着替えを済ませ部屋を出れば、扉のすぐ横の壁に背を預けながら煙草を吹かす堂島さんと目が合った。堂島さんは私に気付くと携帯灰皿に吸殻を収めてこちらに向き直る。
「準備は済んだみたいですね」
「はい」
「では、こちらに。下に車を待たせていますので」
先導されるまま、階段を下りると、そこには黒く光るリムジンが横付けされていて。その様相に戸惑う私をしり目に、堂島さんはまるでエスコートするかのように手なれた動作で後部座席のドアを開くと、私に目配せをする。乗れ、という事だろう。少しびくびくしながら足を通すと、優しく鼻腔を刺激したミントのような爽やかな花の香りに紛れて背後からくすりと控えめな笑い声が聞こえた気がした。
「やっぱり、慣れませんか? こういうのは」
「……こんな高そうな車……初めて乗りましたし、なんだか気が引けちゃいます」
素直に思いを告げれば、今度ははっきりと聞こえた吐息混じりの笑い声に思わず堂島さんを見遣るも、私に次いでリムジンに乗り込もうとその大きな身を小さく屈めた彼の顔は窺えなかった。そのまま堂島さんはふっかりとしたソファーに腰を下ろし運転手であろう男性に目配せをすると車を発進させ、ゆっくりと背もたれに体重を預けると思いだしたようにまたふ、と笑った。

「どうかしましたか?」
それが少しだけ恥ずかしく感じられて、耐えきれず問うと、堂島さんは少しだけ愉快そうに目を丸めて柔らかなその声で「いえ、なんてことはないのですが」笑みを誤魔化すように一つ咳払いをすると両の手を膝の上で組んで窓の外に視線を移す。

さんのような方とお話するのは、俺としても久々だったので」
「……?」
「なんというか。少し不躾かもしれませんが、新鮮だったんです」
景色を眺めていた堂島さんの瞳が、私を映す。

「……もしかして、貶してます?」
「あっ……いや。そういう意味じゃ」
からかうように言ったつもりが、力いっぱい視線を泳がせて慌てふためく堂島さんが面白くて、なんだか意外だな、と思う。峯くんにはこういうからかいは通じないから、普通の男性はこんな感じかなあ? と想像して、相手が六代目だったことを思い出して口ごもる。
「はは、ごめんなさい。ちゃんと分かってます」
「……っ……まいったな……」
「でも。こんな格好でこんな立派な車に乗ったの、もしかしなくても私が初めてですよね?」
いつものよりも品のあるスーツを選んだつもりだけど、こういう車に乗る女性はきっとドレスだとか、そういう類のセクシーなものを身につけているんだろう。そう思い、口にしたのだけれど。
「というより、この車に女性を乗せたこと自体、今まで無かったので」
思っていた答えの遥か斜め上を飛び越えて行く返答に反射的に背筋が伸びる。

「……いいんですか?」
「こちらこそ。さんの外車デビューが峯の車では無くて、申し訳ないくらいです」
「峯くんの車って、あの黄色の派手なやつですよね?」
「……ええ。ご覧になられましたか?」
私を見る堂島さんの瞳が微かに細められた気がして、それに合わせるように私も微笑む。堂島さんも峯くんのことを思い出しているのだろうか。私を見る瞳が、時折、こうして優しげに憂うときがある。

「一度だけ。でも乗りたいとは思わなかったなあ。峯くん、運転しながら携帯とかいじりそうじゃないですか」

峯くんみたいにスマートなデザインの車を頭の片隅に浮かべてそう返せば、堂島さんはややあって、くすり、と笑うと「さん」と私の名前を控えめに漏らす。

「……あの、先ほども思ったのですが」
「……はい?」
「峯のこと、峯くん、って呼んでいらっしゃるんですね」
「あー……。やっぱり、おかしいですかね? 峯くんにももの凄い嫌な顔されたんですけど」
「いや? いいと思いますよ。俺はね。峯もそんな態度で拒否しなかったんだ。なんだかんだで気に入っていたのでしょう」

それにしても、峯くんか。今度俺も呼んでみるかな。
いたずらを思いついた子供のように無邪気に笑う堂島さんを見ていると、そう呼ばれて驚く峯くんの顔が見えてくるようだった。

