「師匠、こんばんは!」 
 夜の十時を回った頃。ジェイミーが欄干に手をかけいつものように中華街を見下ろしていると、背後から明るい声がかけられた。〝師匠〟と前置きされた呼び名から特に警戒することなく振り返れば、そこにあったのは予想通りここ最近ですっかり見慣れてしまった顔だった。
「よお、弟子」
 片手を上げて応えれば、屈託のない笑顔と柔和な頷きが返ってくる。ひょんなことから初対面の相手と成り行きで師弟関係を結ぶことになったジェイミーだが、この〝弟子〟の類稀なるマイペースな性格が幸いしてか特に衝突することもなく良好な関係を築けていた。
 薄ら寒くなる時間帯であるにも関わらずBUCの青いロゴが光る白地のタンクトップに身を包んだ弟子は、ジェイミーの隣にやってくると大事そうに両手で持っていた何かをそっと手渡した。
「ジェイミー師匠、これ、今日のプレゼントです」
 それを受け取りじいっと数秒見下ろして、ジェイミーはわざとらしく唇を尖らせる。
「あー……弟子からの折角のプレゼントだ、有難く頂くけどよ……なんで毎回同じ茶樓のステッカーなんだ?」
「本当はお嫌いでしたか?」
「いや、まあ、嫌いじゃねえとは言ったがな……」
 良好な関係――であるはずだ。
 少なくともジェイミーがそう感じているのは嘘ではない。しかし、出会うたびに渡される饅頭男のステッカーのプレゼントは十五枚を超えたあたりで数えるのをやめた。好きと一言も言った覚えのないキャラクターのステッカーは、ジェイミーの自宅にあるシューズケースの上に重ねて置かれている。
「ま、気持ちは嬉しいぜ。ありがとな」
「はい。どういたしまして!」
 貰ったばかりのステッカーを折らないように上着の内ポケットに仕舞うジェイミーを見ながら、ふと弟子が口を開いた。
「そういえば……ジェイミー師匠ってご出身は中国でしたよね?」
「ん? ああ。とはいっても、前に教えたように親父の都合で中国とアメリカを行き来してたせいで生まれ育った故郷って感じでもねえんだけどな。それがどうかしたか?」
 同様に以前の会話を思い出したのだろう。弟子は「そうでしたね」と相槌を打ってから続ける。
「いえ、このあいだ頼まれ事をこなしに中国に行く用事があって……」
「にゃはは! お前、前から思ってたけどすげえフットワーク軽いよな。東奔西走はメトロシティだけじゃねえのかよ?」
 気分よさそうに大きく口を開けて笑うジェイミーを薄目で睨んだ弟子が「それ、師匠が言いますか?」と解せなそうに言い返す。
 ジェイミーは「へへっ。悪い悪い、気にせず続けてくれ」と人差し指で目じりの涙を拭って先を促した。
 気を取り直すように一度咳払いを零してから、弟子が口を開く。
「そこで新しい師匠と知り合ったんです。初めての中国で悪漢に絡まれてるとことを助けてもらって」
「へえ! そりゃあ運が良かったじゃねえか」
「その師匠にも〝運が良かったね〟って言われました。たまたま仕事で天紅園に来てたところに出会えたみたいで……」
 そこまで言うと弟子は不意に言葉を区切りジェイミーの顔をじっと見つめた。暗がりの中でも瞳に顔が反射するほど近づかれジェイミーが思わずのけ反れば、神妙な表情を貼り付けた弟子の顔が離れていく。
「な、なんだよ急に」
「うーん……やっぱり似てる気がする……」
「……? 何がだよ」
「その中国の師匠です。雰囲気がどこかジェイミー師匠に似てるなあって思ってて」
「オレに?」
 呟きながらも、ジェイミーに思い当たるような知り合いは居ない。己の出自がややこしいことを抜きにしても、悪漢から人を守れるような優しさと強さを兼ね備えた血縁者は一人も浮かばなかった。そもそも、世間体を気にするような身内ばかりに囲まれる日常のつまらなさにジェイミーは堪らず地元を飛び出したのだ。
 だから「きっと気のせいだ」と、やんわり否定してやろうとした。それは諭す意味も、譲歩の意味もあった。形こそ否定であるが、弟子への優位性は放棄している。つまり今、ジェイミーは無抵抗で無防備だった。
、っていう女性の方です。知りませんか?」
 その肉体が。全身が。一瞬にして強張る感覚。鼓膜を伝い心臓に突き立てられた人名にジェイミーは反射的に目を見開く。それから「あ?」遅れて低く掠れた唸り声が漏れた。先ほど自身で拒み空けられた距離を、今度はジェイミーが一歩詰めて縮める。近づいたからと言って、凶器を持っているわけでも構えを取ったわけでもない。しかしすぐさま、じゃり、と地面を踏みしめる音が辺りに響いた。ジェイミーの気迫に圧され弟子が耐え切れず後退した音だった。
 その音に、ジェイミーは我に返って殺気を解いた。
