月下。深夜のメトロシティ。
 秋ともなれば頬に向かって吹く風は冷たく心地よい。今日も今日とて自称〝街のトラブルバスター〟であるジェイミーは、馴染みの店主の好意もあり日頃から縄張りとしている彩虹酒樓の屋上から中華街を見下ろして、不届き者が居ないかを監視していた。
 かつての小巷にて尊敬するユン・ヤン兄弟と彼らの幼馴染であるとの出会いをきっかけに趣味と実益を兼ねて始めたトラブルバスターも、今やすっかり板についてきたと自負している。ストリートファイターばかりのメトロシティでは気づけば自分がそのトラブルの中心になってしまっていたこともしばしばあるが、解決してきた問題の方がもうずっと多くなっていた。
 最近は中華街の外にも顔が広がってきたのか、ジェイミーを見ただけでそそくさと退散する輩もいるほどだ。誰に褒められるわけではないが、悪くはない気分だった。
 中学の時分より世話になった師傅の元を離れメトロシティという居場所を見つけてから幾年。ジェイミーはようやく一人前の人間として、地に足を付けたような心地だった。
 そうして自分に自信が出てくれば、自然と思い浮かぶのは大好きな人たちの顔だ。今の己を見たらあの人たちは何と言ってくれるだろう。
 先日ふと思いつきで実行した里帰りにて、しばらくぶりに師傅とは顔を合わせることが出来た。けれど仕事でちょうど郷から離れていた三人には、会うことは叶わなかったのだった。
「ユン哥、ヤン哥、姐……会いてえなあ……」
 こちらから「会いたい」と一言連絡すれば、二つ返事で「いつでも来い」と頷いて時間を取ってくれるような人たちだ。だからこそ、ジェイミーはその一言が伝えられなかった。一度言ってしまったら、きっと何度もその言葉に甘えてしまうような気がして、途端にダサい男になってしまうような気がして、言えなかった。
「大哥たちも、オレに会いてえって思ってくれてっかな……」
 出会ったばかりの頃は彼らが何よりも輝いて見えて、小鴨のように後ろをひっついて回ったっけか――そんな過去を思い返し、ジェイミーはくすりと口角を持ち上げて笑う。やさぐれていたジェイミーにとってつまらなかった日常は、三人と出会って百八十度ひっくり返った。目に映るものすべてが、新鮮で美しくて華やかで、たまらなくなったのだ。
 こんな人たちみたいになりたい、とユンとヤンを見る目。
 それから。この人の隣に立つにふさわしい男になりたい、とを見る目。
 後者はきっと、大哥たちにはお見通しだったのだろう。いつだったか、ユンとヤンがこっそりの誕生日を教えてくれたとき、ジェイミーは彼らのあたたかな眼差しに気が付いた。それを嬉しくも恥ずかしいと思ったのは、あのときのジェイミーがまだ、ガキ丸出しな半人前の男だったからだろう。
 瞼を閉じれば、鮮明に三人の快活な笑顔が蘇る。再び目を開けた時、ジェイミーはポケットからスマートフォンを取り出していた。亀裂の入った液晶画面に表示された時刻は、一般的な社会人であれば寝ている時間を示している。
「あの人ら全員揃って健康そーだし、この時間にゃもう寝てるか?」
 うーん、と頬を掻きながらおもむろにトークアプリを開き、登録してある連絡先のリストを眺める。地元の友人や知人のアイコンをスルーしてスクロールし、ユン、ヤン、の並びで動きを止め、ジェイミーは柄にもなくうろうろと親指を彷徨わせた。
 三人の中で最後にやり取りをしたのはだった。里帰りで顔を出したが会えなかったことを報告した際、仕事が入っていたと教えてくれたのはだったからだ。対して、ユンとヤンの二人からは揃って簡潔な謝罪だけが送られて来ていた。一見素っ気なくも見える対応だが、ジェイミーはそんな短い返事でも届いたときは心から嬉しかった。きっとそれが可愛がっている弟分相手だからこその最大限の気遣いなのだろうということを、きちんと理解していたからだった。
「〝今度来るときはまた連絡してね〟……か」
 のアイコンをタップし過去のやり取りの履歴を見て、ジェイミーは小さく呟く。その声は逢瀬を恋しがる響きを孕んでいた。
「……姐の方こそ、こっちに来るときはオレに一言教えてくれりゃいいのに」
 淡く色づいた薄い唇を尖らせながら、呼気と共にぽつりと零す。
