一日だけ、というお願いを断る術を私は持っていなかった。腐れ縁になりつつある友情を育む友人の頼みだったというのもあるけれど。
――今日一日、ヘルプにつけないか。
一生のお願い、と続けられた言葉に思わず頬がひきつる。まさかこの歳になって聞かされるとは思っても居なかったそのフレーズと共に縋るように両手を擦り合わせる友人を見て、私の平凡な心はきりりと痛む。
彼女はこの夜の街神室町でも有名なキャバクラ嬢だった。ギラギラとした見た目とは反対に、世間を知らないような接客がウケているらしい。その実、悪い子ではないのだけれど、もし昔からの知り合いじゃなかったらきっと私はここまで仲良くなっていなかったと思う。男に人気のある女の子は、そんなものだろう。その証拠にこうやって、夜のそれとは一切関わりの無さそうな私が駆り出されてしまうのだ。友達が居ない、とはまた違うと思う。彼女が遠慮せずに頼める相手が私しかいなかったというだけで。それが喜ばしいとは、申し訳ないが今は思えなかった。
「今日だけでいいの! お願い! お礼はするから!」
……そういう問題じゃなくて。
そう言えたらどれだけ楽だっただろう。日本人体質をここぞとばかりに発揮して、気が付いたら彼女の勢いに押されるままに頷いてしまった。
夜のお仕事に抵抗がある、というわけじゃない。
けれど、控えめに見ても私はその世界では見劣りするような見た目だと思う。髪の毛も染めていないし、化粧だってそう。重たそうに瞬きをする彼女の瞼に添えられたつけまつげは私には一生縁のないもののように思えた。

安堵の表情を浮かべる彼女に案内されるがまま着いてきたお店は、当たり前だけど聞き覚えも見覚えもないお店だった。隣接しているホストクラブも繁盛しているらしい。頬を赤らめながら、その店のホストであろう茶髪の青年にお見送りをされている女性二人組を見ながら、やっぱり私は場違いだなぁと改めて思う。
そんな私を、煌びやかなエメラルドグリーンの電飾が迎える。
重い扉を両手で引いて私を中へと促す彼女に抵抗もせずついていけば、内装は意外と落ち着いたものだったから思わず辺りを見渡してしまう。
もう夜も良い時間だというのにお客さんは見えない。キャバクラ嬢の数人が、テーブルを拭いたりグラスをセッティングしているのを見て、首を傾げる。
「イメージと違った?」
したり顔でこちらを見る彼女に、素直に頷いて笑い返す。知らないうちに、緊張していたのだと気付かされた。モダンな雰囲気の漂う店内に、ふう、と息がこぼれる。
「もっと目に痛い感じだと思ってた」
お店の真ん中に置かれたグランドピアノと観葉植物を見ながら呟けば、自慢げに彼女が笑うものだから、先ほどから気になっていた事が言葉となって宙を舞った。
「ねえ。どうして今日ヘルプが必要だったの?」
お世辞にも混んでいるとは言えない、それも、お客さんが一人も見当たらないのだから、気になってしまっても仕方が無い事だと思う。私の言葉に彼女がしゅんと眉尻を下げて、申し訳なさそうに「騙すつもりは無かったんだけど……」と、不穏染みた言葉を返してくる。
「……今日、これから貸し切りなの」
「貸し切り?」
視線をうろうろと泳がす彼女の言葉を反芻すれば、その頭を勢いよく下げて「ごめん!」――事情を飲みきれない私を余所に、店内に流れるBGMより大きな声が辺りに響いた。
「ヤクザの人たちが来るの。接待で、ここ使うって。本当に騙すつもりは無かったんだけど……」
「ヤクザって……あの、その……?」
今までの自分の生活では大凡考えられない単語が鼓膜を震わせるものだから、間抜けな顔で彼女を見つめてしまう。
「うん……が想像してるので合ってると思う……」
現実味のない言葉だと思った。
脳内で咀嚼を終え、飲みこんでしまった今も全く味がしない。神室町に生きる者として何度かそれらしい人を見かけたことはあるけれど、それでも想像のしにくいものだった。あれらはきっとチンピラのごく一部であるだろうし、彼女の知っているヤクザと、私の想像しているものが合致するとは、何故だか思えなかった。
そのせいか、自分自身でも、彼女がここまで焦る事の重大さが掴めない。
「どこの組の人なの?」
だからこそ、好奇心が口をついて出た。
瞳を伏せた彼女が言い難そうに私をちらりと窺って、その艶やかな唇をゆったりと開く。
「東城会直系組織の、白峯会って人たち……」