 途端に人が変わったみたいに、否――普段のジェイミーに戻り「すまねぇ、ビビらせちまったか?」へらりと笑顔を纏わせて両手を顔の横に挙げる様子に「ああ、いや、大丈夫です」と弟子は半ば無意識に首を振るった。バクバクとうるさい鼓動を必死に抑える弟子から、ジェイミーは項を掻き気まずそうに視線を逸らして言う。
「そのって人の旗袍……装束の色が赤なら、オレも良く知ってる人だ」
「……! 赤でした! それと、黄色の手甲をしていて……」
「美人だったろ? そんで、馬鹿みてえに強い」
「え? あっ、はい! とても!」
 首を傾げつつも素直に弟子が答える。その「とても」が前と後ろどちらにかかっているかジェイミーは確認しなかった。ただ「だろうな」とどこか上の空に呟いて、視線を弟子に戻して続ける。動揺はもう収まったのか、いつもと変わらぬ実直な瞳で弟子は師匠を見ていた。
 その真っすぐな視線に見合った真っすぐな声色で、世間話の延長みたいに弟子が呟く。
「〝オレも良く知ってる人〟ってことは……師匠って、ジェイミー師匠の恋人ですか?」
 恋人。
 予想もしていない言葉だったが、だからこそジェイミーは狼狽を見せずにいられた。
 恋人。
 もう一度頭の中だけで繰り返して、かみ砕き、解けたそれを苦い顔で飲み下す。
 なれたら苦労しねえよ。
 一人で居たら呟いていただろう弱音染みた本音は気づかないフリをして、誰にも見えない奥底に仕舞い込んで蓋をした。第一、勝負もしていない内から怖気づくのはジェイミーの柄ではない。
 ほんの少し空いた不自然な間を誤魔化すように、ジェイミーは再び欄干に肘を突くと、挑発するように首を傾げ上目遣いで弟子を見やった。
「……そうだ、って言ったら?」
 何となく、誰にも言えない冗談を言ってみたかっただけだった。当然、騙すつもりなどない、嘘にすらならない一言である。
 けれどその返答に弟子は感動したように神妙に頷くと、今日一番の笑顔をジェイミーに向けた。
「お二人とも凄く強いし、美男美女でお似合いだなって思います!」
「…………弟子。お前、良いやつだな」
 そのあまりにも聖人めいたオーラにジェイミーが罪悪感を感じるよりも先に、何かを思い出した顔をした弟子が「あっ!」と突然大声を上げた。顔を顰めるジェイミーに気づき、弟子が慌てて片手で自らの口を塞ぐ。
「オイ、もうすぐ深夜だぞ? あんま大声出すなって……」
「すみません。あの……もしよかったら、ジェイミー師匠。一つお願いを聞いてくれませんか?」
 そう言って頭を下げる弟子を、ジェイミーは「ふぅん?」と目を細めて見下ろした。
「殊勝な態度は悪かねえが、その聞き方は卑怯だぜ? こういうときはまず内容が先……だろ?」
 掲げられた無骨な人差し指がピシッと勢いよく弟子の額を叩く。
 弟子は小さく呻いて額を押さえ「すみません」ともう一度軽く頭を下げて続けた。
「実は、師匠に拳法の指南書をお借りしてて。今週末お返しに行こうと思ってたんですけど……丁度どうしても外せないトーナメントの予定が入ってしまって」
 トーナメントと言えばハガースタジアムで定期的に行われている格闘大会のことだろう。ここ最近、この弟子がメトロシティの格闘家フリークの中では随分と噂になっていることをジェイミーも知っていた。だが、トーナメントも大きな括りで言えば立派な修練の一つだ。優先順位をそちらに傾けたと知っても、は許してくれるだろう。
「別に……姐なら事情を説明すりゃ分かってもらえるだろ、そのくらい。急ぎじゃねえんだろ?」
「でも、大事なものだって聞いたのでずっと預かっているのも申し訳ない気がして」
 ジェイミーの指摘は真っ当なものだった。けれども弟子は引き下がらない。また、弟子が言うことも一理あった。ジェイミーの記憶が正しければ、大姐が所有している指南書のいくつかは家に代々伝わる価値のつけられない貴重品だと聞いた覚えがある。仮に紛失でもしたら大変なことになるだろうことは想像に容易かった。
 しかし、それだけ言うと急に黙りこくり何かを言いずらそうに口を噤む弟子に、ジェイミーは胡乱な目を向けた。そうまで態度に出されれば嫌でも気が付いてしまう。
「まさか、オレに返しに行けって言うんじゃねえだろうな?」
「……駄目ですか?」
 おずおずと口を開く弟子に、ジェイミーは片眉を上げたままやれやれと肩を竦めた。
「そいつは筋が通らねえだろう。姐はお前だから、大事なもんを託してくれたんだぜ」