 昼の中華街を統治するもう一人の大姐――春麗と長く交流のあるはふらっとメトロシティにやってくることがあった。
 いつだって、ジェイミーには内緒で。
 本人からか、それともユンやヤンから間接的にか〝ジェイミーがを慕っている〟と知らされている春麗によって、ジェイミーはいつものメトロシティ訪問を事後報告されるのだ。
 双龍と同じく人並み以上に中国拳法を極めたは気配を探ろうにも一筋縄ではいかず、そもそも平日夜半が主な活動時間のジェイミーと朝方のでは基本的な巡りあわせも悪かった。
 そんな中でジェイミーが辛うじて〝待て〟の体勢を維持できていたのは、ひとえに春麗が「は何よりあなたのことを一番に気にしてたわよ」と毎度律儀に教えてくれるからだった。
 とはいえ、それにだって限界は存在する。人伝に聞かされる近況や文字だけのやり取りでは恋しさを晴らすことは不可能であると、ジェイミーは身をもって痛感し始めていた。
 会いたい。
 いっそもう勢いで言ってしまおうか? と、弱い心が耳元で囁いてくる。そのたびに、いや駄目だ、とジェイミーは頭を振るった。に見合う男になるためには、情けないところを見せるわけにはいかない。
 でも――やっぱり本音は、どうしようもなく会いたかった。
「〝姐、今度いつこっちに来る?〟……って、結局、会いてえって言ってるような文章になっちまった」
 誤魔化すことの出来ない気持ちが前面に出てしまうせいで、どれだけ打ち直しても結局同じような意味の文章に仕上がってしまい、ジェイミーは気まずそうに項を掻いて苦笑する。
 だが、それも元を辿ればが悪いのだ。だってそうだろう? がもし会いたいと言ってくれたら。たった一度でも言ってくれたら、ジェイミーはいつだってどこへだって彼女に会いに行くのに。
 いくら流れ星に願っても本人からはそう言ってもらえそうもない事実に対し、いじけるような気持ちの勢いのままジェイミーは送信ボタンをタップしスマートフォンをポケットに仕舞い込んだ。

 夜の中華街は昼間の活気を置き去りに、ネオンだけが変わらずに賑やかだ。
 料理の香辛料や、油、肉汁、果物の青い匂い、すべてが交わって、不思議と心地の良い香りがジェイミーの鼻腔を擽る。ぐう、と腹が鳴って初めて、今日はまだ夕飯を取っていなかったことを思い出した。
 「あー……」と唸りながら腹筋を撫で、さすがに何か食うか、と思案した瞬間、スマートフォンのバイブが振動する。
 空腹に引っ張られつつある思考で、スマートフォンを取り出し操作する。通知を開けば、立ち上がったのはトークアプリだった。
 からの返事が来ている。
 一言だった。
 〝ジェイミーが、わたしに会いたいって思ったとき〟
 その一文を左から右へ目で追って、内容を理解した刹那、ジェイミーは薬湯を飲んだ時のような衝撃に見舞われた。ドクン、と心臓が内側から叩かれる感覚。耳の裏が一気に熱くなって「はあ!?」とジェイミーは大声を上げて目を見開いた。
「んだよ、それ……」
 口から出るのは不満を露わにした独り言だ。
 けれど今、不貞腐れたような声色とは反対に、ジェイミーの口角は持ち上がり、頬はしっかりと緩んでいる。
 ――あぁ、もういいよ。オレの負けで。好きなだけ情けない男と呼んでくれ……。
 心の中で白旗を上げながら、ジェイミーはいよいよ手に持ったままのスマートフォンを操作してに電話をかける。負けを認めた男の行動は潔かった。

 プルルルル、とコール音が耳元で鳴っている。
 思えば、天変地異みたいに、抗えない初恋だった。あの日。後に大哥と大姐と慕うことになる三人に出会った日。ジェイミーは、ユンとヤンに劣らず華麗に舞うの苛烈な戦闘スタイルに見惚れた。彼らにだけ見せる甘い笑顔に見惚れた。目を奪われる、とはこういうことかと理解した。傷ついたジェイミーに差し伸べてくれた手のひらの感触はきっと一生忘れられないだろう。いつか自分も彼女の特別になれたらと焦がれずにはいられなかった。馬鹿みたいな一目惚れだった。
 赤になった信号機の前で足を止めるように、ジェイミーはに吸い込まれていった視線を自ら逸らすことが出来なかった。「オレ、この人のことが好きなんだ」そう自覚したのは「それでも別に困らないな」と思ったからだった。