フィッティングルームに連れられて、あれよあれよと言う間に化粧を施された私は、今もなお放心を止めることが出来なかった。
――東城会。
流石の私でもその組織が一体どれだけ凄いものかということは知っている。やれヤクザだの極道だの彼女は簡単に言っていたけれど、私のキャバクラ嬢デビューをそんな環境に持ち込む彼女の精神が一番恐ろしいのではないかと思った。そんな立派な人たちを相手に、私は接客をしなければならない。それも、未経験なのにも関わらず。
考えたらきりがない上に口を開いたら溜息しか出てこない気がしたから、ぐっと堪えて鏡に向き直る。お店のキャバクラ嬢の人たちは既に準備を済ませて席についているらしい。私の他にも何人か集められていたみたいだったけれど、どの人も経験者らしく、慣れたように指示に従っているのを見て、一人浮いていることをまじまじと実感してしまう。
……けれど。
つけまつげはきっと似合わないからやめてくれと、控えめに足されたシャドウとリップに、少しだけ自分の顔が華やかになったように感じてまるで一丁前にこの世界に足を踏み入れた錯覚に陥る。彼女に無理やり押し付けられたホルターネックタイプのドレスは、やっぱり似合わなかったけれど。貧相な身体を笑うように。背中の大きく開いたデザインが、更にそれを際立たせていた。
、準備出来た?」
そう言ってフィッティングルームに顔を出した彼女の、先ほどよりラメの増えた目元と唇に、少しだけ頬が引きつる。綺麗だけど、やはり自分とは違う、“夜の人間”なのだと思わせられて、それに何故だか焦燥して髪の毛をいじってしまう。その動作に、くるりと巻かれた黒髪が気にいったと思ったのか「似合ってるよ。やっぱりに来てもらえて良かった」彼女は白い歯を覗かせながらそんなことを言う。
「ありがとう」
やはり私は場違いだ。誰が見ても、そう思うだろう。それでも、彼女に頼られた以上仕事は全うしようとこの時思った。私の評価は即ち、彼女の評価に繋がるのだ。
東城会。
再度頭の中で噛み砕いて飲みこむ。ホルターネックから見える背筋が張り詰めた気がした。