 裏社会の人間に喧嘩を売り半殺しにされ、仲裁に入って話をつけてくれた大哥たちにケジメをつけてもらったあの日から、ジェイミーの中には一本真っすぐに線の通った筋がある。常識、作法、礼儀。それらは強さの次に大事なもので、いつどんなときだって尊重すべきものだと考えている。それは間違いなく何より大好きで心から敬愛するユン、ヤン、、師傅から学んだものだ。そして今度はジェイミーが、この弟子に継承しなくてはならないものに違いなかった。
 ジェイミーの言葉に、弟子は考え込んだ様子を見せる。そのフットワークの軽さから突拍子もないことを言い出す人間ではあるが、話の通じないやつではないのだ。
 会話のなくなった空間を和ませるように、ジェイミーが「そう落ち込むなよ。悪いことじゃねえんだ、姐に連絡すればどうでにでもなるって。な?」と肩を叩くと、弟子がゆっくりと顔を上げた。
 しかしその顔は予想に反してどこか晴れやかで、ジェイミーは思わず面を食らう。
「そうですよね! 師匠に連絡します!」
「お、おう。そうしろそうしろ」
 早速スマートフォン端末を取り出した弟子が、タプタプと操作する音を響かせる。何か長文のメッセージを打っているのかその目は画面から離れない。これは暫くこのままだろう、とジェイミーも中華街に視線を戻した。
「師匠、週末は空いてますか?」
「あ? まあ、予定は入ってねえけど?」
「ありがとうございます」
 警邏に意識を向けつつも、会話の返事をするときは顔を弟子へ向けて発言する。自然な素振りで弟子も同じようにジェイミーと目を合わせてお礼を口にした。
 やっぱり礼儀正しいんだよな、こいつ。そう思いながらジェイミーは口角だけで笑った。

 それから、十分ほど経ってバイブレーションの低い音が鳴る。弟子の端末の着信音だった。
「ジェイミー師匠! 師匠から許可貰いました!」
 見せびらかすように端末の画面を目の前に差し出される。無理やり視界に入ってきたそれを仕方なく確認してやると、そこには直近で行われていた二人のやり取りが表示されていた。
「ほら言ったろ? 姐は話の通じる人――……って、はあ!? 〝自分の代わりにジェイミー師匠が返却しに行きます〟ぅ!? お前、さっきの話聞いてたよな!?」
 先ほど却下したはずの提案がなされているところを確認させられジェイミーが吠えれば、それを端末を持つ逆の手で宥めた弟子が食い下がる。
「その次もちゃんと読んでください! 師匠の言う筋はきちんと通ってますから!」
「〝ジェイミーが来てくれるの? 私は構わないけど〟いやそこは構えよ姐……」
「このやり取りの前に、トーナメントが重なって行けないことは謝罪もしましたし、あとはジェイミー師匠次第です」
「オレ次第って……お前なあ、こっからどう断れって言うんだよ」
 スクロールされた画面には弟子の言う謝罪のやり取りも載っていた。弟子の堅苦しいまでに丁寧な文章に、がフランクに許しの言葉を返している。そりゃあそうだ。ジェイミーの良く知る〝大姐〟はこんなことで怒ったりはしない。大抵のことは「いいよ」と笑って流してしまう。そういう器の大きいところも好きなところの一つであるのだが。
 今回ばかりはその器量が災いし、本人の与り知らぬところで勝手に行われていた取り決めにジェイミーが頭を抱えていると、弟子は「断るんですか?」と端末を持ち直して言った。
 声のした方にジェイミーはうんざりとしながら視線を寄こす。ぼんやりと光る画面に照らされて、弟子の顔が淡く輝いている。
 憎たらしく輝く弟子が言い放った。
「けど……ジェイミー師匠が渡しに行った方が、師匠もきっと嬉しいと思いますよ」
「弟子のお前が行ったって喜んでくれるだろ」
「それはそうかも知れないですけど、恋人には敵いませんよ」
 恋人。
 って、誰が? ――と言いそうになって、そういや〝そういうこと〟になってたんだった、とジェイミーは腹の底から深く息を吐く。何も知らない弟子の無垢な一言が、ジェイミーの心の柔らかい部分を擽っている。その感触が満更でもなくて、ジェイミーは弟子の言葉を否定する気にはなれなかった。それに今となっては、弟子の謝罪をが既に受け取っている以上、ジェイミーにはこのお願いを無理に断る理由もない。
「……わかったよ。今回だけだぞ?」
 渋々、といった顔と声で承諾するジェイミーだったが、弟子はまだ眩い表情のままそれを受け止める。
「はい! 師匠、すみません。今回だけお願いしますね」
「ったく、調子の良い弟子だぜ……」
 ジェイミーのぼやきをBGMに、弟子は宛にジェイミーが代理人を引き受けてくれた旨のメッセージを送り終えると端末をポケットへと仕舞い込む。
師匠にも了承の連絡をしておきました! これから拠点に戻って指南書とフライトチケット取ってきます!」
 そう言うなり、勢いよく走り去って行った弟子の背中をジェイミーは片手を振るって見送る。ほどなくして弟子は中華街の地面を駆け抜けるとメトロシティの夜の景色へと消えていった。