 プルルルル、とコール音が耳元で鳴っている。
 プツ、とそれが途切れた時、ジェイミーは肩が上下するほど深く息を吸った。
「もしもし? ジェイミー?」
 待ち望んだ第一声は、易々と電話口を突き抜け、一直線に心臓を貫いていった。
 声を聴いては会いたくなると電話も控えていたジェイミーは、久しぶりに聴くの声に感動し、僅かに瞼を震わせた。の声は明瞭としている。寝入りや寝起きというわけでもなさそうだった。
 ならば、どんな気持ちであの返信を打ったのだろう、と、ジェイミーは今更そんなことが気になった。どこか少年染みた悪戯心のあるユンやヤンとは違い、は意味もなくジェイミーをからかったりしない。いっそからかいであった方が、楽だというのに。
 の声を噛み締めたまま、通話が繋がってから一言も発さぬジェイミーの返事を、彼女は静かに待っている。とならば沈黙さえ心地よく思えるから恐ろしかった。
 ジェイミーはもう一度だけ深呼吸をすると、転落防止の柵に寄りかかりながら口を開いた。ギッ、と鉄錆の軋む音が空気に混じって溶けていく。
姐……オレ、今、いま会いてえ……」
 ずっと腹の中に隠してきた言葉だ。なるべく冷静に返そうと努めたつもりが、家族にも師傅にも聞かせたことのないような甘えた声が己の口から聞こえてきたことに、ジェイミーは自分自身で笑ってしまいそうになる。誤魔化す気さえ起きてこないほどには、今まで我慢してきた反動が表れすぎていた。
 電話の先で、が小さく息を吸う音が聞こえる。挨拶もなく告げられたそれが、先ほどのメッセージのやり取りの続きだと察したようだった。驚いただろうか、それとも困っただろうか。これまでの付き合いで悪いようにはならないだろうという信頼があることだけが救いだった。はジェイミーを嫌いになったりしない。でも、だからこそ、には甘えも、情けないところも、見せたくなかった。
 ジェイミーはを大姐と慕っていても、弟になりたいわけじゃなかったからだ。
 一人の男として、意識して欲しかったからだ。
「ふふっ……今?」
 間もなくして、が小さく笑いながら囁いた。柔らかな声が鼓膜を叩く。電話越しだというのに、目を細め口元に手を当てて笑うの顔が見えるようだった。
 ――本物が見てえな。
 そう思って、ジェイミーは間髪入れずに頷いた。
「今」
「……どうしても?」
「どうしても」
 オウム返しで言葉を紡ぐジェイミーに、はまたくすくすと笑う。突然「会いたい」と言われてもひとまずは困惑していない様子に、ジェイミーはほっと胸をなでおろす。現実ではすぐに会えないことは分かっていても、が受け入れてくれただけで嬉しかった。
 屋上から見下ろすように紅虎路の色とりどりの看板をぼんやりと眺めながら、意識を耳に集中させる。
 数秒の沈黙が落とされ、が「あのさ」と切り出すと同時に、カン、カン、と。金属を小突くような音がどこからか聞こえてくる。
「初めて会ったときから思ってたけど、ジェイミーって可愛いよね」
「……大姐、そこはカッコいいって言ってくれよ?」
 カン、カン。
「えー? カッコよくて、可愛いの。自分で気づいてない?」
「色男なのは知ってっけどな」
「あはは、流石だね! 今日はそんな色男のジェイミー様から直々のご指名を頂いちゃったなんて光栄だなー!」
「あのなぁ姐、オレのことはそうやって調子の良いこと言って、適当に乗せりゃあ良いと思ってんだろ」
「駄目?」
「まあ……別に? ダメってわけじゃねえけど……」
「ふふ、駄目じゃないんだ」
 カン、カン、カン。徐々に近づいてくるそれが好好饅頭店脇の梯子を昇る音だと気づき、ジェイミーはほんの少しだけ気が散ってしまう。今は誰にも、二人の時間を邪魔されたくなかった。
「けど、マジな話な。オレを袖にするなんて、姐くらいだぜ?」
「ごめんね。いつも入れ違いばかりで……でも、会いたい、って言って貰えて嬉しかったよ」
 カン、カン。会話の隙間を埋めるように、金属音が鳴り響く。
 の声色に嘘はなかった。だから。純粋な感謝の言葉が、それこそ純粋にジェイミーの鼓膜を真っすぐと揺さぶり、その本音を喉の奥から引き出してしまった。
「……姐は?」
「え?」