彼女に促されるままに控室を抜けて店内に出れば、すでにそれらしき人たちで席は埋め尽くされていて先ほどとは違う熱気に包まれた店内の様相に知らずの内に身体が強張ってしまう。けれど、怖い、とかそういう感覚は不思議とないことだけがまだ救いだった。
聞いてみれば、彼女はこのお店のNo2らしい。
思ったよりも随分と高いポジションに居る彼女に驚きつつ、指名が入ったという彼女のヘルプに付くためその後ろに付いていく。
通された席は他の席とは違う、白い革張りのソファーがL字に並び、ガラスのテーブルが三脚置かれた少し広めの所だった。そこに一人、つまらなそうに眉間に皺を寄せたまま、こちらを睨みつける男性が居た。
照明に反射してこげ茶色に光る艶やかな髪の毛は緩く後方に流され、撫でつけから漏れたひと房の前髪が目にかかるかかからないかくらいの長さでそこに漂っていて。黒や灰色のスーツの人間が多い中、小豆色ともチョコレートブラウンとも取れる色のスーツを纏った姿は、他の人とも一線を博したように感じられた。けれど、まだ幾らか若そうな見た目に少しだけ安堵する。
慣れたように会釈をしながら自己紹介を済ませた彼女に倣い、私も控えめに挨拶をすませる。
「初めまして。と申します」
一日だけだから、源氏名はついていない。彼女の配慮だろうけれど、私もきっと、他の名前で呼ばれたら反応出来ないだろうから有難かった。
私が名前を言うや否や、ぴくりと彼の寄せられた眉が反応して、視線がこちらに向けられる。
「……お前、ヘルプか?」
「え……あ、はい」
感情のこもらない、無機質な声だと思った。見た目から感じる若さよりも落ち着いた、低めの掠れた声の問いかけに、ややどもってしまいながらも返せば、彼は瞳を伏せて、一度頷く。
「そうか……」
何かを考えるように伏せられた瞳が開けられて、私を射抜くように見つめたかと思えば、不意に私の隣に居る彼女に視線が流されて、直後、私たちの背後へと顎をしゃくった。
「今日は、お前だけで良い。そっちの女は戻れ」
「……え!? どうしてですか?」
彼の突然の言葉に彼女が慌てて噛みつく。彼はそれを見て鬱陶しそうに目を細めると、溜息を隠しもせずに近くへ居た黒服へと声をかけた。
「俺の指名はこいつにする。この女は余所にやれ」
「……わかりました」
私を一瞥して首を傾げた黒服の男性は、彼女をなだめるように一言二言言葉をかけるとそのまま他の席へと彼女を連れて行ってしまった。ヘルプのはずが、指名を言い渡されて、どうしようかとその場に突っ立っていると、目の前から「座れ」小さな命令が落とされて、それに従うまま「失礼します」と白のスツールに腰を下ろそうとしたのだけれど、彼の隣を再び顎で示されて、座りかけたその腰を上げて彼の隣へと座りなおした。
彼女のヘルプとは名ばかりで、お手伝い感覚で隣に居ればいいのだろうと思っていた私は勿論この世界のイロハも一も二も分からず、これからどうしたらいいのか悩んで、とりあえずは飲み物だろうと、テーブルボトルに手をかける。
ガラスで出来たテーブルの上には、既にフルーツ盛り合わせやシャンパンが置かれていたから、彼はもしかしたら白峯会という組織の中でも重役なのかも知れない。このお店のメニューの値段は分からないけれど、シャンパンのボトルが数本置かれているところを見るに、きっと数十万はくだらないであろうという事は容易に想像できた。
売上のことは気にしなくていいのだと事前に彼女に言われていたけれど、シャンパンは避け、不慣れな動作でボトルを開ける。逆さに置かれたグラスをひっくり返して氷をつまみ、水割りを作りながら、それとなく彼に視線を送る。
けれど、その彼はと言えば私の気など素知らぬふりで徐に煙草を取り出して、これは私が火を付けるべきなのだろうか、そんな事を考えている内に高級そうなジッポライターを内ポケットから取り出して手際よく着火してしまったから、私はマドラーでグラスの中身をかき混ぜながら少しだけ俯いてしまう。
俯いた先に丁度彼の指先が映り、指名を告げた割にこちらを見ずに淡々を煙草をふかすその様子を見て、あ、と一つ思い出したことが脳裏をよぎり、そのまま口を突いて出た。

「煙草を吸う仕草って、女性に人気ですよね」

ぎろり。
煙草を顔の前に置いたまま、視線だけがこちらに向けられて。その見定めるような鋭い視線に俯いてがちだった私の首が反射的にしゃんと伸びる。
「……なぜ?」
陶器で出来た灰皿に、二度三度と彼が手首を振る。興味のなさそうな態度とは裏腹に、視線は確かに私の言葉の先を促していたから、その先を用意していない見切り発車の発言だったことを後悔した。
「いや……詳しいことは分からないですけど、」
カラカラとマドラーが氷をつつく音が、私をあざ笑う。これ以上、タイミングを見誤ってはならない、と、思いきって出来あがったお酒を差し出せば、彼は視線を私から逸らすことなく、紫煙を肺に吸い込んで溜息とともに吐き出す。