「はあー……ざまあねえな、オレ……」
 筋を通せと言ったことも、断ろうとしたことも偽りじゃない。けれど今のジェイミーの頭の中は、と会える喜びで支配されていた。
 軽薄そうに見えてその実、恋愛に関して超が付くほど奥手のジェイミーには〝好きな人に会いに行っても良い理由〟が不意に飛び込んできたこと自体はどう解釈したって幸運だった。
 だが、それを幸運だと感じてしまうのと同じくらい、世界で唯一独り占めしたいと願う女にさえ積極的に行けない自分が情けなくも思えてくる。
 とはいえ、どちらにせよ結末が己にとって好転したのは違いない。ジェイミーは心の中だけでこっそりと弟子に感謝の言葉を述べた。
 弟子の話を聞いている限り、時折危険な橋を渡らせられていることもあるようだが、気になったファイターには誰彼構わず弟子入りするあのアグレッシブさは見習わなくてはならないかも知れない。
 そんなことを考えていると、ジェイミーの端末が鳴る。何気なく確認すれば渦中の人、からのメッセージだった。
 〝弟子の子から聞いたよ〟
 〝今週末代わりに来てくれるって〟
 〝ジェイミーに会えるの、嬉しい〟
 〝楽しみにしてる〟
 連投された文章の締めに、大きな赤いハートをこちらへ差し出しているパンダのスタンプが送られてくる。それは以前、ジェイミーが「このパンダ、ユン哥ヤン哥にも姐にも似てんな……」と思いつきで三人へプレゼントしたものだった。
「あ゛あ゛ー……! もぉ~……」
 ジェイミーが確認したことによって、向こうにはもう既読の表示が付いているだろう。変に待たせてありもしない心配を勘ぐらせるのは本意ではなく、長々と悠長に返事を考えている時間はない。
 結局、最初に思いついた単語を送り返した。
 〝オレも〟
 すぐに既読が付いたかと思えば、たった一言〝知ってる〟と返ってくる。ジェイミーは反射的に目を瞑って、必死に平常心を取り繕った。マジでどうやったらこの人に勝てんだよ。幼馴染であるユンとヤンでさえきっと知らない秘密の答えを、ジェイミーが導ける訳もなかったのだった。


 約束の週末。
 弟子から譲り受けたフライトチケットを利用し、ジェイミーは久しぶりに中国の地に降り立った。メトロシティとはまた違った、体に馴染む空気を腑いっぱいに吸い込む。
 用事を済ませて直帰するささやかな旅だ。長時間のフライトで固まった筋肉を体操や屈伸をしてほぐすジェイミーの荷物は、弟子から預かった大事な指南書とが好きな銘菓の手土産が一緒に入った紙袋、スマートフォン、財布だけである。いつもと違うのは服装くらいだろうか。先日師博から贈られたばかりの艶やかで滑らかな生地の赤い礼服は、これから〝勝負〟に赴くジェイミーの気をビッと引き締めてくれる。
 今日の予定が入ってからというもの、ジェイミーが手を煩わせるようなトラブルが紅虎路周辺で発生しなかったことは幸いだった。トラブルバスターを自称する身だ。何か異常があれば街を優先しなくてはならないが、直前になって代理をキャンセルするわけにもいかない。ただ実際は、そんな緊張感のある懸念とはよそに、街全体がジェイミーを見送ってくれていたのかとさえ思えるくらい平和な数日が過ぎていった。

 中国に着いたばかりの足でそのまま天紅園の入り口までやってくるとジェイミーは〝着いたぜ〟とに簡潔な報告を送った。丁度端末を見ていたのか〝迎えに行くね〟と即座にレスポンスが寄こされる。そのお返しに、ジェイミーは自身も揃いでちゃっかり購入していた例のパンダが親指を立てているスタンプを送りつけスマートフォンをポケットに収めた。
 待っている間は特にすることもないので、ぼんやりと景色を眺めて過ごす。模様を描く赤い橋、水を噴射する龍亀、瓦罐煨湯の大甕、立ち並ぶ茶樓と倒福の飾り。メトロシティのチャイナタウンとはまた違う、本場の熱気が頬を撫でていく。昼の匂いだ、漠然とした感想をジェイミーは抱いた。人々の活気や、それを囲う日差し、店や屋台に並ぶ料理、何もかもがジェイミーの守るあの街の夜とは違う。ああ、ここは大哥と大姐が守る街の一部だ。そう思うと、より一層尊いものに感じられる。
 ふくよかな憧憬に浸りつつ、忙しなく行き交う人々を横目に橋を背に立っていると、向かいから赤い旗袍に身を包んだ麗人がゆったりと歩いてくる。流水の如くしなやかな足捌き。天から糸で吊られたようにしゃんと伸びた背筋と、全く歪むことのない体幹。健康的で均整の取れた肉体はモデルのような美しさであるが、どこか鋭い気配もある――は、こうして改めて客観的に見ると驚くほど目立つ人だ。仮にあの日助けられていなくとも、街中で偶然出会っただけで運命を感じてしまいそうなくらいには求心力がある人間だった。
