秋
どうして、と声を上げるより先に、足が動いた。走る、走る、走る。足を前に出すたびに、周囲を照らす煌びやかなネオンが加速して、一つの線を描く。はっは、と切れる息も、突然甲を曲げたために脱げてしまったお気に入りだった両の靴も、気にする暇など無かった。左の脇腹が急激な運動により悲鳴を上げる。このときばかりは、運動を疎かにしていた日頃の自分を恨んだ。
はっ、はっ、はっ。
息の切れる間隔が短くなる。脇腹の痛みは徐々にせり上がり、胃、肺を越えて喉元辺りを彷徨い、唾液とも痰とも分からぬ喉の違和感とあいまって三半規管を犯していく。気持ち悪い。その感覚も、何もかもが気持ち悪くて、息が出来ない。
爪の根元がぴきりとひび割れ、土ふまずの皮膚でさえも腫れてコンクリートに擦れ真っ黒く変色しているだろう疲労した足は今にも止まりそうだったが、もし、いまここで立ち止まってしまったら、暫くの間は動けなくなりそうだということは考えなくても分かっていたから、嫌悪感も痛みも我慢して。
はっ、はっ、はっ。
必死に酸素を流し込んで無我夢中に走り続けた。

「どうかしたんですか」

ぞっ、と背中を何かが駆け上がる。
すでに私は歩いているも同然のスピードで足を動かしていた。とっくに、走る気力は無くなっていたのだろう。だらだらと交互に足を動かして、ただ前進しているという表現が合っていた。
そんな私の背後から、突如投げ放たれた声に、私は思わず足を止めてその場に硬直する。聞き覚えのない声だった。抑揚の付けられていないそれは今の私には到底怖ろしく感じられ、自身の背後を見ることさえ憚られた。はっはっはっ。未だ整わない呼吸が恨めしい。意に反して止めてしまった足も、既に棒のようだった。つま先が馬鹿になったみたく前を向いて動かない。今はそれでも良いと思った。それくらい、振り返るのが怖ろしかった。
こつ、こつ。
革靴の踵からつま先への体重移動の音が、コンクリートを突っぱねて私の耳に刺さる。耳元でささやかれていると錯覚するほど近い「声」だったのに、相手は私と離れた距離に位置していたらしい。こつ、こつ。数度それが繰り返されて、人の温度が背中に伝わってくるようだった。こつり。音が止んで、数秒。空気を割るような気配の後、私の右肩に何かが触れた。

「どうかしたんですか」

それは優しく私の肩を一度跳ねると、温度を残す間もなく離される。
先ほど浴びた声と同じ声だった。今度は、ほんの少しだけ、感情が乗せられているような声だったけれど。それは心配とは程遠い、侮蔑にも似た――しいて言うなら、私をあざ笑って馬鹿にするような。そんな声だった。
氷のように固まっていた私のつま先が、肩を叩かれたことによって僅かに溶けて、少しだけ外側に向かって反ったのが自分でも分かった。知らない内に呼吸は安定して、喉のちりつくような渇きと脇腹の痛みだけを残して、私は次第に意識をはっきりとその背後へと向けていた。どくどくと鳴りやまない心臓を押さえつけながら、振り向くべきだろうか、悩んで、逡巡。首を残したまま反らせたつま先を一周させて、私は振り返った。まだ相手は見えない。横目に足元を見れば、えんじ色の磨かれた先のとがった靴が一足、ストライプのスラックスに包まれた足の先を覆っていて。ストライプの線が切れるまでと、視界をそのまま上へと引き上げた。

「何かあったんですか」

声の主は三十代中ごろほどの男性だった。声に心当たりが無かったから当たり前なのだけれど、その人の顔には見覚えが無かった。ただ、こちらを不躾に見下すその瞳から繋がる鼻筋や唇までのラインの凹凸をぼうっと見つめ、おそろしく整った顔立ちをしている人だなと思えば、足の裏の熱が地面へと伝わっていくのが分かって私は気付かれぬように足指を一二度左右に動かす。

