「あんまり夜遅くに出歩いちゃだめだよ? ただでさえちゃんはどんくさいんだから……って、ねえ。聞いてる?」
「聞いてる聞いてる」
「ほんとかなぁ? いつでも僕が助けに行けるわけじゃないんだから、マジで気をつけてよ? ここ最近は特に物騒だし……心配なんだよ」
「……うん。分かってるから」
「なら……いいけどさ」

 文也くんは過保護だ。
 それも超が付くほどの。本人はそう思っていないみたいだけれど、毎日暇を見つけては無事を確認するメッセージを送ってきたり電話で声を聞きたがったりする時点で真っ黒だ。
 知り合って間もない頃からすでに過保護の片鱗はあったが、恋人同士になってからそれはより酷くなった。
 とはいえ――それが嫌だとか面倒だとか、決してそういうふうに思っているわけじゃない。心配されたり気にかけてもらえることは嬉しい。私だって文也くんがもし危ない目に遭ったらどうしようと考えないわけでもないのだ。
 ただ、いかんせん、その頻度が高すぎる。
 私は子供ではないし、夜もなるべく人気のない道は避けて歩いているし、文也くんが目の敵にしている路地裏なんて絶対に通らない。それに、頼れる恋人の文也くんにいつでも連絡できるようにスマートフォンも常に鞄の取りだしやすい場所に携帯している。
 ご覧のように防犯対策は完璧な上、そもそも一人で夜道を歩くこと自体まれなのだ。神室町がいくら危険を孕むところだったとして私にそれが及ぶことはまず無いと言えた。
 なんなら断言したっていい――そう思っていた、のだけど。


 △ ▽ △


「……う、ぅ……?」
 目を覚ましたとき、一番に知覚したのはずきずきと痛む頭だった。
 知らぬ間に寝てしまっていたのかと思ったがそれにしては後頭部のあたりが熱い。ぼうっとした思考で患部を触って確かめようとして、ここでやっと、どうしてか腕が動かないことに気が付いた。
 動かないことが分かると、今度は視線を自分の体に向けてみた。
 床に擲たれた両足にはロープがぎゅうぎゅうに巻きつけられている。服の上から巻かれているお陰で痛みはないが足は開けないほどの結びの固さだ。徐々に視線を上げてみれば、腰の前で交差するように組まれている両腕が視界に映る。当然その手首はガムテープで頑丈に縛られていた。指先は動くが力を入れることはできそうにない。
 背筋が凍る。

 ――拉致? まさか。
 そう思っても周りの景色が思考を後押しする。

 見覚えのない廃ビルの一室。明かりはなく、ガラスのない窓から差しこむ月の光だけが室内を照らしている。
 その光の眩しさにスマートフォンの存在を思い出し、気絶するまで持っていたはずの鞄を探すが、目につく場所には見当たらない。
 幸いにも部屋の外にも中にも人の気配は感じられなかったが――自分の感覚が鈍っているだけかもしれない。
 思わず不安になるくらい静かで、饐えた埃の匂いのする場所だった。
(……寒い)
 遮蔽物がないせいで窓から入りこむ風を体に浴びてしまう。
 身をよじって移動しようにも、汚れた床は滑りにくくなかなか思うように動けない。無駄に体力を消費しても意味がないと間もなくして移動を諦めると、身を丸めて必死に寒さをしのぐ。
 この瞬間も不安で不安でどうしようもなくて、体が震えるのが寒さのせいか恐怖のせいかもわからなくなってくる。
(文也くん……)
 それでも、こんなときに思い浮かべるのは、やっぱり文也くんの顔だった。
 ちゃんと気をつけていたとしても、いざ意識の外から降りかかればどうすることもできなかった。
 なんて情けないんだろう。文也くんはきっとこれが分かっていたから、あんなにも心配してくれていたのだ。
 罪悪感と心細さに鼻をすすり、腕に顔を埋めて目を閉じる。
 けれど、私は駄目な人間だから、こんな状況でも文也くんの顔を思い出したらどうしようもなく安心してしまう。お陰で少しだけ緊張が解けてしまって、気を緩ませたら泣いてしまいそうだった。
 ただ――それも一瞬のことだった。
 次の瞬間。
 キィッ……と、扉が開いたことを知らせる微かな摩擦音が鼓膜を掠めた。
 突然の物音に、びくん、と大げさに肩を揺らしてそちらに視線を向ける。