 はジェイミーが直線上に居ることに気が付くと、歩みを早め手を振りながら距離を縮めた。スリットから覗く光沢のある黒タイツに包まれた肉感的な太ももがちらちらとジェイミーを誘惑しているのは見て見ぬフリをしておく。
「ジェイミー! お待たせ!」
「にゃははっ、待ってねえって。連絡したろ~? オレも今来たとこ」
 ジェイミーが片手を上げて歯を見せ笑いかけると、は甘く上品に笑い返してから、珍しいものを見たような様子でその腕にそっと触れた。
 一瞬どきっとしたジェイミーであったが、その手が徐々に己の二の腕から肩、鎖骨の辺りへ流れていくと、ジェイミーは自身の肉体ではなく身に纏う装束の感触を確かめられていると察した。少しだけ、本当に少しだけがっかりしながらふっと肩の力を抜けば、の手が離れていく。
「この礼服……初めて見た! とっても似合ってる! もしかして、よく話してくれる師父さまから?」
「そ、おばあから。少し前に帰郷したとき、流派の開祖さまにお披露目ってことで仕立ててくれたんだ。つっても、そっちは流石に汚せねえし……この服はその礼服の複製品だけどよ。わざわざ色違いで何着も持たせてくれたんだ、勝負のときに着ろって」
 赤の他にも青とか緑とか黒とか色々あってよ。ぶつぶつと指折り数えるジェイミーを見てがくすりと口元に手を当ててほほ笑む。
「ふふっ、今日は何の勝負の日なの?」
「何のって……天紅園のど真ん中で姐の隣を歩くんだぜ? 誰に見られてるかもわからねえんだ。ビッとしなきゃ怒られちまう」
「怒られるって、誰に?」
「そりゃあ、ユン哥とヤン哥に」
 ジェイミーが今日、この服を選んだ理由の一つが脳裏に彼らの顔が浮かんだからであった。事実、彼らのメイン拠点である香港ではないとは言え定期的な出張先であるこの土地ではどこに大哥たちの目があるかも分からない。そんな場所で知らぬ間に無礼を働きうっかり幻滅されないためにも、出来る限りの礼儀は尽くしたかった。
「私のことであの二人は怒らないとおもうけど……でも、赤い礼服を着てるジェイミーは少し新鮮かも」
「つまり……カッコいいって?」
 ジェイミーは腰に手を当て背中を反らし、フンと鼻を鳴らして聞き返した。それに合わせて、鍛え上げられた胸板がはちきれんばかりに礼服を押し上げる。
 どこから見ても芸術的な逞しい男の体がそこにはあった。無駄な脂肪をそぎ落とし、刃を研ぐかのように拳法のために磨き上げられた体が、普段よりも密着性のある服を纏うことで濃厚な色気を放ちながら公に晒される。それが並大抵の努力では手に入らない体だということは、同じように格闘技を極めんと日々研鑽を積むには理解できる。
「……うん。格好良くてどきどきしちゃうな。それに……」
 手放しの賞賛を贈りながら、悪戯っぽく彼女が笑う。
「私と、お揃いみたいで嬉しい」
 そう囁きその場でゆるりと一回転したに合わせて、旗袍の裾が翻る。金色の裏地が日光を含んで煌めくと、ジェイミーはその眩さと愛おしさに卒倒してしまいそうだった。
 今日、この礼服を着てきたもう一つの理由。は「お揃いみたい」と言ったけれど、本当は「みたい」なんて曖昧なものではない。なぜならジェイミーが合わせにいったのだから、揃いになるのは当然なのだった。
 が普段から動きやすさと見栄えを兼ね備えたこの赤の旗袍を好んで着ているのをジェイミーは知っている。色の濃淡こそ変動があっても、基本的にのイメージカラーが〝赤〟であることも、何年も前から変わらぬ彼女の決まり事だった。
 この国において赤は、祝いの色だ。単独であればそれほど注目もされない普遍的におめでたいとされる色である。だが、それが二人並べば話は変わってくる。もそう思ったのだろう。
「ねえ、ジェイミー。私たちっていま、ものすごく気合の入った恋人同士に見えちゃってたりするのかな?」
 内緒話をするみたいに寄り添ったが、ジェイミーの耳元で笑う。身近に感じる呼気にどうにかなってしまいそうになりながら、ジェイミーも負けじとの耳へ唇を近づけた。
「それ、弟子のヤツもそんなこと言ってた」
「あの子が?」
「ああ。オレたちのこと恋人同士って勘違いしてるっぽいぜ、あいつ」
 ジェイミーの小さな声に、が首を僅かに傾ける。その動作に合わせて、彼女の香りがする。
「〝美男美女でお似合いだ〟ってよ。弟子にそう映るなら、今なんて尚更なんじゃねぇの?」
 冗談めかしてジェイミーは続けた。それは何と返されようと構わない問いかけだったが、はまたいつかのように彼が一番喜ぶ一言を平然と言い放ってみせる。