「あまりにも慌ててるみたいでしたので。大丈夫ですか? 靴も、脱げてしまわれてる」

侮蔑する態度など微塵も感じさせない、先とは打って変わった心配するような声色に瞼がぴくりと震える。彼は私の足元に視線を送ると、その痛ましげな様相に僅かに顔をしかめ、その顔を私に向けて問う。

「いえ……大丈夫です」
「……。……追われているのですか?」
「……」
「言えないみたいですね」
「いえ……」
「なら。なぜ?」

私は、逃げていた。暴漢に襲われたといえばそうなのだけれど、あれは人殺しの目だった。雑踏の、人ごみの、人間が沢山いたあの場で、どうして私を狙ったのだろう、そんな事を考えるまでもなく、私を襲おうとした人間は私を視界に収めたその瞬間から私のことしか見えていないみたいだった。
相手が握っていた大ぶりのナイフとその顔を思い出せば思いだすほどに、今こうして逃げ切れたことが奇跡だと思う。
この人に話しかけられて意識が逸れたが、相手が追ってくる様子は、今のところない。
ほっと胸をなでおろす私に気付いた男性がふっと吐息を漏らす。その音に、私が意識を戻せば彼は何事もなかったかのように話しの続きを促した。

「警察には?」
「……そういえば、まだ」
首を振るって答えれば、一つの溜息と提案が零される。
「では、早く連絡しなくては」
「それが……。荷物も慌てていたせいか、落としてしまったんです」
手ぶらであることよりも他のことに気が行っていたのか、彼も私もそんな当たり前のことを見逃していたらしい。目の前の視線が、私の手持無沙汰に揺れる両手に注がれた気がした。

「……そうか。じゃあ私が探しておきます」
「……え?」
「あちらから来られたんでしょう? 知り合いに頼んで、探させておきます。とりあえずの連絡は、私の携帯で」
自身の背後を顎で示しながら、徐に携帯電話を取り出してさも当たり前のようにそれは放たれる。
「すみません。見ず知らずの方に、そんな……」
「これも何かの縁でしょう。困っている女性を見捨てるほど、落ちぶれてはいないつもりです」

そう続けた彼の、微笑んでいる口元を見て、首を傾げそうになる。
その割に、酷く冷えた声を出す人だ――と。
そんな違和感を感じつつも、思考を過った言葉は無視して。今はこの人に頼るしかなかった。
けれども、警察へと連絡を繋いでいるであろう彼の挙動を見ながら、ふと、先ほどの光景が頭にちらついて。疑問が口をついて出そうになった。

あんなに近場で事件まがいのことが起きたというのに、なぜだろうか。サイレンの音も、パトカーの光すら感じない。
周囲は再び点へと戻ったネオンが煌々と輝いているだけで、普段のそれと何ら変わりなく感じた。どれほど自分が走って来たのかは分からないけれど、来た道に視線を戻せばその先には見慣れた街がまだ確認出来る距離だった。
どうしてか。
必死に逃げてきたはずなのに、既に射程圏内から覗かれているような気がしてならない。
落ち着いてきていた鼓動がどくりどくりと血液の循環を始めて私を追いつめる。
どこで矛盾が生じているのか、酸素のまわりきっていない脳みそでは、まだ考えることが出来なかった。
「……大丈夫ですか?」
そんな私の様子に気付いたのか、連絡を終えて携帯を閉じた男が、こちらに近づく。
「警察には一応、東都大近辺に刃物を持った男が徘徊していると告げました。取り持ってくれるといいんですが」
手に握った携帯を数回空で振って、私に示す。
「捕まるといいですね」
緩やかに細められたガラス玉のような二つの瞳が私に向けられて、彼と先ほど対面したときから拭えなかった違和感が再び胃を駆け回るのが分かった。

彼が見ているその先が、何か違うものを見据えているのではないかと、何も映していなさそうな視線の奥の自分が焦ったような表情を浮かべていたから。私はとんでもない事に巻込まれてしまったのだとこの時理解した。