「……指先と口元を見て興奮するってことは、セックスの事を考えているのかも知れませんね」
煙草を挟む指がくるりと曲げられてこちらに向けられる。
淡々と、世間話でもするみたいに発せられた言葉は、噛み砕くまでに時間がかかった。どうしてそんな話になるのだろう、疑問は頭で流れるだけで言葉にはならなかった。彼がふざけている様子だったら、私も自然な流れで会話を繋げられていたかも知れないけれど、その無表情は決して私をおちょくっている訳じゃなかった。
「煙草を吸う時、自然と指と唇が触れ合うじゃないですか。そういうのが好きということは、煙草を自分に見立てて相手との行為を想像しているのでは?」
真面目な内容と、その瞳の静けさのギャップが、私の心を震わせる。
そうして、先ほどまではいくらか乱暴だった言葉使いが敬語になっているということにも気がついてしまって、ただ煙草の灰を落とすだけの単純な動作も、直視出来なくなってしまった。
「……さぁ。私は生憎嫌煙家なので……」
キャバクラ嬢なら、頷いて、柔和に笑い返して、話を合わせるのが正解だったのかも知れないけれど、自分が持ち出した話にも関わらずその会話をこれ以上続けるのが怖くなり、彼の視線に返すことなく、ぽつりと遠くに投げてしまう。
「……そうですか」
そう言って再度紫煙を吐き出した彼が私の言葉に小さく笑って、手に持っていたものを灰皿へと押しつけた。その行動が、嫌煙家だから、という私の言葉に対してのものだったのなら。私は彼の事を客として扱い、気持ちも切り替えられたかも知れないのに。きっと違う。彼は私の何たるかを試している。でも、それが何なのかはまだ分からない。
――火の消えた吸殻は、まだ長い。
「どうして……」
彼女を他の席へと帰したときにも思っていた言葉が、今度こそ彼の耳に届いてしまった。何も持つものが無くなった両手を膝の上で組んだ彼が、私を一瞥して口角を上げる。それでも、無表情という印象は抜けない。緩められた目の奥、光を携えないその深淵が、私は気になって仕方が無かった。
「……白峯会という組織はご存知ですか?」
彼の言葉は、私の問いに対する答えではなかった。その名前を聞いたのは今日が初めてだったから、緩く首を振るってみせれば、私の作ったお酒に手を伸ばしてグラスに口を付けながら彼が続ける。
「ご存知ないのなら、それでも構わない。ただ、あんたも友人関係を築くのなら、相手は選んだ方がいい」
それが恐らく彼女のことを指しているのだろうということは考えなくても分かった。それでもどうしてそこまであの子の事を毛嫌いするのだろうか、そんな思いが顔に出てしまっていたのか、彼はグラスをテーブルに優しく置き直すと両手を再び膝の上で組み、その指をとん、と跳ねさせて眉根を寄せる。
「貴方を連れて俺に媚を売ろうとしていた事、気付いてないんです?」
僅かに傾げられた首がこちらに向けられる。
心当たりのない問いに、同じように首を曲げてしまった私を見て、彼が心底愉快そうに、そして軽蔑する眼差しで私を見遣った。
「彼女、俺のことが好きなんですよ。だから、貴方を引き立て役にでも使うつもりだったのでしょう。こうなることまでは、予想していなかったみたいですが」
彼の膝の上で組まれていた指が言葉最中に離されて、ジャケットの内ポケットに伸ばされそうになったかと思えば、宙で行き場を無くし、そのままネクタイを正して下ろされる。
「こうなること?」
「本当は誰でも良かったんだ。ただ、彼女を指名するのは御免だったので」
「……? 自ら指名されたんじゃ……?」
「まさか。彼女が勝手に来たのでしょう。どういうわけか……今日はNo1も休みみたいですしね」
引き立て役、という部分には触れられなかった。彼女がそう思わずとも、周りから見たらそう感じてしまうだろうということは分かっていたから、もし彼女もそうやって私を使っていたとしてもそんな事はどうでもよかった。
同じ姿勢で足を斜めに組んでいたからか、慣れない靴の甲の部分が食い込んで、皮膚が赤く擦れているのが痛みで分かった。――唐突に、ここでこの靴を脱ぎすてて、グラスの中身を彼にぶちまけて帰ってしまいたい衝動が私を襲う。
その感情を誤魔化すようにまた私に不釣り合いなまでに綺麗に巻かれた黒髪に触れれば、彼がふ、と吐息を漏らして笑った。