 そこには――見るからに悪そうな男たちが三人、私を見下ろす形で立っていた。
 短髪の男と、巨漢の男、それから眼鏡の男。
 ……誰なのかと問うまでもない。
 私をここに連れてきたやつらだと、その下品な視線だけで理解した。

「……目覚めたか」
「…………!」
「ッハ! ビビって声も出ねえか。いいねえ!」
「今日はその顔が蕩けるくらいたっぷり可愛がってあげるからね」

 ギャハハハと重なる笑い声に顔を顰めると、私のその態度が愉快だったのか、男たちの笑い声はもっと大きくなった。
 口答えしたい気持ちを堪えて睨み続ける。奴らがどれだけ気持ち悪くて目を逸らしたくても、何をされるか分からぬ今は一瞬も逸らすわけにはいかない。
 すると私の視線に応えるみたいに、短髪の男がこちらに近づいてくる。ニタニタと笑うその男の手には、私の鞄があった。
 数歩分の距離を空けて前進を止めた男は、地面に鞄を落とすと緩慢にしゃがみ、がさがさと乱暴に鞄の中を漁り始める。
 間もなくして、男は私の目の前に〝それ〟を晒した。

「……助け、呼びてえか? なあ?」

 私のスマートフォン。
 電源は当然切られていて、画面は真っ暗だった。それをこれみよがしにふるふると顔の前で揺らされる。
 幸いだったのは〝助け〟――という言葉に反応しかけた自分の顔が暗くそこに映りこんでいたお陰で、素直に頷きそうになるのを寸でのところで留まることができたことだ。
 心の中で一人首を振るう。
 こんな風に人を連れ去る男たちが果たして言うことを聞くだろうか? 否――そんなはずがない。
 案の定、短髪の男は私の返事など待った素振りすら見せなかった。スマートフォンを手の内で転がして仲間に振り返る。

「どうする? お前ら」
「適当に男の連絡先に電話でもしてみたら面白いんじゃねえか?」
 巨漢の男が言った。
 そうしてズンズンと床を振動させながらこちらへ歩み寄る。
 少し遅れて眼鏡の男も後に続いた。 
「来るか分からない助けを求める姿……少し見てみたいけど、リスクが高いかもよ」
 レンズの奥の細い目に見下ろされ、視線がかち合う。決してこちらから目は逸らさない。その方がきっと彼らは油断してくれると直観的に思ったからだ。せめて電源さえ入れてくれればどうにかなるかもしれない。
「それもそうだな……」
 仲間の意見を聞き終え、短髪の男がまた私に向き直る。
 相変わらず真っ暗な画面を見せながら私の反応を確認すると、馬鹿にするように鼻で笑った。

「ハハ、不安で仕方ねえって顔。おい、お前……どいつに電話したい?」

(……なんと言えばいい? なんと答えたら……)
 動転していてまるで思考が回らない。三人に囲まれたことによって緊張が増し、縛られた体が急速に温度を失くしていく。
 関節のあちこちが痛くて、悲鳴を上げている。
 頭が真っ白でうまく口が動かない。唇を閉じたり開いたり、何かを言いかける素振りをしたくもないのに何度も繰り返してしまう。
 それは考えがあってやったものではなく、追い詰められたが故の反射的な行動だったが――男にはそう映らなかったようだ。