冬
先日の通報の甲斐あってか、犯人は捕まったみたいだった。
事情聴取でもし自分が呼びだされてもきちんと話せる自信が無かったのだけれど、通報の時に気をきかせてくれていたらしく、私が呼ばれることは無かった。
そして事件から一週間が経った今日。
私の荷物が見つかったと、あの人から連絡があった。自宅の連絡先を教えるのは憚られたけれど、探してもらう手前、そんな事は言っていられなかった。お陰で、自分の荷物は返ってくることになったのだから。むしろ私は彼に感謝しなくてはならなかった。
連絡先を交換する際に渡されたプライベート用であろう名刺に刻まれた名前を思い出す。
――峯義孝。
顔に似合う仰々しい字面の名前だと思った。
ただ、なぜか。無意識下で彼の名前を呼びたくはないという思いが頭を駆け巡って、私は混乱する。
――さん。
荷物を見つけたと連絡してきたとき。彼は間違いなく私の名を呼んだ。
電話口で聞こえた彼の声が、面と向かって話したそのどの声よりも柔らかで、私の唇はなんともまごついた。
どうしてだろう。それがたび重なる違和感の正体に繋がる気がしてならなかった。
峯義孝。
どうして彼は私の名前を知っていたのだろう。
荷物を受け取りに行くということが、途轍もなく恐ろしいことのように思えて、私はどうしたらいいのかが分からなかった。

待ち合わせ場所は神室町だった。神室町で働く私としては有難い申し入れだったけれど、彼に対する得体の知れない気持ちは変わらず拭えない。
仕事を終えて待ち合わせ場所であるミレニアムタワー前に向かうこの時でさえも気の抜けない思いだった。あの事件の少し前から、何となく「見られている」ような感覚にたびたび襲われることがあったのだけれど、思えばあの時からその感覚に鋭くなったような気がする。もしかしたら、私が鋭くなったのではなく、私を見ている誰かが私に近づいてきただけかもしれないけれど――そう考えて、勘違いであって欲しいと頭を振るう。
今はただ、目の前のことだけに集中しよう。
徐々に見えてきた目的地に視線を送れば、そこには既に彼の姿があって。その手に握られたケリーバッグに「本当に見つけれくれたのか」とどこか他人事のように思った。

「すみません。待たせてしまいましたか?」
「……いえ。私も今来たところです」
声をかければこちらに向けられた視線に、思わず肩が跳ねる。分かっていても、慣れない視線だった。不躾に彼の手元を見てしまっていたのか「ああ」一つ唸った彼が「中身、確認お願いします。合っているといいんですが……」と底に手を添えながらこちらに鞄を差し出す。
中身を確認して、携帯と、財布も、何もかもが丸々落とした時の状態で収まっていたから驚いた。運よく落としただけで済んだみたいだ。それを伝えれば、良かった、と彼は少し戸惑った表情でわらった。
探すと言われたものの。色と形、ブランドだけしか聞かれなかったから、こんなにも早く手元に戻ってくるとは思わなかった。知り合いの人にも頼むと言っていたから、もしかしたら私の想像するよりももっと多い人数で探してくれたのかも知れない。そう思ったら、無意識に言葉が口をついて出た。
「何かお礼をさせてくれませんか」
大したことは出来ないですけど。返してもらった鞄を抱いて言えば困ったように歪められた眉に、今度はこちらが戸惑う番だった。

