ぼこり。
ぼこり。
熱帯魚を生かすためのポンプから酸素が発射されて、その水面を押し上げてぼこりぼこりと泡が割れる音がする。ブルーライトに照らされた手入れの行き届いた水槽の中、檻ということだけを除いて何不自由なく生活する魚に、自意識はあるのだろうか。左右に揺れて、水槽の縁で折り返したクマノミが、こちらを向きながら遊泳する。時折ぱくりと口から漏れる息がかろうじてその生命を感じさせてやけに滑稽だった。
……とはいえ。私はどうだろう。
このクマノミに、自分の姿が重なる。
不自由のない生活の不自由さにも、とうとう慣れてしまった。
ただ、そんな私と熱帯魚の決定的な違いは、そこに確かに疑問を感じてしまっていることだった。

監禁とは、ほど違う。
私に閉じ込められているという概念はない。ただこの魚と同じように、世界が少しばかり限定されてしまったというだけで。今与えられている世界が狭いとも、窮屈だとも思ったことは一度もない。やりたいと思ったことはやらせてもらえる。ご飯だって食べられる。
――けれど疑問は、ひとときだって頭から離れたことは無かった。
彼はこれを愛情だという。
私をめで、あいして。それはすべて愛からくるものだと彼は言う。
私はそれをなんて歪んだ愛情だろうと思った。けれど、彼に触れ、共に生活をしていく中で、ああ。この人は愛情というものを知らないのか、と理解した。理解して、そして、私はどうすればよいものかと日々頭を悩ませることになる。
彼は愛を求めているのだ。
だからこうして自分の思う愛情をすべて向けることによって、それを返してもらおうと思っている。
けれど、
私は彼に、きっと、愛を与えることが出来ない。
彼に歪んだ愛を向けられてしまったその瞬間から、私が彼に向ける愛は愛では無くなってしまったのだ。
だからこそ。ずっと疑問に思っている。
私はどうしてここから逃げ出さないのだろう、と。
彼を想う、愛ではないこの感情は、一体なんなのだろう、と。


。今日は少し、遠くへ行ってみないか」
仕事を終え、帰宅した彼が開口一番に言う。普段私を外へは出したがらない彼の、珍しい提案に、私はややあって頷いた。
「どこへ?」
「そうだな。水族館にでも行くか」
落ち着いた場所が好きなのだと、彼は言う。
こうして毎日どれだけ遅くなってもこの家に帰ってくるのは、私との空間に落ち着きを感じているからなのか。それとも、私に落ち着きを与えようとしているのか。どちらであれど、なんと押しつけがましいことだと私は思う。
「こんな時間に開いているの?」
「まだ夕方だ。きっとどうにかなるだろう」
銀色に光る腕時計に目を通しながら、ぽつり、と呟かれたそれに、私はこれは目的の無い外出だと理解して、首を傾げる。
何かに焦っているようにも見えるその行動が、何故だか酷く冷静なものに見えて、無理やり押し込んだはずの当てはまらないパズルのピースが形を変えてそこに居座ろうとしているような妙な感覚に陥り、上手く例える言葉が見つからず、言葉を濁してしまう。
「今日でなくては駄目なんだ」
曖昧な誘い文句なのに、どうしてか。彼は前を見据えたままこちらを見ようとはしなかった。

「たまには当ての無い旅も良いだろう」
水族館は、案の定開いては居なかった。けれど彼はどこか満足した様相で車を運転する。埃一つない車内は、彼の性格を表しているようだった。
「助手席にはお前しか乗せないことにしているんだ」
ふと移りゆく景色に気を取られていると、ハンドルを切りながら淡々とした声色で告げられた言葉に、私は思わずそちらを見遣る。
「……他に相手が居ないの?」
「いや。どうだろうな」
私の言葉に、彼の口角が上がって、唇の隙間から見えた八重歯が私を煽るように光る。
「ただ、誰かが隣に居るというのはあまり好きじゃないんだ」
(……。……今も?)
――頭にそんな質問が過って、口もその形を描こうとしていたけれど、声は喉で止まった。そんな私の様子に、横目でこちらを窺う彼がその歯を更に尖らせて、微笑む。
「お前は別だ。言わなきゃ分からねえか?」
彼が笑った時、少しだけ下に視線を送るその仕草が好きなのだと、彼は知っているだろうか。返事を誤魔化すようにふと景色に視線を戻せば、窓ガラスにだらしなく口元を緩める自分が映っていることに気がついて、見られないようにと頬杖をついた。