「あ……。そろそろ着きますね」
心地のいい沈黙のあと。不意に再び窓の外に視線を移した堂島さんが私に投げかける。
その視線を追って外を見れば、東都大病院の看板の横を今まさに通ろうとしているところで、無意識のうちに背中の筋肉が強張って関節をこきりと押し上げる。
さん。積る話もあるでしょうし、俺は病室の外で待っていますから、何かあったり、話が終わったら呼んで下さい」
「分かりました」
堂島さんが運転手さんと一言二言会話を交わすと、ゆっくりと停止した車に、目的地に到着したことを教えられる。ここに峯くんが居るのか、と思うと、なんだか変な気持になった。初めて会った時の印象が強すぎるせいかも知れないけれど、なんとなく峯くんと病院は結びつかなかった。私の中で、峯くんは強くて格好いいというイメージがあったから、怪我するところは想像出来なかったのかもしれない。

リムジンを降りて堂島さんの先導のもと、緊張をほどほどに病院内へ足を進めると、薬品のような、それでいて乾いた布のような独特な匂いが鼻を掠めて思わず開いていた手のひらに力がこもる。峯くんの病室は一般病棟から隔離されたところにあるらしい。歩みを進めるたびに人気の少なくなる廊下をきょろきょろと見渡していると、まるでホテルのような外観のフロアへとたどり着く。
「少し前まで、俺もここに入院していたんですよ」
堂島さんがこちらを振り向いて感慨深いような声色でつぶやく。
「そうなんですか?」
「ええ。そのときもこうやって峯がお見舞いに来てくれていたみたいで、」
言葉は不自然にそこで途切れたのだけれど。私より一歩分前を歩くその横顔の――何かを思い出すような苦しげな表情をする堂島さんを見ていたら、きっとそれが峯くんに関係していることだと容易に想像することが出来て、私は言葉を続けるのを躊躇った。


「……ここです」
上品なタイルで覆われたフロアの大きなエレベーターを二つ乗り継いだ先、病室の番号が振られていない部屋の数歩前で堂島さんが立ち止まりこちらに視線を寄こした。こちらを見る堂島さん越しに、ちらちらと落ち着かない視線を彷徨わせていれば、病室の扉横に備え付けてあるハイテーブルに置かれたボックスガラスの中のプレートに「峯」、と名前が刻まれているのが見えて、私はきゅっと心臓が鷲掴みにされた気分に陥る。

「それじゃあ俺はこれで。ここに来るまでに通った一つ前の大きなホールに居ますので、何かあったらそこに」
「……分かりました。ありがとうございます」
「……いえ。では、また後ほど」

堂島さんの後姿をお辞儀しながら見送って、その姿が見えなくなったのを確認すると峯くんの病室へと向き直る。
一人になったせいか、急に辺りが静かに感じられて、自分の心臓がいつもより早く鼓動しているのが分かった。
一丁前に、怖いのだろうか。
きっと、峯くんのほうが、怖い思いをしたに違いないのに。
プレートの中の文字をもう一度だけ見て心の中で呟きながら、目の前のクリーム色のドアをノックする。コン、コン。控えめな音が耳を遊んで、消える。中からの反応は無かった。一度深呼吸をしてから、パイプ型の銀色に光る冷たいノブを掴んで、左へと引く。
音もなく開かれた扉の先は思ったよりも明るかった。優しげな色の間接照明を浴びながら、後ろ手でドアを閉める。
目的の人物は探さなくてもそこに居た。当たり前のことだけど、やっぱり違和感を感じずにはいられなかった。本当に屋上から落ちてしまったのかと言うくらい綺麗な顔をした峯くんが、すうすうと小さな寝息を立てて大きなベッドに横になっている。
ピッ、ピッ、と機会音が鳴る部屋で、私はそんな峯くんを見つめながら病室の中にあるとは思えないくらい立派なソファーに腰を下ろすと、鞄から取り出した、電源を落としてある峯くんの携帯をベッドサイドテーブルの上に置いて、点滴のため掛け布団から出されている峯くんの右手を握る。