「時間稼ぎなら無駄だぜ……チッ、やっぱり適当にかけるか」

 僅かに興が削がれた顔を浮かべた男が視線を手元に向け、スマートフォンのボタンに触れる。
 心の準備をする間もなく唐突に訪れたそれは、私にとって今日一番の緊張の瞬間だった。
 呼吸を止めて、様子を窺う。
 時間にして数秒だろうか。
 ほどなくして、男の顔が淡い光に照らされた。
 ――電源が入った。
 絶望の中に見えた希望の光に、無意識にほんの少しだけ体の力を緩めてしまう。
 それを、眼鏡の男が見ているとも知らずに。
「……痛っ……! うぅ……」
 そんな私の目を覚まさせるみたいに、誰かが私の足を蹴飛ばした。
 強い力ではなかったが鋭い痛みを伴うそれに呻きを零すと、頭上から犯人である眼鏡の男の冷めた声が聞こえた。
「何ほっとしてんの? あーあ、萎えちゃった……なあ、やっぱ電話するのやめようぜ。気分じゃなくなった」
「あ? えっ? なんだよ。じゃあまた電源切っとくか?」
 ホーム画面の立ちあがりを待っていた短髪の男は、眼鏡の男の心変わりを咎めることなく笑い返すと「残念だったなぁ」と目を細めて囁く。
 男の指が再び電源に伸びた――その刹那。

 ピロン、という短い着信音が室内に響いた。
 聞き覚えのない音に男たちが顔を見合わせる。
 だが発信源を調べるまでもない。それは男の手元――つまり私のスマートフォンから聞こえていた。
 私にはそれが、電源が落とされていた間に受信したメッセージが時間差で届いた音だとすぐに分かった。
 けれども今の私に出来る行動は限られている。例え送り主が気になっても、決してその思考を口にしてはならない。
 ピロン、ピロン、と立て続けに数度鳴った音が止むと、短髪の男が徐に指を動かし始める。
 そうして黙りこんでいたかと思えば、口を開いた。

「……〝ちゃん〟」

 ぞくり――と背筋が震えた。
 自分が今、どんな顔で男を見ているのかわらかない。
 だがきっと彼らにとってはこれ以上にない表情だったに違いない。男は満足気ににやりと口角だけで笑って私を見返した。

「なんだ。アンタ、オトコ居たんだ?」
 短髪の男が舌なめずりをしてそう続けると、後の二人も同じ表情を貼りつけて私を見やった。

 ――文也くん。
 誰からのメッセージなのか察すれば、文面がはっきりと目に浮かぶようだった。連絡をくれてからどれほど時間が経ったかもわからない。既読すらつかないメッセージがどれほど文也くんを心配させただろう。
 男たちはにやにやと笑うばかりで画面を見せてはくれなかった。
 そうして先ほどの宣言通り、無情にも電源の落とされたスマートフォンは鞄の中に乱雑に戻され、鞄ごと手の届かない位置まで離される。