「貴方は自分の魅力を分かっておられないようだ」
彼の手が、不意に持ち上げられて近づき、私の手と同じように、髪の毛を弄んでいく。突然のそれに、彼の手を振り払うことも出来ず重力のならう限りに腕を下ろし、ただされるがままに身体を硬直させていれば、満足したのかその手が私の唇を掠めながら離れて行った。
「他の女とは違う……自分のことをそう思っている女は好きや嫌いの感情論だけで物事を図るでしょう? たとえ綺麗な宝石でも、一度人の手に渡ったものは欲しいとは思えない。その宝石を視線で愛でているのか、触って愛でているのかは分からない。不確定要素の多い綺麗なものっていうのは、総じて汚いものだと思っているので、」
私の唇に触れた指を愛おしそうに見つめる彼の、眉根は相変わらず寄ったまま、その瞳の奥に確かな漆黒を滲ませて、言葉を区切る。
なんとなく、分かっていはいた気がしたけれど、ずっと思っていた懸念がこの時かちりと当てはまる音がした。瞳の奥の奥、真っ暗に染まるそこに、溺れたように腕をばたつかせてもがく私が見えてくるようだった。
「……ああ。そうだ。峯義孝っていうんですよ、俺の名前です」
峯さん――、声には出さずに唇だけを振動させて形どればそれを確認した彼の目がゆっくりと細められる。それがまるで獲物に狙いを定めるような鋭いものだったから、私の視線は意思に反して泳ぎ始め、動揺をそのままに露わにしてしまう。
「かと言って、綺麗なものを汚す趣味も俺には無い。汚いものを綺麗にしてやろうと思うことも無いですが」
何事も無かったかのように自然に紡ぎだされた言葉の続きに、うっすらと、彼の内面が見えた気がして、私はどうしてか彼を見ていられなくなり、瞳の渇きなど感じていないというのに無意識に瞬きが増える。

「だが、その綺麗なものに埋まれば俺も綺麗になるのか……。そんな事は人並みに考えますよ」
目は確かにその言葉と共に細められて笑みを表しているのに、彼は全く笑ってないような口ぶりで、冷え切った声で呟いた。
さん」
取り繕われた敬称は、私を酷く怯えさせる。
店内はスーツの人間で溢れ、こんなにもにぎわっているというのに、その会話や雑音すら聞こえない錯覚に陥るほど、彼の声は私の鼓膜を刺激してこびり付いた。
「その意味、あんたなら分かるでしょう」
眉根を寄せて口角を上げた彼の唇から、挑発するように犬歯が光って私を牽制する。今度こそ、彼はしっかりとその顔と声に笑みを刻ませていた。横暴な彼の主張に、私の内臓がざわめく。彼女は何故こんな人が好きだったのだろうか、考えて、その何も反射していないガラス玉のような瞳の奥に手を伸ばしてしまいたくなる衝動に駆られたから、きっと彼の本質が、そうして人を惹きつけてしまうものなのだろうと理解して、諦めたように嘲笑してしまう。
嘲笑して刹那――自分でも気がつかぬ内に伸びた右手が、先ほど彼が口付けていたグラスを持ち上げて、そのまま中身をぶちまけた。実際に衝動に身を任せてしまえば、なんてことのない出来ごとだった。残り少ないグラスの中身は、それでも彼のスーツを汚すには十分な量だった。頬に跳ねたお酒を、彼が指で拭う。
間もなくして、事態を理解したのか、時計の秒針が触れる音が聞こえるほどに辺りが静まり返ったのが分かった。
! 何してんの!?」
彼女の、慌てた声が遠くで聞こえる気がする。それでも私はその事態の大きさを理解するには至らなかった。
……だって。
私がそのグラスを掴む瞬間、彼は間違いなく私に向かって微笑んだから。視線は優雅に私の手元を追っていたと言うのに、彼は避ける素振りすら見せなかった。そしてそれがとても怖ろしいことだと理解しながら、私も振り上げた腕を止めることが出来なかった。
「お客様、大変申し訳ございません」
少し遅れてやってきた黒服が、彼に腰を折って謝罪を言う。そして腕にかけたタオルを差し出そうとしたけれど、彼の手にその行動は遮られた。
「……いい」
びしょぬれになったスーツを一瞥して黒服を突っぱねた彼に、タオルを持ったまま相手が眉をひくつかせて首を傾げる。周囲も、こちらの動向を窺っている様子だった。店内にかかるアップテンポなBGMが、その場の雰囲気にそぐわないまま空気を散らかしていく。
彼はもう、スーツの染みに視線を送ることはなかった。その代わりに私のつま先に乱雑に落とされた視線が、足、腰、胸、首、顔……と、順々に上がってくる。やがて目元まで引き上げられたその二つの黒と重なりあったとき、私は先ほどまで直視出来なかったそれをまじまじと見つめる事が出来るようになっていたことに気付く。
「代金は俺に付けていい。……今日は、好きなだけ飲め」
静けさの漂う店内に、一気に活気が取り戻される。首を捻っていた黒服も、その腰をまた直角に折り曲げてその場から立ち去る。私を呼び付ける彼女の声はもう聞こえなかった。もしかしたらもう、縁を切られてしまうかも知れないと、何故だかこの時漠然と思い、なんとなく彼の顔を見てしまう。
「おまえは……謝らないのか?」
私の視線に気づいて鼻で笑った彼が問う。声に出さずにゆるゆると首を横に振れば、彼は満足そうに笑って私の手を引いて立ちあがらせる。
「……帰るぞ」
どこへ、と聞くのが野暮だということは分かっていても、口に出さずにはいられなかった。けれど彼には私の小さな呟きは聞こえなかったようで、こちらを見ずにずんずんと歩いて行ってしまう。引き止める者はもう居ない。引かれた手をそのままに、私の足は彼の後をついていき、ついには店を出てしまった。ホルターネックのドレスも、高いヒールの靴も煩わしい。かつりかつり、とどちらの靴とも分からぬ音が珍しく静かな神室町の路地に響いては消えていく。ちらりと見遣った隣店のホストクラブはネオン眩しく、今しがた出てきたキャバクラと合わせて、どちらも今後は来ることがないだろうと思った。

