「んんん~……まだ飲む……」
「もうべろべろじゃん……やめときなよ、さん」
「えぇ~? あはは、酔ってないし……あといっぱいだけ……」
「呂律回ってないくせによく言うよ。ほら、水飲んで」
 空になったグラスを片手にくだを巻くさんの頬と目じりは、深々とした酩酊に赤く染まっている。カクテルで濡れた艶やかな唇が呼吸で薄く開くたび目を逸らしてしまう僕は、ぐだぐだとテーブルに突っ伏すさんの背中を擦りながら苦笑いを作ることしかできずにいる。

 東京にある八神探偵事務所と僕ら横浜九十九課が協力して当たった事件が無事に解決を迎え、今日はその打ち上げをしに神室町の飲み屋で集まっていた。九十九くんは大事な用事があるとかで横浜に残り、八神さんが声をかけた東さんと星野くんはそれぞれ仕事で来られず不在だった。
 いま、僕の目の前には枝豆をつまむだけで絵になる八神さんを筆頭に、その横に居るビールの大ジョッキを男らしく傾ける海藤さんに加え、隣にはテーブルに頬擦りしてるさんが座っていた。
 まあつまりこの場に居るのは僕を除けばあとは八神探偵事務所の人間しかいないんだけど、気まずさが微塵も湧かないのはこの人たちの人柄ゆえか、それとも付き合いの長さゆえか。僕が気づくのが遅れたせいで、一体いつこの人たちに対する遠慮がなくなったのかはすっかり迷宮入りしてしまっていた。
 しかし何回見ても異色のトリオだと思う。元弁護士の八神さんに元ヤクザの海藤さん、それから元刑事のさん。今も〝見るからにヤクザです!〟って感じの海藤さん以外の二人は、あまりその経歴を感じさせない。口を開けば頭の良い人たちだから納得だけど、普段の生活ぶりは割とどちらもズボラだったりする。それは事務所の中を見れば一目瞭然だ。
 でも、さんは元刑事の性か酒に酔うことは少なかった。きっといつでも自分だけは素面で動けるように自制していたのだと思う。それが今やこうして隙だらけのギャップを見せつけてくれるのだから、ムッシュ・リーでの一件以来――敵に拘束されて死にかけた僕を八神さんと一緒に救出してくれたあの日を境に三年ほど彼女に片思いをしている僕からしてみれば、非常に、大変非常に、心臓に悪かった。
「んむ……むにゃ、すぎうら、くん……」
「何? さん」
「んー? ふふ、なんでもなーい……」
 ふにゃふにゃと無防備に笑って僕を見つめるさんは可愛い。それでいて戦闘のときは八神さんたちと同じくらい頼りになるんだからお手上げだった。
「……はあ。八神さんからも何か言ってやってよ」
「まあ、良いんじゃね? 久々に羽目外して飲めて、も楽しいんだろ」
 ビールでごくごくと喉を潤しながら、油断しきった低い声で八神さんが言う。正面から見ていた僕が驚くくらいさんを見る八神さんの目つきは優しさを湛えている。
 こんなとき、僕はちょっと不安になったりする。
 八神さん、もしかしてさんのこと好きなのかな、とか。過去に付き合ったりしてたのかな、とか。
 だって僕はこの二人の馴れ初めを知らない。僕が八神探偵事務所の存在を知ったときにはすでに海藤さんを含めた三人で成立していて、大久保くんの事件が終わった後も、誠稜高校での事件が終わった今も、聞くタイミングなんてなかったからだ。
 聞ける勇気がなかった、ともいえるけど。
「だからって……」
「つうかさ、隣に杉浦が居るから安心して酔っぱらえるんじゃねえ? お前ならが服に吐いても許してくれそうだし」
「はあ? それは八神さんだってそうでしょ」
「俺? いや、全然? が相手なら普通にキレるけど」
 それは暴く気すら起きないほど丸わかりな嘘だったから、いちいち突っ込んだりもしない。一拍ほどの呼吸の間があって、八神さんが手慰みに揺さぶったジョッキに残った氷がカランと音を立てる。
「杉浦はさぁ、に何されても許しちゃうだろ?」
「……あ、アハハ、何それ、そんなわけないじゃん」
 でも、なんとなく。八神さんは僕がさんに想いを寄せてることに気づいてるんじゃないかと思うときもある。今みたいに。