こんなときだというのに、眉を顰めて寝ている峯くんを見て、私は夢の出来ごとを思い出していた。
あの時はもっと悲しそうで、もっと痛々しそうで、見ていられなかった。けれどそれは、峯くんが必死に頑張ってた証拠で、私はそれを少しでも癒してあげることが出来ていたのだろうか。そんな事を思って。
峯くんは私に会いに来たと言ったけれど。私が峯くんに会いに行ったんじゃないかって。

「峯くん。また落としてたよ」
顔を上げて発したその一声が。情けないくらい震えた声で、自分でも笑えた。

「私の部屋に来た時にね、落としたんだと思う」

夢の中の、出来ごとだった。現実のような、出来ごとだった。
電子音と呼吸音しか聞こえない空間に、私の声はやけに響いた。峯くんの手のひらから伝わる体温を感じながら、つよく、つよく、その手のひらを握りしめる。
――返答は、ないけれど。

「今日、私のところに堂島さんが来てね、その携帯を峯に返してやって欲しいって言われたから来たよ。どうして私のところに峯くんの携帯があったのか凄く不思議がってた。もしかしたら、恋人かも、って思われちゃったかもしれないよ。どうしよっか。峯くん嫌がりそうだなあ……って思ってたけど、当たってる?」

峯くんが私のことをどう思っているだろうか、とかは考えたことが無かったなあと今更思う。けれど、峯くんは恋人関係とか、そういうのには何となく疎そうなイメージがあったから、だって、最初に出会った時に見知らぬ女性にブランド物のバッグを送ろうとしたくらいだから。そういうことに慣れているのかな、とも思ったけど、慣れているのはきっと相手との関係をイーブンにする行動だけで、あれは女性だから気を使ってやった行動ではないんじゃないかなと思う。そういう意味で、峯くんは誰にでも対等だった。私は峯くんのそういう所が好きだった。度が過ぎた時は少しだけ迷惑だったけど、そこも含めて峯くんの魅力だとわかっていたから。

「話したいこといっぱいあったけど、峯くんのいつもの顔見てたら忘れちゃったから、思いだしたらまた話すね」

ピッ、ピッ、という音が相も変わらず私の言葉を遮るように、峯くんとの隔たりを作るかのように、一定のリズムを刻み続ける。
それを聞いていたら、今何を話せばいいのかも、何もかも考えられなくなって、無意識のうちに峯くんの手を握る手に力が入る。

この部屋に入る前に、峯くんの前ではもう絶対泣かないって決めたのに。気を緩めたら溢れだしそうになる自分の涙腺の弱さが恨めしくて仕方なかった。
せり上がる感情を誤魔化すように続けられるだけ吐き出した言葉も、次第に止んで、再び呼吸と電子音しか聞こえなくなった空間に、私はいまどんな顔をすればいいのかが分からなくなっていた。
そうして俯くように動かした視線の先、二つ折のそれが視界の端にちらついて、私は峯くんの顔とそれを交互に比べ見ると、サイドテーブルに置いておいた携帯電話を右手で掴んで、峯くんの手のひらに握らせる。
「峯くん、あのね、」
あの約束は今思えば私の単なるわがままだったのかも知れない。あの時も今も、峯くんからの返事は無い。

「これ。壊れてなかったよ。電波も入るし、普通に動くよ」
――だから今日、ここに来れたんだよ。
そう付けたしながら、その冷たい感触を確かめるように峯くんの手のひらごと両手で包む。
「何度でも届けるって言ったの、覚えてる?」
私がそう告げた時の峯くんの悲しげな、それでいてどこか嬉しそうだった顔は今でも鮮明に思い出せる。何の根拠もないけれど、何故だかあの時は出来るような気がした。やらなければいけないとも、思った。
私が届けなかったら、峯くんもきっと、どこかに行ってしまうって、それは多分間違いじゃない。
今日だって。峯くんはきっと待ってた。私がなんてことないみたいに、またこうして届けに来るのを。何の根拠もないくせに。
――だからこれだけは、ちゃんと言わなきゃいけないと、分かっていた。
言ったら泣いてしまいそうで、それでいてどうしようもなく押しつけがましくて、私だけが必死みたいで、恥ずかしくて堪らなかったけど。今言わなかったら、私はきっと峯くんに二度と会えないだろうって。

