやまない私の心臓の鼓動に合わせて胸元のレースがふわりと動き視界をちらつくのを目ざわりに感じながら、私は鏡の中の自分へと問いかけた。
「……これから、どうしたら良いんでしょうか」
鏡の中の私が、情けない顔をしてこちらを見ていたから笑えた。鏡の端、彼のストライプが徐々に小さくなって、やがてその枠から消えると、
「帰るって言うんなら、送っていきますよ」
いつの間にか目の前に来ていた彼が私を見下ろしながら、そんなことを言って退ける。何気なく放たれたその一言が私の鳴りやまない心臓を突いて離さない。
――だって、
「帰るって、どこにですか……?」
手放しの自由を唐突に与えられてはっきりと分かった。やっぱり私は何一つ持たない人間だったってことを。帰る場所も行くあても何もない私は馬鹿みたいに笑って、彼の言葉に反発してみせたのに、彼はといえば、まるで、私の「その言葉」を待っていたみたいに目を細めて私を見つめた。

「俺はただあんたに無駄話をしにきたわけじゃない。……迎えに来たんですよ」
「……迎えに、?」
「ええ。残った貴女の面倒を見させてもらえないかと思いまして」
どうして、そう思えども、そんな言葉よりも先に感情が口を突いて出てしまう。
「じゃあ、何故こんなこと……」
「“幸せを奪っておいて?”とでも言うおつもりですか? そんなこと、思ってすらいないのに」
「……それは……」
「良いんですよ。……俺はあんたのそういう所が気になったんだ。なんとも甘い、子供みてぇな考えがね」
馬鹿にされているのだ、と気がついたときには手を振り上げてしまっていた。
けれど、彼の頬めがけて勢いよく放たれた腕はそのまま彼の大きな手のひらに掴まれて、私の身体ごと彼の胸元へと引き込んでいく。意図に反して抱きしめられる形になってしまい、そこから抜け出そうともがけば、掴まれたままの手首に力が込められて思わず呻く。
「どんな気分です? いい加減貴女も分かっておいでの筈だ。俺に頼らなければこの先、どうすることも出来ないと」
「…………」
「どうですか? 帰りますか? どこへ、とは言いませんが……」
耳元で囁く相手の口調がどんどん強いものへと変わっていく。「どこへ」と強調された言葉に思わずぴくりと肩を震わしてしまえば、彼はそんな私を見てさぞ楽しそうに鼻で笑った。彼の腕の中、嗅ぎたくもないスーツの匂いが鼻を刺激する。爽やかなミントの控えめな香りと、布本来の匂い。――彼らしくないその香りが私の思考を鈍らせていく。
……私が、普通の女の子だったら。こんなことにはならなかったのだろうか。こんな思いはしなくて済んだのだろうか。今更考えても答えの出ない問いが頭を駆け巡っては消えていく。

「……帰ります」

「その言葉がどういう意味か、分かっているんですか」
「はい。……だから、連れて行って下さい」

意を決して放った言葉に、自分でも笑ってしまいそうになった。
――どこへ。
続けようとした言葉は上から降って来た彼の唇によって塞がれて、声になる前に飲みこまれて消えて行ってしまった。ぎりりと強く掴まれた腕はそのままに、呼吸さえも奪われた思考の中、彼によって与えられる優しいキスを抵抗することなく受け入れる自分に私は首を傾げていた。例えそれが今、背に腹を変えても頼らなければいけない人間だとしても。
(まさか。……こんな状況で、私は彼の事が気になっているとでも言うの)
そんな思考を必死に巡らせようとしても、先から与え続けられる鋭い視線を思い出して、更には唇に触れる熱と、私の後頭部へと回された手のひらの感触に何も考えられなくなってしまう。
まどろみに流されるように瞳を閉じかけた時、彼の唇が柔らかな水音を立てゆっくりと離れたから、私は浮上しない意識のまま、瞳を開いて彼を見つめる。
「ああ、一つ言い忘れてましたが……。俺はあんたみたいな人間が大嫌いでね、」
――そんな時、ごちゃごちゃと混ざる思考の海で、彼が小さく呟いた。

「どうにも、壊してやりたくなるんだよ」

その呟きに、私はこれからどこに連れていかれてしまうのだろう、徐に扉の方へと歩き出した彼に乱暴に引き摺られながら、掴まれたままの感覚のなくなりかけた手首をただじっと見つめていた。言葉の節に滲んだ彼の裏腹な感情には、気付かぬふりをしたまま、自分の胸の中に広がる奇妙な感情にも、気付かぬふりをしたまま。


(開くのは謎の20130425)