近くの駐車場に私を連れ込んだ彼は一際派手な車の前で止まり、私をその車の助手席へと押し込んだ後、自身も運転席へと乗り込む。
黄色い外車は、なんとなく彼らしくないなと思ったが、その一目見ても分かる高級そうな佇まいに彼の地位を感じて、私は言葉を発してしまう。
「白峯会って、峯さんの組織なんですか?」
クリーム色のハンドルに手をかけ、エンジンをふかした彼がわらう。
「……ヒールは脱いで構わない。接客のときも、そんな顔をしていたでしょう」
返って来た言葉は私の問いに対するものではなかったけれど、その言葉に甘えて靴を脱ぎ捨てれば、履き慣れない靴から解放された足が幸せそうに羽を伸ばした。
私はこれからどこへ連れてかれてしまうのだろう、歩く気の無くなってしまった両足を見つめながら、発進を始めた車の中今更なことを考えてくすりと笑えば、
「どこへ行きたい?」
前触れもなく、隣から投げかけられた言葉にまた髪の毛をいじってしまう。
「……峯さんの行きたいところに」
私の言葉が、彼の望むものだったのかは分からない。咄嗟に思いつかずやっとのことで出した言葉は、先ほど考えても出てこなかったまるでキャバクラ嬢のそれのような、相手の胸中を窺う女のものだった。
……峯さんは私のことを綺麗だと言って、そしてそれに埋まりたいと言ったけれど、気付かぬうちに、私自身、彼に侵され始めているような気がしてならなかった。好きだとか嫌いだとか、そういうものじゃない。もっと奥に直接ねじ込まれた彼の印象は、私の平凡な脳みそをかき混ぜるには十分な威力を持っていた。
私はきっと、このまま彼に埋まってしまう。
こちらを見ずにぽつりと呟かれた彼の言葉に、どこか期待している女々しい自分が居ると気付くまで、時間は必要なかった。

「……それじゃあ、あそこに」


Venus