 僕が口をへの字に曲げると、八神さんは目を細めて笑った。いつもは見えない目じりの皺が刻まれる。居酒屋の暗い照明に照らされて涙袋が濃く見えた。しないはずの八神さんの香水の匂いが、鼻腔に触れるような感覚がする。大人の笑みだった。
 ほんと、色気があるっていいよな。あと十年したって僕はこんなふうにはなれない。そう考えたら、三十目前にしていつまでもガキっぽい僕よりも、さんは八神さんみたいな人が好きなのかな、とか思えてきて一人凹んでしまう。凹んだところでいまさら変われるわけでもないのに。
 肩を落とす僕をしり目に、八神さんは呑気におしぼりで手を拭いている。
「はあ、杉浦もよくわかんねーとこで落ち込むよな?」
「別に落ち込んでないし……」
 俯いてぶつぶつ呟くと、頭一つ上の距離から八神さんが笑い混じりの溜息を零した。
「ふうん? なら良いけど。落ち込んでねえならこれでも食え」
 かと思えば、テーブルの向かいから僕の視界に無理やりバニラアイスの乗った皿をねじ込ませてくる長い指。ここで無視して溶けさせるのも勿体ないと仕方なくスプーンを取ってアイスを掬い口に含めれば、甘くてひんやりとしたそれが僕の心を癒してくれた。
 昔から親しんできた大好きな味を感じ反射的に口元が緩んでしまうと、目ざとく気づいた目の前の探偵が指摘する。
「それ、が頼んだやつ」
「え。食べちゃったよ、僕」
「杉浦にって」
「えっ」
「お前が手洗い行ってるときに頼んでた。美味いだろ?」
「……うん。美味しい」
 アイスが好きって子供っぽいかな、なんて一瞬反省した自分が馬鹿みたいに思えるほど嬉しかったので素直に頷く。なぜか八神さんも満足げなのがちょっとだけ気に食わないけど。これはさんの手柄なので。
 さんが注文しておいてくれたアイスを食べきったとき、目元を赤らめた海藤さんが「便所」と言ってのっしりと立ち上がる。それを視線だけで見送った八神さんが「そろそろお開きにすっか」と氷が溶けて薄まった残り少ないビールを呷った。数秒して、水滴だけを残してきれいに飲み干した八神さんがジョッキを置く。動作は丁寧だったけど、グラスが重かったせいで、ドン、と強い音が一度だけ鳴った。
「そういえば」
 八神さんが僕がさっきまで飲んでいた烏龍茶の空ジョッキを見て言う。
「お前、ほとんど酒飲まねえよな」
「今日は車回してるし……そもそも僕は八神さんたちみたいにそこまでお酒も強くないし」
「でも飲み会は絶対来る」
「暇だって言いたいの?」
「いや、来てくれんのはありがたいよ。杉浦が来ると盛り上がるしさ」
「……」
「あ、照れた?」
「照れてない!」
 正直、ちょっと照れた。でも言わない。八神さんがずっとにやにやしているから。
 八神探偵事務所の人間は何でも思ったことを口に出さないと済まない人間しかいないのか、心臓に悪いことも平気で言ってのける。素直で天然なことが採用条件なのかなって一回疑ったことがあるくらいだ。臨時調査員の(と呼んだら怒る)東さんだって素直で天然だし。それとも、八神さんの周りにそういう人が集まるのだろうか。疑問は尽きないけれど。
 僕が黙っていると、八神さんは身を乗り出して声を潜めて続けた。
「それに」
 自然と視線を合わせてしまう。八神さんは瞬きをすると、さんを一瞥して、もう一度僕を見た。
「ここだけの話な。杉浦が来るとが嬉しそうにしてんだ。だから俺がさっき言った推理、あながち外れてるわけじゃねえと思うよ」
「推理って……」
 僕も合わせて声を潜めてしまう。
、杉浦が隣に居ると安心して酔っぱらえるんじゃないかって話、したろ?」
 僕がさんを盗み見ると、八神さんは今の話が無かったみたいにそっと姿勢を戻した。
 酔いがさらに回っていたのか、さんはさっきよりもしっかりテーブルに突っ伏している。髪の毛が口に入りそうになっていることに気づいてどかしてあげると、八神さんが僕の名前を呼んだ。
「杉浦」