「……見つけたよ。峯くん。私、見つけたよ」

どっちを、だなんて言わなくても峯くんならきっと分かってくれる。私の考えてることなんて幼稚で、峯くんには全部筒抜けだろうから。

峯くんの手のひらを包む両の手が震える。
瞼でせき止められた涙が、今にも零れ落ちそうなくらいに溜まって、私の視界を遮る。下を向いたら流れてしまいそうだった。涙を我慢したせいで、鼻水が喉を通って気持ちが悪い。でも、何もかも我慢して、ただひたすらに祈る。
峯くんも、私との約束を守ってくれるって。
その時、包んでいた手のひらの中で、ぴくりと何かが動いたのを感じて、思わず静止する。いきなりのことに涙も引っ込んで、私はブリキのように錆び付いた首をゆっくりと峯くんの顔へ向ける。
――目は、開いていない。
相変わらず一定のリズムを刻む電子機械を確認して、勘違いかと、肺に溜まった酸素を吐きだそうとして、私の耳を撫ぜた音に張り詰めていた緊張が千切れるのが分かった。

「……見つかってしまった、みたいですね……」

水分の足りないような掠れた声が、私に投げかけられる。
嘘。だって。峯くん。目閉じて、寝てて。全然起きそうになくて。怖くて。嬉しくて。峯くんの顔が見れない。
私が握っていた手のひらが自分の力で開かれようとしているのを感じて、そっと携帯を抜きあげてその手を開放しながら、漸く確認するように峯くんの方を見れば、苦しげに眉を寄せて、不躾にこちらを見遣る峯くんの視線とかち合って、塞き止めていたはずの涙が無情にも流れていくのを、私は止めることが出来なかった。

「……また、俺のために泣くんですね」
「だって……峯くん、死んじゃったのかって、わたし、」
そんなことあるはずないと分かっていた。けれど、心のどこかではもしかしてと思ってしまうのを抑えきれなかった。峯くんは強くて格好良くて少しずるくて、でも、いつだってそのまま消えてしまいそうな儚さを持っているような人だったから。

「……すみません、でも、」
本当に死んだのかと思ったんだ。いや……死んでもいいと思った。あのまま、死ねたら幸せになれるんじゃないかって――でもその時、あんたが夢に出てきたんです。さん。

途切れ途切れに峯くんが話す言葉に、あの夢の話が出てきて驚いた。じゃあ私たちは、本当に夢の中で会っていたという事なのだろうか。疑問が前に出て首を傾げてしまっていたのか、峯くんはフッと意地悪く笑うと、言葉を続ける。

「今、こうして会えているほうが夢みたいだ。……なんて、くさいですかね」
首から下は布団に隠れているせいで見えないけれど、きっと怪我で思うように動かせないのだろう、もぞもぞと首だけをこちらに向け直した峯くんが、照れくさそうに言うものだから、頬を伝う涙を乱暴にぬぐって、笑って返す。

「ううん。私もそう思ってた」
「……まあ、そうだと思って言ってみたんですけど」
「……峯くん」
「はは、すみません」

会えなくなる前の、いつもの峯くんのような軽口に、止まりかけていたはずの涙がまた押し寄せてくる。泣いたり笑ったり忙しい私を、峯くんは楽しそうに見つめると、「寝るのが惜しいような、惜しくないような、こんな気持ちは初めてだ」とどこか遠くを見るようにぽつりと漏らすから、私は相手が怪我人だったことを思い出して、慌ててそんな峯くんを布団に押さえつける。

「堂島さんも来ているから、峯くんが起きたって報告してくるね」
「大吾さんが……?」
「うん。ここに連れて来てくれたの」
「なんとなくは察していたが……そうか。じゃあ、」
「うん。勝手に聞いちゃった」

なんてことのないように言えば、僅かに開かれた瞳に、峯くんの心の内が映されているみたいで、私はだらしなく笑うと「でも、峯くんから直接色々聞きたかったから、少ししか聞いてないよ」さっきのお返しにと、胸を張ってえばるように言って見せたけれど。
峯くんには全くダメージにならなかったらしく、丸められた瞳はただ楽しそうに細められて、鼻から抜けた吐息と共に一蹴されてしまった。

「……そうですか。全く、あんたも変な人だ」

やれやれと視線を逸らす峯くんの顔が酷く楽しげだったから、つられて私も笑った。


(泣くもんか 前・後20130114)