「そんなつもりじゃ。それに、言ったじゃないですか。こういう時はお互いさまですよ。気にしないでください」
「でも。それじゃあ私の気が収まらないです……」
たとえ他人だったとは言えど、ここまでしてもらってただで帰るだなんて、そんなこと。私には出来なかった。それがもう一度この男と会わなければならなくなるという、自分の首をしめる結果になるとしても。
「……そうですか。じゃあそうだな……」
「……?」
目を吊り上げて迫る私に折れたのか、一度視線を逸らした彼が顎に手を当てて僅かに経って、言葉を紡ぐ。
「見たい映画があるんですが、恋愛物なんです。男一人で見に行くのも恥ずかしくて困ってたんですが、それに付き合ってもらう。というのは、流石におこがましいですかね」
「……。映画、ですか?」
「ええ」
確かにこの風貌と恋愛映画はミスマッチかも知れない、と失礼なことを考えて、けれど助けてもらったお礼がそんなことでいいのだろうか。と反芻すれば、彼は一度頷いてこちらの反応を待つ。
「……そんなので良いんですか?」
「ああ。付き合ってもらえたら、凄く助かります」
「じゃあ。その、私でよければ。お付き合いいたします」
そう答えて。何の映画を見るのか、聞いていなかったことを思い出して問えば、チケットはこちらで用意します、という返答に「え?」予期していなかった声が漏れる。
「そんな。それってお礼になってませんよね?」
「いや? 一緒に見て頂けるだけで有難いんですよ。こういうのが好きな、男はね」
納得していない私を置いて、楽しそうに笑う彼に、私は何とも釈然としない気持ちになった。この人に会ってからというものずっと、彼のペースに巻込まれているような気がしてならない。
映画の予定を立てるために、と。無事に戻ってきた充電の少しだけ残る携帯電話を開いて、連絡先を交換しながら私が彼の顔をこっそり盗み見ようと視線を送れば、既に登録し終えた彼があの時みたいに携帯を振って笑った。

「楽しみですね」
抑揚のない声が、私の耳の奥に、留まって離れない。
鼓膜を震わせたそれが幾度となく私をあざ笑っているように思えて、まさか、と、思わず喉が上下する。
彼は、私が“こうする”ということを、もしかして――バッグを抱く腕に力がこもり、強く圧の加わった革からみしりと音が発せられて二人の間を通過した。
「……ええ」
振り絞ったか細い声私の声に満足そうに笑みを浮かべる目の前の男に見せつけるように無理やり押し上げた口角の端、唇の皮膚がぴしりと亀裂を立てる。
……私は、いま。ちゃんと笑えているだろうか。


春
彼の仕事は不定休で、そして随分と忙しいみたいだった。何の仕事をしているか全く想像がつかないけれど、身なりや風貌からしてきっとそれなりの地位に就いている人なのだろうなとは思う。その関係もあって、映画の予定を立てるための連絡は、あれから暫く経ってから私のもとへ届いた。すっかり忘れているものだと思っていたから、連絡が来た時はどう返信すれば良いものかと悩んで、結局は、指定された日時が空いていたから「分かりました」と可愛げのない簡素な一文を返して、その数時間後に届いた向こうからの「それではその日に」という返信を最後にメールのラリーは終わりを告げた。

今度の待ち合わせは劇場前広場だった。
目印にと持ってきたキャメルのケリーバッグを持ち、分かりやすいように電話ボックスの横で待っていると、「すみません」控えめにかけられた声に振りかえる。
丁寧に撫でつけられた前髪のひと房を風に揺らしながら、彼は急いできたのか、少しだけ息を切らして。数度の深呼吸のあと、映画館の方向へつま先を向けて歩きだす。
自然とそれにつられて歩みを進めれば、私に合わせるように狭められた歩幅に、ケリーバッグのマチを掴む手に力が入った。
さん。今日見る映画なんですが、こちらでも大丈夫ですか?」
ゆっくりと歩きながら目線上に差し出されたチケットに書いてある文字を読んで、思わず彼の顔を見る。
「……これ。つい最近友達と面白そうだね、って話してた所なんです」
「そうなんですか?」
本当に、つい最近話したばかりのタイトルだった。
同時公開された映画の方が人気があったために霞んでしまっていた作品だったけれど、大人の楽しめる恋愛映画だと周りでも評判だったから、暇が出来たら見に行きたいね、と、ここ数日の間に話していたのを思い出しながら返す。
「はい。私も見たかったので凄く楽しみです」
「私の知人も先日話題にしていたので、機会があればと思っていたのですが。それなら丁度良かったですね」
やっぱり、どこでも話題になっているのか。確かに年齢は私とそう変わらないくらいだろうから、その評判に少しだけ食指が動いたのかも知れない。二枚の紙を胸ポケットにしまい直した彼の指先を目で追いながら、ならば、と思い恐る恐る足を彼の一歩前に出した。
「ええ。けど、なんだか申し訳ないです……。せめて、チケット代だけでも」
「何度も言うようですが、お気になさらず。ちゃんと、お礼になってますから」
勇気を出して顔を覗き込んでみたものの、いつもと変わらぬ飄々とした口ぶりと顔でそう言われてしまえば、返す言葉が無かった。