 咎められているわけじゃないのにビクッと肩が跳ねてしまうのを誤魔化すように視線を逸らすと、廊下のほうから海藤さんがベルトを締めながら戻ってくるのが見えた。いや、そこはちゃんとトイレで締めてきなよと思いながら、八神さんの呼びかけに意識を戻す。
「なに?」
のこと、お前が送ってけ。住所教えっから」
 それから平然とそう言って、いつの間にか取り出したスマホを数度タップする。それをぼうっと眺めていることしかできずにいれば、僕のスマホが着信で震えた。
「はあ!? ちょっと待ってよ! 僕分かったなんて一言も……」
 八神さんから送られてきたさんの個人情報を見て慌てて身を乗り出したが、そんな僕の勢いを「今日はもう帰んのか?」と海藤さんが遮った。
「海藤さんおかえり。丁度今お開きにしようって話してたとこ。は杉浦が送ってくって」
「そうか、まあ杉浦なら安心だな」
「だよね。俺もそう思ってさ」
「八神さん! 海藤さんも、勝手に話進めないでよ!」
 とんとん拍子で決まっていく予定に異議を唱えれば、元弁護士の八神さんは肩を竦めたあと海藤さんを親指で指して答えた。
「なに、やだった? でも海藤さん多分この後もう一軒行くからさ」
「よくわかってんなあ! まだ少し飲み足りねえし、テンダーにな。ター坊も来るか?」
「うん、俺も行こうかな。まあ、そういうことだから。杉浦にしか任せられないんだよね、のこと」
 海藤さんを指していた親指がさんの方を向く。僕は怒っていた肩を落として、はあ、とため息を吐いた。
「車で来いってそういうこと?」
「それはマジでたまたま。悪いな」
「……いいよ。さんを一人で帰すわけにはいかないし」
「さすが杉浦。話が分かる」
「よっ! 男前!」
 調子の良いことを言う八神さんと海藤さんを呆れた顔で見やる。
 その空気に耐えられなくなったのか、早くテンダーに行きたかったのか、多分後者な海藤さんは伝票を持つとそそくさと会計へと向かっていった。僕が財布を取り出そうとすると、残った八神さんが立ち上がってそれを制する。
「ここは俺らが払うから、杉浦は出さなくていいよ」
「そっか。ごちそうさま、八神さん」
「ん、介抱よろしくな。が車に吐いたら締め出していいから」
「しないよそんなこと」
「まあ……もしそうなったらクリーニング代は直接に請求でよろしく」
 片手をスッと顔の前に立てて八神さんが神妙に言う。それが切実な表情だったので、僕は素直に頷いた。
「んじゃ、お疲れ」
 八神さんがそのまま片手をひらひらと振るって背を向ける。その背中が消えるまで見送って、僕はさんに向き直った。
さん? 起きてる?」
 声をかけると「うう~ん……」と唸り声で返される。僕を見つめる目は開いているが、いつもみたいな覇気はなく、とろんとアルコールで蕩けている。さんは呼びかけにしぱしぱと何度か瞬きをすると、僕を見てへらりと頬を緩めた。
「すぎうらくんだ……」
「そりゃ、ま、僕だけど……」
「やったあ……まだすぎうらくんがいる……」
 ああもう、可愛いな……。
 むずむずとこみ上げる感情をぐっとこらえながら、さんに新しく注いだ水を差しだす。
「はい水。ちょっとでもいいから飲んで」
「ん……」
 上下する喉を見ながら、ゆっくりと背中を擦る。
「僕が今日は家まで送るから、良い?」
「うん……ありがと」
 さんはいつも素直だけど、今日のはいつもの素直さとはちょっと違う。なんというか、こちらが悪いことをしているような気分になる危うさがある。これは早いとこ家まで送り届けて解放されなきゃ心臓に悪すぎる。そう思って、僕は立ち上がった。
さん、帰るよ。会計は八神さんたちが済ませてくれたから」
「……」
さん?」
「立てない……すぎうらくん、起こして……」
「……起こしてって、」
「……ねむい」
「……」
「……」
「はあー……もう、さん、触るよ?」
「んー」
 こちらに伸ばされた両腕を僕の首に回してもらうようにして、腰と膝裏に手を回して横抱きに持ち上げる。
「うわ、軽……この人ちゃんとご飯食べてるのかな……」