「降りるぞ」
彼の運転する車は目的地に着いたのか、ゆっくりと停車した。先に降りた彼が助手席のドアを開けてくれる。開けられたドアの隙間から風が入り込み、私の身体を冷やしていく。同時に鼻を掠めたその匂いには、覚えがあった。潮の、匂い。
「海?」
問うて間もなく視界に広がる光景に、彼はわらって頷く。
「少し寒いが、まあ良いだろう」
「どうして海に?」
「……お前と来たいと思っていたんだ。こんな季節に来る予定ではなかったが」
「そう」
額に手を当て目を細め、緩やかに押しては返す波を見つめながら、彼はその綺麗な革靴で粒の不揃いな砂を蹴っては遊ぶ。

しゃりしゃりと小さな砂が持ち上がる音が、止む。
気がつけば真面目な顔で彼がこちらを見ていたものだから私は戸惑い眉尻を下げてしまう。まるで今日の彼はこの海のようだと思った。掴みどころもなければ、色も淀みきって、それでいてどこか綺麗で、一度嗅いだら忘れられないような香りを纏った、まるで海のようだと。
「俺が死んだら、お前は泣くか? それとも笑うか?」
いつになく楽しそうな彼の唇が弧を描いて、私に語りかける。
「泣いてほしい?」
「ハッ……お前は泣かないだろう。かといって、笑うとも思えんが」
いつになくはきはきとした口調が、海に向けて落とされる。眉間の皺も心なしかいつもより緩やかで、私はいいようのない不安に駆られながら、僅かに瞳を細めて問いかける。
「じゃあどうして聞いたの?」
その言葉に。
彼が再びこちらに振り向いて、刹那、視線が逸らされる。
「……ちょっとした気まぐれだ」
らしくない。彼の真似をするように砂を蹴飛ばしながら、口角を下げる。
私の靴から跳ねた小さな砂が、彼の皺ひとつないスラックスの裾にこびりついて離れない。汚してしまったと思うよりも先に、むなしい気持ちが口をついて出る。
「……今日のお出かけも?」
「……。……ああ」
はっきりとしない何かを躊躇うような口ぶりも、普段の彼からは想像もつかないような光景だった。こんなふうに何かを躊躇する様子は、今まで見たことが無かった。
彼は何を悩んでいるのだろう。
そう思う傍らで、私は理解していたのかも知れない。きっと彼の中ではもうとっくに答えは出ていて、けれどそれが間違った選択なのではないか、ということを。

帰りの道は何を話すというわけでもなく、ただ前を向きながら運転し続ける彼の横顔をちらりと盗み見ていたらあっという間に家に着いてしまった。
行きと同じように彼が先に降りてこちら側のドアを空けてくれる。
ドアを掴む手とは逆の手が私の右手首を掴んで、そのまま手のひらで繋がれる。それに特に抵抗もせずついていけば彼は何とも言えない表情で一度だけこちらを振り返り、私を見て心苦しそうに眉根を寄せた。
何がしたいの、と問いたくても唇は動かない。
曖昧に笑い返せば、私の胸の奥も締め付けられる思いだった。

エレベーターで最上階まで上がると、彼が手なれた動作でカードキーを指し込みながら指紋認証をしてドアを開ける。玄関脇に置いてある大きな水槽から、ぼこり、ぼこりとポンプが酸素を送り込む音が発せられているのを聞きながら、ずんずんと掴まれた腕に引き摺られるようにして部屋へ入る。脱ぎ捨てるようにして置かれてしまった靴を一度後目で確認して彼へと向き直るも、相変わらず背中しか見えず、私は少しだけ不安になった。
「……ただいま」
彼の背中にぽつりと投げかければ、力強く掴まれた腕はそのままに歩みが止まり、勢いよく振りかえった彼にその腕を引かれたかと思えば、そのまま唇を貪られる。
「……ん、っ……」
突然の事に酸素の供給が遅れて、息苦しい。
彼の撫でつけから漏れたひと房の前髪が私の目元に当たってくすぐったいと思うも、角度を変えられ舌を吸われてしまえば、気にする余裕なんてなくなってしまう。
「は、……あっ、……」
掴まれた腕とは反対の腕が私の腰に回って、抱きしめるみたいに余った布を掴んでいるのが分かる。
時折唾液に濡れた彼の唇が離される瞬間、水分を含んだ音が辺りに散らばって耳さえも刺激していく。
私はといえば、彼の背に手を回すことも出来ず、ただ拳を握って必死に酸素をかき集めるばかりで。掴まれた指先の痺れと舌の痺れを他人事のように感じながら、何故だか泣きたい気持ちになった。
つんと奥を攻めていく感情と鼻から抜けていく吐息に、思わず閉じていた目を開けば、細めた瞳でこちらを見ていた彼と目が合う。
私が息苦しくしていたのが伝わったのか、優しく胸元を押し返せば名残惜しそうに離された身体と唇に、その手の行きどころを失ってしまう。掴まれていた腕がやんわりと下ろされて、再び一度だけ、軽やかなリップノイズを弾ませて私の唇と彼の唇が触れ合う。