冷静に思い返してみれば、それほど親しくもない相手と映画に行くということはそこそこに苦行かもしれない。それも、「お礼」とは名ばかりの、まるでデートのようなそれにも関わらず、相手の胸中は微塵も読めないと来たものだから私は彼に対する接し方を計りかねていた。
帰りたい。――目前に迫った映画館に、今更そんな事を思い、前に繰り出すだけの足が少しだけ躊躇われる。
「さあ。中に入りましょうか」
……それもこうして、こちらを見遣る彼に促されてしまえば。そんな事を考えている余裕すら無くなってしまうのだけれど。
気乗りしないまま俯く視線の先、バッグと合わせるように選んできたモスグリーンのパンプスがつやつやと光っているのが、私を妙に滑稽な気分にさせた。
このキャメルにはもう一つの、赤いパンプスの方が合っていたのに……。
逃げ走ったせいで失くしてしまった靴。
あの靴は、事件の後も探したけれど、見つからなかった。
バッグを見つけてもらっただけでも有難かったから、これ以上は聞けない。
折角見つけてもらったのに。どうして綺麗なまま、中身も全て揃ったバッグだけが見つかったのだろうか。そんなことは聞けなかった。

映画館へ入れば、平日と言うこともあってか客足は少なかった。
ポップコーンのキャラメルの匂いに思わずそちらを見れば、隣からくすりと笑い声が漏らされる。
「お好きなんですか?」
「あ。いえ……。ただ、良い香りだな、って」
見られていたのだろうか。少し恥ずかしくなって俯けば、「食べます?」わらって売り場を指さす彼に慌てて首を振る。
「大丈夫です。手、べたついたら嫌ですし……」
「……ああ。それ、分かります」
両手を擦り合わせる動作をしながらそう返せば、こちらを見ずに頷かれて、何となく彼の顔を凝視してしまう。何か思い当たる所があったのだろうか。無機質なその瞳の奥は、キャラメルのべたつきを思い浮かべているような可愛いものが映っているとは思えない色をしていた。

特に何の話をしていたと言うわけでもなかったが、ただその沈黙の中でも流れには逆らえず。上映時間はあっという間に訪れた。
時計を一瞥した彼についていくがまま、チケットを二枚千切ってもらい入った一番スクリーンは、他の部屋とは違う内装になっているようで、豪華な椅子が二十席ほど並べられ、スクリーンの外にはバーまである仕様だった。
私たちの座る席はペアシートとは少し違うものの、アンティーク調の椅子が隙間を詰めて並べられていて、肘掛が無ければ腕が触れ合ってしまうほどの近さだった。
「こんなところもあったんですね……」
「プレミアムスクリーンというらしいです。私も初めてなので、何とも言えないですが。料金形態も同じだったので、折角だったらこっちの方が良いんじゃないかと思いまして」
「そうなんですか……。なんだか今まで知らなかったのが勿体ないなぁ……」
「また来られる際にでも使ってみては? 観られる作品は限られてるみたいですが」
今回はたまたま観たいものがあって、運が良かったです。
手に持ったままだったチケットの半券を眺めながら彼が呟く。
恋愛映画のタイトルが書かれた紙を持つ光景が何だか可笑しくて笑えば「……。今日は、一人じゃなくて良かった」心底参った表情で溜息混じりに返されて。こうやって温和な雰囲気を醸す彼と、モノクロの世界に生きているような瞳の色を浮かべる彼はどちらが本質なのだろう――一瞬だけ、考えて、そんな思考を誤魔化すように姿勢を整えれば、擦れ合ったパンプスのエナメルがきゅっと音をたてた。