 初めて抱き上げた好きな人は、驚くくらい軽かった。僕のパルクールについてきたり、大男を悠々と伸してしまうくらい強いのに、腕の中に居るさんは小さく感じられた。と、いうか、すごく顔が近い。
 その上、密着したさんが懐いた猫みたいに僕の肩口に顔を埋めてくる。彼女の髪の毛が僕の首筋を擽ってこそばゆい。さんが動くたび、いい匂いが風に乗って香ってくる。
 ……これは良くない気がする。
 早く帰ろう。
 僕は心を無にして店を出ると、駐車しておいた車のドアを開け助手席にさんを優しく座らせた。運転席に乗り込めば、夢と現実のはざまに居そうなさんが僕の方を見ていた。
「どうかした? 気持ち悪い?」
「ううん……そうじゃなくて、すぎうらくん、ちからもちだなあって……」
「え? 力持ち? ……そうかなあ?」
 言われた言葉の意外さに首を傾げてしまう。頭に浮かぶのはムキムキのオレンジシャツの人と、なんでも武器にしてしまうライダースジャケットの人。僕は彼らに比べたら非力な方だと自覚している。自転車振り回すとか、無理だし。でも、そうやって首を傾げる僕を、さんは真っすぐ見つめていた。車の窓から差し込む神室町のネオンが、さんの虹彩をキラキラと輝かせている。吸い込まれてしまいそうだ、と思った。
「かっこよかったよ。ありがとね、運んでくれて」
 僕はぎゅっとハンドルを握りしめた。さんから視線を外して、呼吸を落ち着ける。
「どういたしまして」
 顔は見られない。それだけ返すのでやっとだった。
 気持ちを切り替えるために、八神さんから送られてきた住所をカーナビに入力して、さんのシートベルトを確認してからアクセルを踏む。先ほどまでさんを彩っていたネオンが、カラフルな線を描いて通り過ぎていく。
 しばらくすると、移り行く景色をぼんやりと眺めていたさんが前をぽつりと口を開いた。
「そういえば……助手席に座るの、はじめてかも」
「そうだったっけ?」
「うん。いつも、八神くんが座ってるから」
「あー……確かに、言われてみれば」
「助手席から見える景色って、こんな感じなんだねえ……」
 真っすぐ前を見る僕の横顔に声がかかるのが分かった。信号が青だから、さんの方を見ない言い訳にちょうどよかった。
「こんな感じ?」
「キラキラした神室町と、すぎうらくん。どっちもすてきだね」
 顔を見ないせいで、口調や、声色が、逆に鮮明に耳にこびりついた。
 抑えきれなかった笑いが含まれた上がり調子の語尾とどこか浮ついてふやけた響きに、やっぱり見ておけばよかったな、と横目で盗み見ても、さんはもう前を向いていて少しだけ寂しい気持ちになるだけだったけれど。
 それから特に会話もなく、けれども沈黙も心地よかった二人きりのドライブは、カーナビが目的地を告げる声で終了した。
 マンションの前で車をとめて、助手席のドアを開ける。
「立てる?」
「……うん」
「肩、貸すよ」
 さんを支えてドアを閉める。僕が抱えたほうが早かったけれど無理強いするつもりもない。よたよたと覚束ない歩みのさんを補助しながら、ゆっくりとエントランスまで歩みを進める。
 オートロックの番号を見ないように後ろを向いて、ドアが開くのを待つ。お酒に酔ったさんでも日常に染み付いた番号は無意識に入力できるらしい。部屋番号は知ってしまっているので、難なく開いたドアを通り、肩を貸してエレベーターを乗り、そのまま部屋の前まで送って行った。
「鍵はある?」
「えーっとね……っと、あった!」
「ん。じゃあ、僕はここで」
 バッグから大げさに鍵を取り出して見せたさんに、可愛いなあと思いながら笑い返して片手を上げる。ひとまず、無事にさんを家まで届けられてよかった。結局のところ、八神さんは気を利かせたのか面倒を押し付けたのか微妙なところだけど、僕としては役得だったなと思い返す。本当は、こういうとき自分から「送るよ」って言えたら一番いいんだろうけれど、経験の浅い僕にはまだ難しい。