「……好きだ、
無意識に口をついて出てしまったのか、その言葉に、私よりも彼のほうが驚いているようだった。
こうして暮らして態度には出せど、確かな言葉にしたことは今まで一度とて無かったから。その証拠に彼は甘い雰囲気など無かったと言わんばかりに苦虫を噛み潰したような顔をして、私の腕を掴んでいた手をただ見つめるばかりでそれ以上何も喋ろうとはしない。
……私の反応を待っているという様子でもなかった。
私は彼のことを好きなのだろうか。未だに熱を帯びた唇が何かを発しようと開いては、声にならない吐息だけを残してゆるく閉じられる。
彼がこうして私への態度をはっきりとさせないから、私にはどうすることも出来ない。彼はきっと私を愛するだけで満足しているから。だから私は彼に愛を与えることが出来ない。いつまでたっても曖昧な笑みで、彼の顰めた顔を見つめることしか出来ない。
「ねえ、義孝さん」
初めて、彼の名を呼んだ。
どちらのものとは分からない、喉の奥から発せられた声にならない掠れた声が水槽を反射してはね返る。
「……私のこと、愛しているの?」
口にした途端、眉間の皺をぐっと深く寄せた彼の腕が再び私の腰を掻き抱いて、勢いのままどこかへ連れて行く。無言のまま、けれどその動作に乱暴さは感じなかった。
寝室へとたどり着いた足は彼の手によって浮かされて、それまでの行動なんて忘れ去らせるくらいに優しい手つきで私をベッドの上へと下ろした。
「……良いのか?」
ベッドに仰向けになる私の髪の毛を、その無骨ながらにしてどこか中性的な指で梳きながら、余った指が頬を撫でて行く。
その顔が変わらず苦しげに歪まされていたから、私はふとわらってその手に自身の手を添えた。
ぴくり、と関節が一度だけ震えて、私の頬を撫でる手が止まる。
「言わなきゃ分からない?」
問うて、私は自分自身の気持ちを測りかねていたことに気がついた。
そうか。私はこの人のことが好きなのか――思って。刹那、いいようのない不安が心臓を駆け巡っては消え、駆け廻っては消えていく。
「他に相手は居ないのか?」
「……。……居ないよ」
茶化すような彼の言葉に悩んでそう返せば、私の言葉に、一瞬目を丸くして、そして眉尻を下げて笑う。泣きそうな、それでいて子供のような顔だと、思った。
「……もっと早く、お前に出会っていれば良かった」
目を細めて意地悪く口角を上げた彼が私の肩を抱いて、耳元で呟く。
顔は見えないけれど、泣いているのだろうと思った。彼の心臓の泣き叫ぶ声が聞こえた気がした。
「愛してる。……
キスも、肌の感触も、香りも、苦しげに歪められた顔も、なんだって思いだせるくらいに優しく抱かれながら、頬を伝う涙は止まることを知らなかった。彼の背中の麒麟が汗を帯びて美しく輝くから、爪を立ててしまうことがなんだか躊躇われて、白いシーツに傷をつけてしまう。
彼は一度とて、私の肌に吸いつこうとしなかった。唇に吸いつく舌の感触は何度だって与えられたのに、鬱血のない綺麗な肌のまま、私は一人の朝を迎える。

きっと彼は分かっていたのだろう。二度目が無いということを。私だけで暮らすには広すぎる部屋をぼうっと見つめる。
あれから何日が経とうと、彼が帰ってくる気配は訪れない。
ぼこり、ぼこりという音はいつの間にか止んでいた。
今まで気が付かなかったけれど、この水槽は彼の手によって手入れがされていたのだ。だって私は、ポンプの電源の入れ方すら知らない。クマノミは苦しそうにヒレをばたつかせて、壁にぶつかりながら濁る海を泳ぐ。
その滑稽な様子が、まるで私のようだと思った。

水槽の奥にあの日の潮の匂いを思い出して、残り香の無情に漂うシーツに包まりながら一人咽ぶ。

私はまだ、あの人の愛情から逃げられないでいる。


机上の食論