「私は……ジェイミーが相手なら、どう思われても嬉しいけど」
「んなの、オレだって……」
 ジェイミーは嬉しさをかみ殺した声で、下心が悟られれぬよう素っ気なく返すので精一杯だった。
「でも、そっか……勘違いされてもおかしくないくらい、ジェイミーも大きくなったんだよね。初めて会ったときはまだ子供だったのに」
「そういう姐は全然変わんねえよな、ずっと……綺麗なままだ」
 出逢ったあの日から、ずっと。あっさり登頂していったジェイミーの特等席を降りてくれない。恋であり、愛であり、生きる意味であり続けてくれる人。が変わらないのか、ジェイミーが変わらないのか、彼女に向けた感情の炎は強まり続けているのだから嬉しくも恐ろしかった。
 この先、ずっと、この人のことが世界で一番好きだ。
「そんなに褒めてくれても何も出ないよ? ご飯は奢るけど!」
「……ふはっ、奢ってくれんのかよ」
「長旅で疲れてたでしょう? 前にね、ジェイミーと来たいなって思ったお店があったんだ。良かったらそこでご馳走させて?」
 ジェイミーの返事を聞くより先に、が手を取って歩き出す。
「あ、おい! 姐!」
「こっち!」
 慌てて足を前に出したジェイミーが、体勢を直す際に無意識にの手のひらを握り返す。隣に追いついたとき指が絡まり合っていることに気づいたが、ジェイミーにはその手を自ら離すことは出来なかった。


 お互いの体温を交換しながら目的地へ向かう短い時間、ジェイミーは本当に恋人同士になったような気分で町を歩いた。
 店へ着くと、向かい合う形でテーブルについた二人の手が離される。ジェイミーがそれに名残惜しさを感じていれば、が「手、繋いだままだったね。自然だったから忘れちゃってた」と照れくさそうに笑う。
 こういう何気ない一言に、いつもジェイミーは翻弄される。本人にその意図が無いのが余計にジェイミーを喜ばせてみせるのだ。
 簡単に浮き立つ気持ちを振り切るように、ジェイミーは「そういえば」と会話を切り出す。
姐。弟子からの預かり物と手土産、忘れない内に渡しとく」
「……ん。わざわざありがとう」
「どーいたしまして」
 包みが入った紙袋を渡せば、軽く中を確認したがお礼を口にする。ジェイミーは間延びした声で頷いてから、にも見えるようにメニューシートをテーブルの上に置いた。
 どれがいいか、と相談しつつ互いに好きな点心を選ぶと、店員を呼んで注文を済ませる。
 店員は注文を承ると湯の入ったポットを置いて去っていく。ジェイミーは慣れた作法で茉莉花茶を二つのカップに注ぐと、その片方をの前に差し出し、もう片方に早速口を付けた。熱い茶が喉を伝って肺腑を潤すと、聞きにくいこともするすると口から零れ落ちていく。 
「……てかよ、姐って弟子とか取るんだな」
 渡したばかりの預かり物を指さして言う。不貞腐れた口調はどうにも誤魔化せそうもない。
「意外だった?」
「や、意外っつうか……」
 弟子、と聞いたとき。ジェイミーがまず思ったのは「どうして」だった。自分が知る限り、の周りには弟子の肩書を持つ人間はこれまで存在していなかった。だから、例え恋人じゃなくても、家族じゃなくても、幼馴染じゃなくても――たった一人の弟分としてでも近くに居られる自分は特別だと安心していられた。
 それが、覆されたような気分だった。嫉妬なのかどうかさえ分からない。分からないから、あの時、弟子からの名を聞いたとき。ジェイミーの無邪気な攻撃性が顔を覗かせた。不良で、ガキで、どうしようもなかった昔の自分が再び顔を出したのだ。
 香港にはジェイミーと同じように大哥大姐を慕う人間はいくらでもいる。彼らに守られてきた人間も数え切れないほどいるはずだ。
 でも。それでも。
「オレのことは、弟子にしてくんなかったのに、と、思って」
 ぽつ。と、零したそれが己の声だと気づいたとき「いや、違ぇ、そうじゃなくて」ジェイミーが咄嗟に否定しながらを見やると、彼女は、は、酷く穏やかな顔でこちらを見ていた。
 その眼差しの強さと温かさに、ジェイミーは視線を逸らせなかった。ジェイミーの虹彩の中央で、の淡く色づいた瑞々しい唇が小さく震える。
「ジェイミーは私と初めて会ったとき……最後に何て言ったか覚えてる?」
「……え?」
 当時の記憶は今だって鮮明に焼き付いている。ジェイミーの人生と価値観を大きく変えたあの日の三人の姿は、別れ際まで仔細に覚えている。けれど、自分のことはよく思い出せなかった。
 思わず黙りこくるジェイミーに対し、は秘密を教えるような繊細な声色で紡ぐ。
「〝アンタを守れるくらい強くなりてえ〟って……そう言ってくれたの、本当に嬉しかった」
 テーブルに置かれたままのカップの湖面が、波を打つ。