 僕に鍵を見せびらかしたさんは、手に力が入らないのか中々挿せない鍵に苦戦しながらも格闘の末ドアを開けることに成功したようだった。扉が開いた瞬間、さんがドヤ顔でこちらを振り返るのが面白くて、つい笑ってしまう。
 普段は大人っぽくてかっこいい人なのに、どうでもいいことでムキになったり無邪気に笑ったりする。そんな人が危険を冒して僕を命がけで助けに来て、身を挺して守ってくれた。気にしないでって、生きてて嬉しいって言ってくれた。創薬センターで僕が撃たれたときだって、生野に複雑な感情を持つ僕を察して、さんはモグラを追うのを止めてまで応急処置に残ってくれた。僕は何度も彼女に生かされている。励まされている。いきなり深く人生に食い込まれて、こんなの、好きにならない方が無理だと思う。
さん、おやすみ」
 僕が手を下ろして立ち去ろうとしたとき、さんがこちらへ一歩進んで距離を縮めた。人一人分ほどあった空間がなくなって、広く感じられた玄関前が途端に狭く思えてくる。
「すぎうらくん」
 まだ、どこかあどけない口調だった。さんの熱い手が、僕の腕を掴む。下方へ込められる力に従ってわずかに身をかがめると、さんの唇が僕の耳へ近づいた。
「わたし、杉浦くんのことが好き」
「え?」
 ちゅ、と頬に触れる感触。僕がそれを理解するより先に、ぱっと手を離したさんが笑った。
「おやすみ、またね」
 ガチャン、とドアの閉まる音。続いて、カチャリと鍵が閉まる音。
 あ、さん酔っててもちゃんと防犯出来てるの偉いなあ、と思いながら、僕は呆然と頬に手を当てた。
「……えっ?」
 今、キスされたよな? てか、え? 好きって、え?
 じわじわとつま先からつむじまで熱が上がっていく。脊髄がじくじくと疼いている。僕は叫び出したくなる衝動を堪えるように、マンションの手すりに両手をかけ、飛んだ。バルコニーの柵や出っ張りを乗り継いで、駆ける。風を切って、走る。それでも熱は収まらず、家に帰っても全身は火を噴くように熱かった。

「ど、どーも……こんにちは……」
 次の日。僕は八神探偵事務所に来ていた。打ち上げしたばかりの事件に関する経費の書類を届けにやってきたのだった。
 海藤さんは不在だったが、八神さんとさんは事務所で別の書類と睨めっこしながら仲良くコーヒーを飲んでいた。
 扉を開け、僕が声をかけると二人の顔が一斉にこちらを向く。
「おう、杉浦。おはよ」
「おはよう。杉浦くん、昨日はごめんね? 家まで送ってもらっちゃって」
「あ、うん……」
 あれ? 一人気恥ずかしくなる僕をよそに、ぺこりと頭を下げて謝ってくるさんはいつも通りだ。となると当然、僕は思う。あ、これ記憶ないな。覚えてないんだな、って。少し残念だけど、これでよかったような気もする。意を決して八神探偵事務所のドアを開けたはいいけど、どんな顔でさんを見たらいいのか分からなかったし、キスされたとはいえ頬っぺただし、泥酔してた酔っ払いの言葉を真剣に考えたら僕の身が持たなそうだったし。
「あれから連絡なかったけど、お前の車に吐かなかった?」
「ああ、うん。それは大丈夫」
「だから言ったじゃん吐いてないって!」
「や、嘘つくかもしんねえじゃん。元刑事だから証拠隠滅とか上手いだろ? お前」
「八神くんわたしにそんな偏見持ってたの!?」
 楽しそうに笑う二人を見て、僕も知らずに入っていた肩の力を抜くと、空いていたさんの隣に腰を下ろした。ソファーの革がきゅっと軋む。と同時に、さんがビクッと驚いたように身じろいだ。
さん?」
「あのさ! わたしお昼ごはん買い出しに行ってくるね。杉浦くんも食べるでしょ?」
「あ、うん……いいの?」
 問いかけたつもりが、食い気味に言葉を遮られ勢いで頷いてしまう。こちらを見ているのに、不思議と目は合わなかった。
「良いよ! わざわざこっちまで来てもらってるし、八神くんはいつものでいい?」
「おー。あと海藤さんもうすぐ帰ってくるみたいだから海藤さんのも頼む」
「了解。杉浦くんはわたしと一緒のでいい? 他にも色々あるから違うのがよかったら言ってね」