姐は、オレに会いたいって、思ってくれてたのかよ」
 いじけた口調になってしまったことに、音にしてから気が付いた。ジェイミーは慌てて口元を手の甲で覆う。けれどもう、すべては電波に乗っての耳に届いた後だった。
「……思ってたよ」
 カン、カン。そっと骨を震わす囁くような声の奥で、絶えず金属音が重なっている。カン、カン、カン。誰かが梯子を昇っている。ジェイミーは耳に当てたスマートフォンを半ば無意識にぎゅっと握りしめる。夜の静謐も、喧騒もとっくに慣れている。今更、都市伝説や幽霊の類を怖がる年頃でもない。恐怖はないのに、どうしてか、何かに縋っていたい気分だった。
 が息を吸う。
「ジェイミーが会いたいって思ってくれてたのと同じくらい、わたしも思ってたよ」
 カン。
 音が止む。それから、コツ、コツ、コツ、と階段を上がる音が数回聞こえて、やがてそれも止まった。
 代わって、ジェイミーの心拍がドクドクと音を立て始める。落ち着いているのに、落ち着かない感覚が体を支配している。
「……んな都合のいいことがあるかよ」
 は、ジェイミーを喜ばせることしか言ってはくれない。嘘ではないと分かる自分が恨めしかった。嘘ではないとするならこれは何だ。背中が熱い。恐ろしい熱源が背後にあるのを感じる。そして勘違いでなければ、ジェイミーはその正体を知っている。
「確かめてみる?」
「どうやって?」
 それは中身のない問いかけだった。既にジェイミーの神経は背中に集まっている。あとは振り返るだけだった。
 けれど、下手に質問を返してしまったせいで、答えを待つジェイミーはその間無防備を晒すことになる。
 一拍の空白。
 息を飲んだジェイミーが体を翻すよりも早く、背後からスマートフォンを持つ手をそっと握られる。びく、と肩を跳ねさせるジェイミーの背は、ぼっと火が灯る錯覚を得るほど急激な高熱を訴えていた。
「電話を切って、後ろを振り返って」
 ツー、ツー、と無機質な機械音を鳴らす電話の向こうから、今まで聞いていた声と同じ声がする。その声に抗えず、手を握られたままジェイミーが振り返ると、そこには待ちわびた想い人の姿があった。
姐……なんで」
 顔を見ただけで、腹の奥が鈍く疼くのが分かる。泣きたいような、叫び出したいような、複雑な感情が激流のように肉体を支配していく。
 目を見開いたまま何も言えぬジェイミーの手を、パッと解放したが花が咲く様に笑って言う。
「わたしも会いたいと思ってた、って言ったでしょ? ……どう? 信じてくれた?」
 月明りに照らされて、瞬くの睫毛が羽ばたく蝶の鱗粉のようにキラキラと輝いている。
 眩しいな、と思いながらジェイミーが目を細めると、もまた同じようにジェイミーを見つめて目を細めてみせた。
 の目に今自分しか映っていないのだと思うと、独り占めしているのだと思うと、気恥ずかしくて直視できないのに、目を逸らすこともできなかった。矛盾した思考に脳髄がジリジリと痺れる感覚がする。五感が全て目の前の人物に集中している。引き寄せられている。
 こんなとき、この人を好きになれたことは人生最大の幸せだとジェイミーは思うのだった。になら、どれだけ自分を奪われても困らない。誰にも跪かず、従わず、矜持を掲げて生きてきたジェイミーにとって、それは言葉にできないほどの幸福だった。
「……あー、ハイハイ。信じた信じた!」
 スリープモードにしたスマートフォンを仕舞って、空いた両手を顔の横に掲げる。降参のポーズを見せるジェイミーの姿が貴重であると、だけが知らないままでいる。
 ジェイミーの返事に満足そうに笑ったは、不貞腐れた顔をする弟分の両手にハイタッチのようにパチンと己の手のひらを合わせると、そのまま指を絡めて握ってみせた。
 想い人からの急な接触により、ジェイミーの健全な肉体が反射的に硬直する。エナジードリンクを摂取したときよりも遥かに強力な興奮にジェイミーが奥歯を噛み締めて堪えれば、月光を帯びたの瞳が、きゅっと弓形に弧を描く。
「ジェイミー、やっぱり可愛い顔してる」
「……アンタにゃ負けるよ」
 有難くない褒め言葉に対し、ジェイミーは減らず口を返して拗ねたフリをする。どさくさに紛れて握り返した手の離し方も、分からないフリをして。
20230806