それから間もなく始まった映画に、一言も言葉を交わすこともなく、私たちはただ静かにスクリーンを見続けた。
――評判通り、内容は面白かった。
一度映画が始まってしまえば、隣に人が居ることは気にならなかった。終了のブザーを聞いて、一度顔を見合わせた後に立ちあがる。
「面白かったですね」
スクリーンを出て、通路の手前のバーを通り過ぎ、歩きながら問う。
ラストの盛り上がりは中々だったかも知れない。今度友達に会ったら良かったと教えよう。そう思って言えば、予想とは反して僅かに顔を顰められ、「ええ。面白かったです」と、面白いだなんて微塵も思わせないような顔で返されたから私の眉も歪む。
「……。あまりお気に召さなかったですか?」
「……あ、いえ。少し考え事を」
整えられた揉みあげを耳にかける動作を見ながら、歪めた眉を伸ばす。
「そうですか。なら、良いんですけど……私ばかり楽しんでしまったのかと」
「いや。面白かったです。ラストなんか、特に」
同じ事を思っていたという驚きは、あまり無かった。彼の言葉に曖昧に頷いて返せば、「この後時間ありますか?」腕時計に視線を送ったままそう聞かれて緩んだ緊張がまた張り詰めるのが分かった。
「この後、ですか……?」
「ええ。良かったら、お食事でも、と」
控えめに告げられたお誘いに、やはりこれはお礼になっていないのではないかと私は唸る。断ろう――そう思って彼を見れば、そんな考えなど見透かした顔で笑って「ごちそうしますよ。これもお礼の一部……って言ったら怒りますかね」私の逃げ道を囲んでいく。
「……。……それじゃあ、ご馳走になります」
渋々頷くも、そんな小細工は通用しない。
「良かった。実はもうレストランを予約してあったんです」
目を細める彼の視線に、身震いしてしまう。
――予定調和だ。
私は今確実に、彼の思うとおりに動かされている。
それが心地悪くて、怖くて、たまらなかった。
……いつから? いつから、私は彼の計画の上を歩かされていたのだろう。
私の言葉は、最初から。彼の耳にほとんど届いていなかったのだと、彼が会話をしていたのは私ではなかったのだとこの時はっきりと気付かされた。
けれどもきっと。……もう遅い。





身体がいうことを聞かない。
徐々に浮上してくる意識の中、天井を視界に収めて私はそんな事を思った。
……身体がだるい。
彼の予約していたレストランは、夜景の綺麗な、お洒落なところで。きっと私には二度お目にかかることが無さそうなくらい、高級なメニューばかりで。彼が注文してくれなければいつまでもどれを頼むか悩んでいたと思うほど、どれも聞き覚えのないものばかりで。そんなシチュエーションの中で、少しだけ油断してしまったところもあったのかも知れない。
静かに会話をして、彼の腹の中を探って。探って。ふとしたとき、何かが指先に触れそうになって、そして、私の体は大きく傾いた。――そこからの記憶は無い。
目覚めて刹那、ああ、薬を盛られたのかと考えるまでもなく気付いて、思わず鼻で笑う。ソファーに寝かされていたのか、私の挙動に合わせて革が何とも言えない音を出す。服は、最後の記憶のままだった。いじられた形跡も、何もない。