 そう言ってスマホのアプリから見せてくれたメニューを見て、もう一度頷いた。画面を注視するさんとは、やっぱり目が合わない。
「いいよ。さんと同じやつが良い」
「じゃ、じゃあ買いに行ってくるね。八神くん、留守番宜しく!」
「はいはい、行ってらっしゃい」
 バタバタと慌ただしく出ていったさんに、八神さんが手を振るう。それをぼうっと見ていると、八神さんが書類から顔を上げて僕を見た。
「昨日もしかしてなんかあった? と杉浦」
「え?」
「お前は割といつも通りだけどさ。がやたら杉浦の方見ねえから、なんとなく」
 そう言う八神さんは探偵の顔をしている。なんとなく、なんて言ってるけど確信を持っている顔つきだった。
「別に何も」
 僕は咄嗟にはぐらかした。嘘を吐いているわけじゃない。だってさんが忘れているなら、本当に何もなかったことになるのだから。
 八神さんは数秒じっと僕の顔を見ていたが、僕が何も証言しないと分かると空気を和らげた。
「ふうん、そっか。まあいいけど。別に無理やり聞きたいってわけでもないし」
 そう言いながらも、ぺしぺし、と手に持っていた書類を人差し指で叩きながら八神さんが続ける。
「でも、んー、そうだな……疑ったお詫びに、一つ良いことを教えてやるよ」
 紙を叩く音が止まると、八神さんの口元が愉快げに弧を描く。その顔を見ていたら、言われるのがろくな事じゃないことは僕にでも分かった。胡乱な目で見つめてみても、まるで効いている素振りすら見せない。
「それ、絶対聞かなきゃ駄目?」
「別に? ただ、聞いといた方がいいと思うよ?」
 僕がそういわれると気になってしまうタイプの人間だと分かっていて、この人は言っている。弁護士にも探偵にも年季が入ってるだけあって、舌戦では僕より数枚上手だ。
 僕はわざとらしく大きなため息を吐くと、降参のポーズを作って八神さんを見た。
「良いことって?」
 先を促せば、八神さんは書類をテーブルに置いて演技染みた動作でドアの方を指さした。
ってさ、」
 それから、自身のこめかみをトントンと二度叩いてみせる。
「どんだけ深酒して泥酔しても、酔ってた時のこと、次の日もしっかり覚えてるんだよね」
 僕が目を丸くすると、八神さんは目を細めてにやりと笑う。
 その瞬間。昨夜に起きた事件の記憶が一気に脳みそに蘇る。きっと僕の顔が面白いくらい分かりやすく紅潮していっているのだろう。「おっ」と嬉しそうに笑みを深める八神さんが憎たらしかった。
 ぎろ、とねめつける僕に、八神さんはくつくつと喉を鳴らしてほほ笑む。
「お前の脚ならまだ間に合うんじゃない? 買い出し、一緒に行って来たら?」
 自分の推理が当たっていたことが嬉しかったのか、その声はいつになく優しい。でも、今の僕には燃料にしかならなかった。
「八神さんに言われなくても行くつもりだったよ!」
 乱暴に立ち上がってドアを開けると、丁度外側から開けようとしていた海藤さんとかち合った。勢いよく正面からぶつかりそうになったのを体を捻って避け、そのまま踊り場の窓を使い一階へ降り立つ。
「なんだ? 杉浦のやつ、なんであんな急いでんだ?」
「さあ。大事な忘れ物でもあったんじゃない?」
 飛び立つ寸前、閉まりかけた八神探偵事務所の中から聞こえた二人の話し声。文句の一つでも言いたかったけれど、自分の心臓の鼓動がうるさくてそれどころじゃなかった。
 景色を置き去りにして、最短距離で彼女の元へ急ぐ。
 さん、覚えてたのに、忘れていたふりしてたんだ。これって、僕の都合のいいように受け取ってもいいのかな。
 好きって言葉も、頬へのキスも。
 ……あー、やば、なんか、涙出そうになってきた。息が苦しい。でも、苦しくなればなるほど、なんでだろ、すごく嬉しい。
 全速力で走れば見えてくる背中。
 僕は速度を落としながら、何と声をかけるか考えて、けれど回らない頭では何も思いつかないまま、恋に茹で上がった間抜けな赤い顔でその肩を叩くのだった。
20230607