「あちこちが腫れたボロボロの傷だらけの顔で……でも凄く格好良くて、プロポーズされてるみたいだった」
 僅かに上擦った語尾が空気に解けるように溶けていくと、ジェイミーは自分が無意識に呼吸を止めていたことに気が付いた。嬉しさもあったと思う。が昔のことを覚えてくれていたこと。大切に思っていてくれたこと。けれど、いまジェイミーの心に沸き立つ感情に最も近いのは、たぶん、苛立ちだった。
「今でも、そう思ってるよ」
 息を吐くと、勝手に言葉が口を突いて出ていった。
姐は強えから、自分のことなんて自分で守れちまうかも知んねえけど、でも、オレ」
「……うん」
「守らせてやってもいいって、命を預けてもらえるような男になりたいって……ずっと思ってるよ」
 〝プロポーズ〟なんて言われたら尚更、口だけだった頃の弱かった自分には負けられない――それが苛立ちの理由だったけれど。言い終わってから途轍もなく大胆な告白をしてしまった気がして、ジェイミーは羞恥に視線を泳がせた。
「あー、のさぁ」
 項に片手を当てながら、うっすらと赤い頬で呟く。店の空調の音でかき消されてしまいそうなほどか細い声だった。
「今の、ユン哥とヤン哥には内緒ってことで……」
「……ふふっ、いいよ? これも、二人だけの内緒ね?」
 肩を揺らしてが頷く。ジェイミーはむず痒そうにはにかみ、温度の下がった茉莉花茶を勢いよく飲み干した。

 店内に客が増えてきた頃、二人は食事を終えた。ジェイミーは腹を押さえながら「美味かったぁ」と息を吐く。満足感に体が満たされている。
 運ばれてきた点心はどれもジェイミーの好みの味だった。が「ジェイミーと来たかった」と言っていたから、きっと好みに合わせてくれたのだろう。
 ほんっとに、人たらしだよな。他人事みたいな調子でジェイミーは認識を補強する。自然に行われるエスコートにいちいち惚れ直していたらキリがない。まあ、現状で惚れ直す余地もないくらいにずぶずぶにベタ惚れであるのだが。
姐、ご馳走様っした!」
「こちらこそ。ジェイミーは気持ちよく食べてくれるから、奢り甲斐があるよ」
「今度メトロシティ来たときはオレが奢るから。良い店探しとく」
「ほんと? 楽しみにしてる」
 頭の中でが好きそうな店をリストアップしつつ頷く。大衆的な店もいいが、折角なら一人じゃ入れないような高級店でもいいかもしれない。滅多にない次回のデートを思い描くジェイミーの顔は笑顔だ。


 小休憩を挟んでから、二人は会計を済ませると店を出た。
 雑踏の中。隣に並んで歩き、人いきれに負けじと声を張り上げながら世間話を交わす。から聞くユンとヤンの近況報告を、いつもジェイミーは楽しみにしていた。の視点から見る李兄弟は親密で新鮮で、ジェイミーの心を何よりワクワクと躍らせてくれる。ヒーローショーを見る子供のように、それで? それで? と、ついつい先を促していると、ふとの足が止まった。
 気づけば、目の前に龍亀が見える。いつの間にか天紅園の入り口まで戻ってきたようだった。ジェイミーは興奮が嘘のように落胆して脱力する。太陽は既に雲の向こうだ。弟子からの〝依頼〟は既に完了している。帰国の時間が近づいていた。
「もうお別れか……寂しいな」
 がぽつりと零す。ジェイミーは脱力した勢いのまま「ウン」と短く首肯した。垂れた耳としなびた尻尾が見えるような表情だ。心無しか、彼の結われた長髪も力なく垂れ下がっているように見える。
 ――あ~、帰りたくねえなぁ……。
 それは音にならないジェイミーの切実な独り言だったが、はまるで聞こえていたかのように笑って彼を抱きすくめた。「へ?」呆けた声を出して固まるジェイミーを、彼がいつもそうするような挑発的な表情でが見上げる。
「そんな顔されたら……私も、帰したくなくなっちゃうな」
 息が、腕が、胸が。ジェイミーに押し付けられている。心臓が皮膚を突き破る勢いで脈動する。顔が熱い。薬湯を飲んだときみたいに、首の裏に電撃と快感が走っている。「、姐……」そっと彼女の背に腕を回し返して、吐息だけで名前を呼ぶ。キスがしてえ。ジェイミーは本能的にそう思ったが、あと少しの距離が無限に思えるほど遠かった。
 ドクドク、と耳の奥で血の巡る音がする。心を落ち着かせようとジェイミーが息を深く吸い込む。それに合わせて、の抱きしめる力が強くなった。
「ねえ、ジェイミー。滞在を明日まで伸ばせないかな?」
 腕の中にジェイミーを閉じ込めたまま、はその厚い胸板に頬を添わせて言う。
「今日ジェイミーと会うこと、実はユンとヤンにも連絡してたんだけどね」
 心臓の音が聞こえてしまわないか、ジェイミーは余計に頬を紅潮させた。脈拍は一切収まる気配を見せない。だが、その途中で聞こえた名前は聞き逃さなかった。
