神奈川伊勢佐木異人町にある、横浜九十九課の事務所内。
 所長である九十九くんが、先輩探偵兼友人である八神さんからの所用で呼び出されて不在なため、現在わたしは調査員仲間の杉浦くんと二人きりで調査資料をまとめていた。
 ノートパソコンでデータを打ち込む私の傍ら、向かいのソファーに座り、スマホで依頼人とのやり取りを確認する杉浦くんは、改めて思うまでもないほどに世間一般の〝探偵〟のイメージからは離れたような、目を引く見た目をしている。
 金に近い明るい頭髪も似合う若い顔立ち。顎が細くて、睫毛が長くて、唇は健康的に色づいている。
(うーん 今日も目の保養になるなぁ……)
 年齢の変わらない同僚に対して抱く感想としては間違っているのかもしれないけれど、そう思ってしまうのだから仕方がない。
 一見、これだけ顔が整っていれば探偵の必須スキル筆頭である尾行は不向きなものだと考えてしまいそうだけれど、杉浦くんは運動神経が抜群で隠密行動も得意だ。人の目につかないような場所にもすいすい入り込んで音もなく動き回れてしまうのだから、後を付けられる方からすればたまったものではないだろう。
 九十九課を作る前、本人から冗談交じりに「昔は引きこもりで体力も無くてさ。階段上がるだけで息切らしてたくらい」なんて言われたけれど――そんな過去が想像できないほどに今の杉浦くんはあちこちを軽快に走り回っている。
 九十九くんの頭脳や手先の器用さとタメを張れるくらい、杉浦くんの身体能力も一級品なのだ。そんな万能人間な二人が時折、わたしをどうしようもなく頼ってくれるというのだからこれほど嬉しいものはなかった。
 ネットカフェで知り合い共通の話題を通して仲良くなった九十九くんから杉浦くんを紹介されて、三人で妙に意気投合して一緒に立ち上げることになった探偵事務所。根っこが似ている人間が集まったからかなんだかんだで上手くやれていると思う。
 八神さんにも「お前ら三人ってバランスいいよな。うちも東を雇って三人体制にしよっかな」なんて言ってもらえたし。
(ほんと〝頼られて悪い気はしない〟って、自分で言うのも恥ずかしいけど……良い関係だよね)
 そんなことを思い勝手に嬉しくなりながらまじまじと彼の姿を見つめていると、金髪の頭頂部が傾く気配があったので慌てて視線をパソコンに戻す。きっとぎこちなかっただろうし、挙動不審になりかけていたと思うけど、奇跡的に杉浦くんは気付かなかったらしい。
さん」
 その証拠に、何の戸惑いもない様子で名前を呼ばれたので自然な動作で顔を上げる。見上げた先にいた杉浦くんは、いつも通り微笑みを湛えた柔和な表情をしていた。
 正面から見ても、イケメンはやっぱりイケメンだ。これで声まで良いんだから、モテないはずはないんだけど。
(九十九くんは横浜に来ても以前からお付き合いしてる彼女とデートしてるみたいだけど、杉浦くんはどうなんだろう? そう言えば聞いたことなかったな)
「今、メールでそっちに写真データ送ったよ。他に僕がやれることってある?」
「ありがと。ちょっと待ってね……これで、よし、と……それじゃあ、今終わった浮気調査の報告書、確認してもらってもいい?」
「オーケー。不備がなかったらUSBに移しちゃっていいんだよね?」
「うん。九十九くんお手製のやつに入れといて」
 向き合っていたノートパソコンを反転させて杉浦くんに差し出すと真剣な顔でモニターを見つめ始めたので、確認してもらっている間に、先週新規で請け負った依頼の書類作成に取り掛かる。
 とは言っても、既にデータ化してある依頼書の要項部分だけを抜きだした複製ファイルを印刷し、掲示板に貼りつけておくだけの簡単なお仕事だ。データ上で個人情報部分をマスキングして印刷ボタンを押してやれば、事務所に置いてある小型プリンタが小さな音を立てて印刷を開始する。
