高校の卒業式の日。
 小次郎さんと結ばれて、わたしたちは晴れて恋人同士となった。
 あの日の帰り道。学校中の人気者だった〝御影先生〟をこれからはわたしが独り占めすることになるんだなあ、そんなふうに呟いたわたしに、小次郎さんは「それはこっちの台詞だ」なんて珍しく照れ臭そうに笑って返してくれた。
 それから早いもので、一年以上の月日が経とうとしている。
 一流大学に進学したわたしと、ご実家に戻られた小次郎さんは遠距離恋愛をすることになったけれど、連絡は毎日取りあっているし大型連休のときはどちらかが遊びに行って顔を合わせているのでそこまで離れている気はしなかった。小次郎さんは恰好いいから、地元で言い寄られていないか不安なところもあったけれど――電話口で「心配すんな。おまえしか俺の目には映ってねえよ」だなんて言われたら安心するほかなかった。
 色気たっぷりの声を鼓膜で直接聞かされるたび、小次郎さんは自分の声の魅力に気付いてないのかな、なんて思う。もし自覚してしまってこれから先、なんでも耳元で囁かれたりなんかしたらわたしの身が持たないから、わざわざこちらから教えることはしないけれど。
 わたしが小次郎さんのことを好きだと自覚するたび、彼に不安な気持ちを告げるたび、小次郎さんはいつも「俺のほうが不安だよ」と掠れた声で笑う。あの小次郎さんでも不安になることなんてあるんだ。わたしが意外そうにそう言えば「おまえはどこに出しても恥ずかしくねえべっぴんさんだからな」って言ってくれる。
 小次郎さんの手放しの褒め言葉。これだけじゃなくて、小さなこと、僅かな変化も、小次郎さんはいつだって気付いて褒めてくれた。
 恋人になって、決して短くはない時間が経過した。
 それでもまだまだ見ていない一面があって、日々を重ねるごとにどんどん好きが膨らんでいく感覚がある。小次郎さんも、わたしを好きだと、愛していると、恥ずかし気も惜し気もなく伝えてくれる。
 両想いだって自惚れてもいい真っ直ぐな愛情をくれる。
 でも、小次郎さんは卒業式のキスを最後に、わたしに一切触れようとしてくれなくなった。
 彼を見ていれば、大切にしてくれているんだってわかる。
 わたしの体に収まり切らないくらい、小次郎さんが目線で、仕草で、言葉で、教えてくれる。
 けれど、それが嬉しくて、同時に酷くもどかしかった。
 わたしはいつまで「先生の真面目ちゃん」なんだろう? って。


 だから、本当に予想もしていなかったのだ。

 今年のわたしの誕生日。二十歳になる前日に、小次郎さんがわざわざお祝いしにこっちへ戻ってきてくれることになった。
 去年は当日に届くようにプレゼントを送ってくれて、日付が変わる少し前に電話もしてくれた。わたしはそれでも十分嬉しかったけれど、小次郎さんはそのお祝いの仕方に納得が行っていなかったみたいで、今年はめいっぱい祝うために無理を押して連休をもぎ取ったのだと電話口で楽しそうに笑っていた。
「貴重な休みを、わたしのために使っていいんですか?」
「なぁに言ってんだ。むしろおまえのために使わなかったらいつ使うんだよ。それとも、は俺に会いたくない?」
「その聞き方ズルいですよ。会いたいに決まってます……」
「ん……俺もだ。だからそうやって気遣わないでくれたら嬉しい」
 それから、いつもみたいに近況を報告しあったりして、一瞬、自然に会話が途切れたときのことだった。わたしはふとあることを思いだして、それとなく小次郎さんに問いかけた。
「そういえば、小次郎さん。泊まるところはもう決まりました?」
「いんや? まだだな」
 その返事に、何気ない風を装って続けた。
「……もしよかったら、わたしの部屋に来ませんか?」
 大学進学を機に一人暮らしを始めたこともあって、これまでも何度か家に誘ってみたことはあった。けれど小次郎さんは一度も頷いてはくれなかった。「真面目ちゃんの部屋見てみてえな」とか「ちゃんと植物育ててるかー?」とか、それとなく聞いてくることはあるのに、実際に来る機会があっても立ち入ろうとはしない。
 でもそれは決して、拒絶、という感じではなくて、入らないと決めている、という頑なさに感じられた。
 故に今回も、ほとんど冗談のつもりだった。断られるだろうなって確信と、それに紛れたほんの少しの期待。
「本当に良いのか?」
「え?」
 だから、そう聞き返されて、驚いた。
 わたしの戸惑う声に、小次郎さんが静かな声で問い返す。
「おまえが良いなら、部屋、泊まらせてくれるか?」
「……はい」
 どきどきと心臓が口から出そうなほどに体内を暴れ回る。返事が出来たのは奇跡に近かった。