「大哥たちに?」
「うん。あの二人も明日ならこっちに来られるから、久しぶりにジェイミーに会いたいって」
「オレも」
 それは思考を介していない返事だった。けれど考えたところで同じように言っただろう。
「オレも、二人に、すっげぇ会いたい」
 連絡こそそれなりに取り合うものの、ユンとヤンに実際に会ったのはもう数年以上も前になる。そもそもとだってここまでタイミング良く会えるのはたまたま運がいいだけで、本来は三人共に多忙を極める身だ。そんな人たちがわざわざ「会いたい」と言ってくれるなら、ジェイミーはその何十倍も「会いたい」と思っている自信があった。
 一日空けてしまうことになるメトロシティの警邏は、今日の成果と引き換えに入れ替わりで弟子に頼めばいい。
「明日大哥たちに会えんなら、今日は適当にどっか泊まるよ」
 幸い、今はベストシーズンでもない。それなりに金も持ってきている。一日くらいなら適当な宿泊施設に潜り込めるだろう。そう思ったが故の返事だったが、は不思議そうにジェイミーを見つめた。
「私がこっちで取ってるのツインの部屋だから、一緒に泊まれば良くない?」
 フロントに話を通せば大丈夫だし。続いたの言葉に、いや大丈夫って。全然大丈夫じゃねえだろ。何一つ大丈夫じゃねえよ。そう思いながら、大胆過ぎるお誘いにしっかりときめいてしまう己がジェイミーは憎らしかった。
「あー、えーっと……なんつうか、オレ、邪魔じゃねえ?」
「全然! ジェイミーとまだまだ話したいし! それに、私たちの仲でわざわざ分かれて泊まる理由もないと思うけど……」
 好きな女に抱擁されながらそう言われ、断れる奴が居るのだろうか。居たらここまで連れてきて欲しい。ジェイミーはうぅと飢えた犬のように唸っての肩に顔を埋めた。それは己の火照り切った顔色を隠すためだったが、結果として肺いっぱいに吸い込むことになったの匂いに、ジェイミーの前頭葉は余計に熱を籠らせた。
 咄嗟に体を離して、恭しく頭を下げる。ジェイミーの辮髪が重力に倣って靡き、宙を踊る。
「じゃあ、お言葉に甘えて……姐の部屋に、お世話になります」
「了解。ジェイミーと明日会えることになったって、ユンとヤンにメッセージ送っておくね」
 言うなり、はスマートフォンを取り出した。
 文章を打ち込む真剣な横顔を見ていると、ジェイミーにじわじわと華やかな実感が湧いてくる。大好きな大哥たちにようやく会える喜びと、と二人きりの部屋で過ごす夜への期待。見返りを求めない期待は膨らむばかりだ。がただ側にいるだけで最高潮だというのに、今日は寝顔だって見ることを許されている。恋人にはなれなくとも、今はそれだけで十分だった。
「……あっ、早速ユンから返事が来てる」
 その声とともにが顔を上げる。それから持っていた端末をジェイミーにも見やすいように傾けた。画面上には〝ジェイミーも私の部屋に泊まるから明日会えることになったよ!〟というのメッセージの斜め下に青い帽子の丸アイコンが表示されている。
 〝收到分かった!〟
 〝俺が見てないからって手出すんじゃねぇぞ!〟
 ユンの表情を代弁するかのように、口をへの字に曲げ拳法の構えを取るパンダのスタンプも送られてきていた。
 直情的に見えて戦闘でも読みが鋭く、本質は賢いユンのことだ。きっと浮かれたジェイミーを見透かしてからかっているのは明らかだった。
「……出すわけねぇじゃん」
 ジェイミーが拗ねた口で呟くと「ね! 本当、ユンは私のことどう思ってるんだろ?」が溜息を吐いて同意する。
 どういうわけか自分が言われているのだと勘違いしているに、ジェイミーは虚を突かれた。思わずしげしげとその顔を確認する。どうやらはユンの軽口の標的は自分以外あり得ないと思い込んでいるらしい。ジェイミーは、まあホテルに誘うくらいだし? 相変わらずオレのこと信用しきってんなあと思い笑ってから、いや、と首を振った。ジェイミーを少しも〝そういう〟対象で見ていないなら、自分に言われてると考えるだろうか。
 ……もしかして姐。ちっとはオレのこと〝男〟だって意識してくれてる?
 そう、理解した刹那。ジェイミーの真芯を極彩色の突風が突き抜ける。恋の足音がする。瞼の裏が熱い。舌が縺れる。多分今のジェイミーは、この地球上で一番馬鹿で、愚かで、一途で――無敵に違いなかった。
「ちなみに言っとくと……オレは今、すげぇ可愛いなって思ってましたけど」
 控えめな挙手をするジェイミーを、の大きな虹彩がきょとりと捉える。少し遅れて、ぎこちなく顔を背けた珍しく耳の赤い彼女を、今度はジェイミーから抱きしめた。
20240118