 やがて〝ピー〟という機械音が鳴ると同時に、杉浦くんがモニターから顔を離してへにゃりと笑った。
「……うん、流石さん。問題なかったよ」
「良かった。こっちも丁度印刷終わったから、掲示しちゃうね」
「はーい」
 仕事から解放された喜びの隠しきれない元気の良い返事に笑顔で返し、変装衣装の掛けられたハンガーラックの側面にある掲示板に、早速出来上がった書類を貼ろうと立ちあがる。
 その動作に、何もおかしいことはなかった。はず。
 だけど。
 杉浦くんの横を通り過ぎようとした、その瞬間。
「そういえば、さんってさ、」
「え?」
 向かいのソファに座っていた杉浦くんが、思い出したようにそう呟いた。書類を持ったまま思わず立ち止まるわたしに、杉浦くんはこちらを見て僅かに首を傾げて続ける。
「どこの香水使ってるの? 前から聞きたかったんだ」
 言いながら、おもむろに立ちあがって距離を詰められる。
 詰められたのはたった一歩分の間隔。けれど、首を伸ばし顔を近づけられた今、わたしたちの間に隙間なんてほとんどなかった。
 キラキラとした虹彩にわたしの顔が映っているのが分かる。
 杉浦くんのけぶる睫毛が、瞬きの度に根元からさわさわと揺れている。
(ち、近い……!)
 突然のことに、羞恥と戸惑いがいっぺんに襲い掛かってくる。
 先ほど杉浦くんのことを考えていたせいか、より一層心臓がどきどきして落ち着かない。でも、杉浦くんは全然気づかない様子でわたしの首筋に更に顔を近づけてくる。
「いつもいい匂いしてるよね。柔軟剤、とはちょっと違う感じの」
 そう続けて、直後。
 すん、と空気を吸うような音が耳元に聞こえてきて反射的に身を引くと、音の犯人である杉浦くんは「あ、ごめん!」と両手を顔の横に上げて一歩後ろにさがってみせた。
 血液の巡りが速い。破裂しそうなくらい鼓動が弾んだ音を立てている。
 杉浦くんがまだ近くにいるみたいだ。項がかぁっと熱を帯びて、耳の裏にゾクゾクとした電撃が走る。
(いい匂いって、そんな風に思われてたんだ……)
 これまでの付き合いで、杉浦くんがどんな人かはそれなりに理解しているつもりだ。だから、この問いかけが彼の純粋な好意と興味によるものだと分かっている。
 それでも、嬉しいより、恥ずかしいが遥かに勝る。
 ――だって、香水なんて。
「えっと、その……本当変な意味じゃなくて、さんの匂い好きだなって……ずっと気になってて」
 追い打ちをかけてくる杉浦くんの言葉を、首を横に振るって遮った。
「……ない……」
「え?」
「つけて……ない、です……香水……」
 顔を真っ赤にして答えるわたしの目の前で、ボンッ、と音が鳴るほど一気に頬を紅潮させた杉浦くんがびっくりするほど小声で呟く。
「気持ち悪いこと言ってごめん……僕、変態みたいだよね……」
「そんなことないよ! 驚いたけど、その、嬉しかったし……」
 恐ろしく覇気のない物言いに慌てて否定すれば、わたしよりうんと背の高い杉浦くんが、上目遣いでこちらを見やる。
 期待と不安が混ざったような表情は、直球に彼の心の中を伝えてくれる。少し前までは仮面を付けて身分を隠して生活していた杉浦くんだけど、本来の彼は真っ直ぐで感情が表に出やすいタイプであると、彼自身の態度で教えてもらえるほどわたしたちは親交を深めてきた。
「本当に? 無理してない?」
「してないしてない」
「はー……良かったぁ。さんに嫌われたらどうしようって、本気で凹んだよ……」
 だから彼も同様に、わたしの言葉が嘘じゃないとすぐに分かる。
 がくり、と肩を落とした杉浦くんの背中をぽんと叩いて「嫌いになるわけないじゃん!」と笑えば、「いてっ」とわざとらしく言いながら叩かれた場所に手を当てた杉浦くんが大きな目を細めて破顔した。
「僕、さんのそういうところ、凄く好き」
20190224