「それじゃあ……お楽しみの時間と行こうか」
 眼鏡の男が、私の足を拘束していたロープを外す。逃げるチャンスかもしれないと思えたのは一瞬だった。
 長時間無理な体勢を取らされていたせいで、解放されたというのに自分の足がまるで別人のもののように錯覚するほど思い通りに動かない。
 腕も同様だった。ガムテープを切られても力が入らず、今度は近くにあった椅子の足を潜る形で頭の上で手錠を通される。
 体の下は直に地面があり、何をせずとも背中から全身の温度が奪われていく。抵抗しなくてはならないと頭の中では思うのに、身体はどうしても動いてはくれなかった。
 涙だけは絶対に見せてやるものか――とこの状況でもそう思えたのは、例え何の手がかりが無くとも、もしかしたら文也くんなら私を助けに来てくれるかもしれない、という希望をまだ捨てていなかったからだ。
 目を閉じて、深く呼吸をして、開く。
 心は屈していないのに体力はもうほとんどない。だから、そうして男たちを見上げる私のそれが虚勢であることなんて、彼らには御見通しだということも分かっていた。
 歯を食いしばって、口を結ぶ。
「そうやって無理して頑張ってても無駄だって」
「俺ら逃がしてやるとか考えてねえから」
「…………」
「まーた無言かよ。まあ、触りゃ流石に喋んだろ」
「俺は無口なのも好きだけどねぇ」
「そんな悠長なこと言ってられねえだろ」
 言うなり、巨漢の男が私の上着に手を伸ばした。手錠をしたせいで脱げなくなったそれを力任せに引きちぎられる。
 ぶちぶちぶちっという縫い目の裂ける耳障りな音と男から漂う強烈な圧力に、悲鳴が出なかったのは奥歯を噛んでいたからだった。
 ボタンがはじけ飛んで壁にぶつかる音がする。布となったそれがゴミのように床に捨てられる。
 体が震えて止まらない。
 それが寒さからくるものか、恐怖からくるものかも判断できなくなるほどに頭の中がぐちゃぐちゃに荒されていく感覚。

「おい、ビビっちゃってんじゃん。もっと優しくやれよ、なあ?」
 短髪の男が巨漢の男を片手で制して私の前から退かして言う。
 ただその顔は言葉とは反対に誰よりも歪んでいて――男が何をしようとしているのか想像もつかない私は、男がこちらに顔を近づけるのを見ていることしか出来ない。
 生暖かい息が顔に当たるほど、距離を詰められる。
 目を離してはいけないと分かっていても、こうなってしまえば拒絶する以外に選択肢はなかった。
 勢いよく男から顔を背けて、次の行動に備えて体を強張らせる。
 男の不機嫌な気配が頬に浴びせられた。背けた顔の前に、ドン、と強く握られた拳が落とされる。
 そして――〝それ〟はほぼ同時に室内に轟いた。

 バァンッ! と、鼓膜を乱暴に突き刺す、激しい地鳴りのような音が、もう一つ。
 その音が、扉が蹴破られたことによるものだと気付けたのは、この場に居る男たちの様子が一変したからだ。

「……おい! 誰だてめぇ!?」
 巨漢の男の怒号。
 少し遅れて、私も背けていた顔を扉の方に戻した。

「それはこっちの台詞。それに名乗る必要もないよね。こっちはさ、アンタたちみたいなののせいで凄い迷惑してんだよ」

 そこには、道化師の仮面をつけた男が立っていた。

 仮面の男の一声を耳にした途端、あれほど我慢していた涙が目じりを流れる。
 聞きなれた声がもたらした〝もう大丈夫なのだ〟という安心と〝助けに来てくれた〟という喜びが、いとも簡単に私の虚勢を崩してしまったのだ。
 仮面の男――文也くんと目が合う。
 文也くんは私の涙に気付いたようで、一度だけ小さく頷いた。
 表情なんてほとんど分からないのに、それだけで凄く心強くて、私はこれ以上心配させまいと肩で涙を拭って頷き返した。

「はぁ? 何言ってんだてめぇ」
 文也くんの登場に、場を荒らされた男たちが憤りを露わにする。腕に自信のありそうな巨漢の男が真っ先に私から離れて扉の方へ向かっていく。
 自分よりも倍ほど大きい体の男を目の前にしても、文也くんは変わらず悠々とした態度のまま大きなため息を零した。部屋の中に木霊するその呆れた吐息に、男たちの鼻がひくりと跳ねる。
「どうするの? これで彼女に一生消えない傷が出来たら」
「知らねえよそんなもん。大体お前に関係ねえだろうが!」
「おいおい正義のヒーロー気取りか? お呼びじゃねえんだよ、ガキはさっさと家に帰ってろ」
「見て分かんねえか? 今いいとこなんだよ。な?」
 短髪の男が親指で私を指さして笑う。そのままその手で文也くんを追い払うような動作をすると、男たちが声を揃えて笑った。
 文也くんは冷静にそれを眺めると、またため息を零す。
 嘲りを隠そうともしない文也くんの明らかな煽りを含ませた行動は、楽しげな男たちから漂う熱気を一気に冷ますことに成功する。