力の入りきらない上半身を無理やり起こして周囲を見渡すも、見覚えのない景色に頭が痛くなる。見覚えは無いけれど、なんとなくここがどこかは分かっていた。ここに居てはまずい。そんな分かりきったことも。
不思議と、人の気配は感じない。
まだ覚醒しきっていない身体と思考を動かして、扉を探す。ほどなくして黒と灰色のツートンカラーの両開きの扉を見つけ、そちらへ歩みを進める。この部屋は土足可らしい。脱がされていないままの靴でフローリングを傷つけながら、私は首を傾げる。
インテリアも、先ほど寝かされていたソファーも、埃一つないほどに綺麗なのに、どうして靴のまま部屋に上がっても良いのだろう。
この家の持ち主の核心もそこに繋がっているような気がして、途端に私はきゅっきゅと音を鳴らしていく自身の靴も、このフローリングも恨めしくなる。まるで響かないと言わんばかりの瞳を持っている癖に、汚いものも、きっと嫌いな癖に。土足で上がって来いというのは、彼がきっと自分を高貴で綺麗なものだと思っているからだ。――こんなことを、しておきながら。
扉に右手をついて、そのまま押す。ドアの縁にゴムのようなスポンジのようなクッションがあるのだろう、独特な音を立ててそれはゆっくりと開かれる。扉の先は、長い廊下だった。他の部屋との架け橋になっているのだろうか、道はいくつか垂直に折れていて角が見えない。玄関はどこだろう、部屋を無視しながら少し歩いて、それらしいスペースを見つけた時、私の肩が跳ねた。

――あかい、靴。

ベロア生地で作られたそれは玄関の柔らかな照明に照らされて淡く光っていたけれど、その見た目は酷く既視感を煽るものだった。
見間違いかもしれないけれど、足が竦む。オーダーメイドというわけじゃないのだから、似たようなものはいくらだってある。ただそれが、ここにあるというのが、大きな問題だった。
この部屋には女の人が住んでいるのだろうか。考えて、刹那。聞こえてきた足音に、また、私の肩が跳ねる。

「どうかしたんですか」

ぞっ、と背中を何かが駆け上がる。
……今度は、聞き覚えのある声だった。その声色がやけに優しくて私は怯える。彼はこんな声を出すような人間じゃない。そう思っていたから、余計に。
振りかえった先、ジャケットを脱いでシャツ一枚の格好になっていた彼が、私の背後に視線を送りながら呟く。
「突然倒れるから心配したんですよ」
――嘘だ。
思った言葉は口には出なかったが、顔には出てしまったのだろう。
彼の目が愉快そうに細められて、弧を描く。
「……お礼をさせて下さい、と仰ったのは貴方の方では?」
途端、腕を掴まれ玄関近くの部屋へと押し込まれる。
強い力によって自由のきかなくなった私の体はそのままベッドの上へと投げ放たれて小さく跳ねた。スプリングの軋む音も、彼の革靴がこつこつとフローリングを痛めつける音も何もかもが不愉快でたまらない。
彼の手によって乱雑に閉められた扉は、衝撃を緩和出来ずにはね返り僅かに隙間を残したままの姿でそこに留まり私を見つめた。

「大丈夫ですか?」
ゆっくりと近づき、私に跨った彼が無表情で自身のネクタイを緩めるのを、だるい思考を持ち上げながら睨みつけて、身をよじる。
「どこから……」
問うて、走馬灯のようにここ最近の出来ごとを思い出していた。
偶然と思って信じ切っていた彼との接点は一体どこからねじ曲がっていたのだろう。予想も付かない問題に、私はただ答えを待つことしか出来ない。
私の問いかけに彼はその手を止めると再び楽しそうに笑って、私の頬を優しく撫でる。
「どこから?」
子供に言い聞かすような口調で反芻された言葉に、思わずつま先に力が入った。そんな様子を横目で見た彼が、こちらに顔を寄せて耳元で呟く。
まるで恋人に浴びせる囁きに模造した掠れた甘い声は、私の意識を持っていくには十分だった。

「ああそうだ“”さん。まだ俺は貴方の名前を“知らない”んですよ」


夏のもがき
ああ、やっぱり。
見間違えるはずが無かったんだ。
押し倒された視線の先、無造作に開かれたドアの隙間から見えた玄関の、あかいろ。
鎖骨を這う舌の感触にあからさまの嫌悪を顔に出して自嘲する。

――あれは、“私の靴”だった。


(夏のもがき20130228)