「ふぅん。そっちがそういうつもりなら、僕も手加減出来ないけど……いいのかな?」

 語尾の端々に嘲笑を込めて言い放ち、構えを取る文也くんに、男たちは冷静さを欠いた様子で突っ込んでいく。

「仕方ねえ、先にこのガキやっちまおうぜ」
「三人相手に強気で居られんのも今の内だ」
「仮面の奥の面、見せられねえようにしてやるよ……!」

「はいはい。そういう御託はいいから、さっさと来なよ」

 そこからはもう、怒涛だった。
 数の暴力で周囲を囲まれた文也くんが、僅かな怯えも見せず軽やかに地面に手をついて体を捻る。コンパスのように広げられた長い足が、捻りによって加わった回転の勢いのまま、鈍い音を立てて男たちの腹や下半身を蹴り飛ばしていく。
 次いで、華麗に着地し流れる動作で痛みに喘ぐ巨漢の男の髪を持ち上げ、晒した顔面に思いきり膝をいれると、今度はそれを見て腰の引けた眼鏡の男の胸倉を掴み、下腹部と脇腹を何度も抉るように殴った。
 だがそうなれば今度は文也くんの背後が完全な死角となってしまい、ふらふらと立ちあがった短髪の男が近づいてきていても、文也くんは気づかない。それを好機と、顔を赤く染めた短髪の男が助走をつけ、文也くんの頭に向かってどこからか持ち出したコンクリートブロックを振り被る。
「――後ろ!!」
 その瞬間。瞬きさえも忘れ、考えるよりも先に声が出た。
 私の声に、即座に眼鏡の男を床に放った文也くんが、体を横にずらして背後から襲って来た短髪の男の後頭部に手を回し、ブロックの重みで殺し切れない動作の勢いをそのまま借りるようにして、その顔面を壁に叩きつけた。
 見てはいけない、とぶつかる間際に思わず目を瞑ると、べしゃり、と聞いてはいけない音がする。
 数秒待ってから恐る恐る目を開けて、辺りを見渡すと――男たちは三人とも気絶して地面に倒れこんでいた。

 それをしっかりと確認してから、パンパン、と手に付いた汚れを払った文也くんがこちらに近づいてくる。

「……ちゃん」
 目の前まで来ると、私と目を合わせるために屈んだ文也くんが仮面をそっと外した。
 眉を下げて、口角も下げて、先の戦闘の無情さなんて感じさせない、優しい顔で私を見ている。
 文也くんは私の様子を確認すると、すぐに男たちの体から鍵を探して手錠を外してくれた。数時間ぶりに自由になった体は他人のものみたいで落ち着かない。
「立てる?」
「……無理、かも」
 そわそわとした様子の私に、文也くんの方が痛そうな顔をする。
 文也くんは一度男たちをちらりと見やると、着ていたデニムのジャケットを私に着せて体を横抱きにかかえあげ「後のことは知り合いに頼んだから、早くここから出よう」と歩きだした。


 タクシーで文也くんの家に向かい部屋につくと、彼はすぐ私を着替えさせた。
 着替えている間に暖かい飲み物まで用意してくれて、私がテーブルの前に座れば隣に座ってくれる。何も言わず、私が喋りだすまで、見守ってくれる優しさが嬉しかった。
「……ごめんなさい」
 そんな優しさに甘えた私の頭は、何を言ったらいいのか分かっていないくせに、文也くんの顔を見て勝手な謝罪を口に出してしまう。
 私の言葉を聞き届けた文也くんは、またあの痛そうな顔で言う。
ちゃん。あのさ……僕は別に、謝ってほしいわけじゃないよ」
「……うん。ありがとう……文也くん」
 首を傾げながら柔和な声で咎められ、やっと日常に戻れた実感がわいてくる。お陰で未だ張り詰めていた緊張に気付き、肩の力を抜いて改めてお礼を伝えた。
 すると、丁寧な動作で頬に添えられた大きな手。
 目を閉じてそれに擦り寄れば、文也くんは手を離して私を抱き締めた。
「……本当、最悪なことにならなくて、よかった」
 背中に回された手が、震えていた。
 言葉にせずとも分かる文也くんの心の中にあった心配の大きさに、彼を抱きしめ返すことで応える。
「……ごめんね、ちゃん。本当は、僕の方が謝んなきゃいけないのに」
「どうして?」
「だって、あんな奴らに、ちゃんを触らせた。僕、怒りでどうにかなりそうだったよ。あいつら全員殺してやりたいって、本気でそう思った」
「……文也くん」
「でも、それよりも早くちゃんをあんな場所から遠ざけたくて……」
 途切れた言葉と同時に肩口に額を擦りつけられる。
 あんなにも強い彼の弱弱しい姿に、そっとその頭を撫でると、ぐりぐりと擦る力が強くなる。
ちゃんと連絡が取れなくなって、すごく焦った。でも……前にお世話になった人が居るって言ったでしょ? その人を頼ったら、ネットに強いお友達に話をしてくれて……そのお友達さんが一瞬電波の入ったちゃんのスマホのGPSを拾ってくれたんだ」
「……そうだったんだ」
「正直、僕、そこからの記憶があんまりないんだよね。目の前が真っ赤になって……早く、早く助けなくちゃって」
「……うん」
 肩に顔を埋めていた文也くんが、顔を上げて私を見つめた。
 目じりが赤くなっていて、今にも泣きそうに瞳が潤んでいる。
(……文也くんがそんな顔する必要なんて全然ないのに)
 そう伝えたくても、今はきっと、彼を納得させられるような言葉を紡ぐことはできないだろう。
 それでも、これだけは言っておきたかった。
 私は微かに微笑んで、もう一度「ありがとう」と彼の背中をとんとんと叩いてから続ける。
「あのね、私……文也くんが助けに来てくれるって信じてたから、泣かないでいられたよ。本当に、ありがとう」
 告げるなり、こちらを見ていた大きな目がきょとんと丸められて、すぐにへにゃりと曲げられる。
 かと思えば「うー……」と唸った文也くんが、やがて小声で言った。
ちゃんが好きすぎる……やっぱり、もう外に出したくない……」
 その感情のこもった呟きに思わず笑ってしまうと、文也くんがすねたように唇を尖らせて私を見つめる。
「笑わないでよ! こっちは真剣なのに……」
「だって……外に出られないのは困るし」
「冗談だって!」
「ほんとに?」
「……まあ、半分は、本気だけど……」
 言いづらそうに口ごもりながら言う文也くんに笑いそうになるのを堪えて返す。ここで笑ってしまったら、たぶん、次の言葉を茶化してしまいそうだと思ったから。

「じゃあ一緒に暮らす?」
「えっ?」

「……私も、文也くんから離れたくないなって、思っちゃった」

 猛烈に恥ずかしい気持ちになりながらもなんとかそう伝えると、数秒ほど完全に動きを停止させた文也くんの目が、徐々にきらきらと輝き出して――
 むず痒そうに擦り合わされた彼の赤い唇が熱い吐息を零した。

「そんなこと言われたら、僕……もう一生ちゃんのこと離せなくなっちゃうけど、いいの?」

 お互いの隙間を無くすみたいにぎしぎしと音を立てるくらい強く抱きしめ直されてから、顔を向き合わせるだけの空間があけられる。
 そこからこちらを窺うように向けたれた視線に、ゆっくりと頷いてみせると、文也くんの火照ったそれで唇を塞がれた。

20190224