【もうすぐ着く。】
 小次郎さんからの短いメッセージを確認して、わたしは両手を上げて喜ぶウサギのスタンプを送り返した。間もなくして既読が付いたのを見て、スマホを鞄の中にしまう。
 今日は待ちに待ったわたしの誕生日。土日に重なってくれたのは運が良かった。高校時代の日曜日みたいに、今日明日と付きっきりで小次郎さんを満喫することができる。
 それに今回はいつもと違う。小次郎さんがわたしの部屋に泊まるのだ。恋人同士の男女が二人。同じ部屋で夜を跨ぐという意味。それがわからないほど子供じゃない。
 でも、期待と同じくらい不安もあった。わたしだけが一人勝手に舞い上がって、はしたない女だって思われたらどうしよう。小次郎さんだから触れてもらいたいこの気持ちを、上手く伝えられなくて拒絶されたらどうしよう。そんな嫌な妄想も、頭の片隅にずっと在る。
 まだわたしが〝御影先生〟に片思いしていたときはもっと簡単にスキンシップができたのに、その積極さも今やもう取り戻せそうもない。
 一応、今日の夜のために、小次郎さんの好みを想像して選んだ新しい下着と、そういった行為に必要なものも通販で購入しておいた。種類もいっぱいあるし検索画面を見るだけでちょっと恥ずかしかったけれど、もし良い雰囲気になれたとき、冷静になってしまう要因を残しておいたことで中断なんかされたくなかった。
 そもそも、この準備自体が無駄になる可能性の方が高い現状、仮に何も起こらなかった場合、わたしから気持ちを伝えたほうがいいのかという悩みもあった。わたしが触れられることを期待してた、って知っても、小次郎さんは引いたりしないと思う、けど。
 真面目ちゃん――何度も呼んでもらった愛称が脳裏を過る。「先生の真面目ちゃん」から脱却したいはずなのに、いつまでも小次郎さんの中のイメージを壊したくないと思う自分も居る。
(わたし、いつからこんなに贅沢になっちゃったんだろ……)
 小次郎さんが甘やかしてくれるせいで欲深くなってしまった自分を自覚し肩を落としていると、ピコン、とスマホがメッセージの受信を知らせる。
 アプリを立ち上げれば、そこにあったのは一文。

【前、見てみ?】

 小次郎さんからのそれに、考え込むうちに知らぬ間に俯いていた顔をあげれば、そこには「よぉ」と片手を上げて笑う恋人が立っていた。朝一番の便で遠くから飛んで来てくれたのに、その顔には疲れも眠気もまるで窺えない。視界いっぱいに広がる屈託のない少年みたいな笑顔。いたずらが成功したように目を細める小次郎さんを見ていると、太陽みたいなひとだなあ、っていつもそう思わせられる。

「小次郎さん、おかえりなさい!」
「おう、ただいま。なんかさ、それ聞くと、帰ってきたな~って気持ちになる」
「ふふ。御実家からこっちには旅行に来てるのに?」
「な。あっちはモーリィが居てくれるけどさ。気づきゃおまえが居るところが、俺の帰る場所になっちまってた」
「……小次郎さん」
「誕生日おめでとう、。今年は直接言いたくて、電話すんのすげー我慢した」
「ありがとうございます。忙しい中会いに来てくれて……」
「前にも言ったろ~? 俺が会いたかったんだよ。二日も予定空けてくれてありがとうな」

 大きめのリュックをひとつ背負った小次郎さんは他に荷物はないようで、わたしがスマホを仕舞ったのを見ると出入り口へと歩き出す。
 わたしは小次郎さんの言葉に嬉しくなりながら少し遅れて隣に並び、高い位置にある恋人の顔を見上げた。
 前に会ったときからそれほど時間は経ってないはずなのに、前よりももっと素敵になったように感じるその横顔にどきどきしていると、ふとこちらを見た小次郎さんと目が合った。
 わたしと目が合うなり、弓なりに瞳が弧を描く。

「あんまそういう顔すんな」
「え……ヘンな顔、しちゃってました?」
「変ではねえよ? 〝小次郎さんのことが好きです~〟って思ってくれてんのかな? って勘違いするほど可愛すぎる顔。思わず食っちまいたくなる」
 ガウッ! 鋭い犬歯をわざとむき出しにしてわたしに襲い掛かるフリをする小次郎さんにわたしが一番に思ったのは、心を読まれて恥ずかしいだとか、勘違いじゃないのにだとか、でもなくて。
 ――食っちまいたくなる。
 ――本当に?
「食べ、ても……良い、ですよ?」
「……っ」
 小次郎さんの目を見ていられなくて、歩みを止め視線を逸らしながらさりげなく呟いたつもりが、実際には自分でも驚くくらい媚びた声が口から零れていった。おかげで、直後に空間に投げられたたった数秒の沈黙に耐え切れず、そっと顔を戻そうとしたとき。それを制止したのは、頭の上をぽん、と撫でる温かい手のひらの感触。
「あ~……悪ぃ、いま俺の顔おまえに見せたくねえから、もうちょいこうしててくれ」
「……はい」
 声色からはわたしに対する嫌悪感は感じ取れない。でも、ならば顔を見せてくれない理由が分からなくて、一層戸惑ってしまう。そんなわたしの感情に小次郎さんは気づいたのだろう、ややあってからゆっくりと手を離した。
 恐る恐るその顔を見ると、小次郎さんは耳を赤く染めて、困った顔でわたしを見ていた。
 まさか、照れてくれてる?
 そう感じるより先に、小次郎さんの口が開かれる。
「……たった数ヶ月しか空いてねえのにさ。おまえ、どんどん可愛くなってくから、俺の心の準備が追いつかねえよ」
 それは独り言のようでも懺悔のようでもあった。
「思えば、当たり前だよな。高校んときも、俺が一番近くでそれを実感してたってのに」
 だから、なんて返したらいいのか分からなくて口を挟めずに唇をまごつかせていると、小次郎さんは一度瞬きを落として、それから今までの雰囲気など感じさせぬいつもの気さくな顔で笑った。
「よし! とりあえず飯食いに行くか」
 そのまま自然な動きで再び歩き出した小次郎さんの横顔を盗み見てから、わたしも後を追いかける。
 悪い反応じゃなかったと思いたいけれど。さっきの言葉が冗談に取られたのか、それとも真に受けてもらえたのか。すぐに聞ける勇気はまだわたしにはなかった。


 早めの昼食を取ったあとは、学生時代にしたデートみたいに二人でのんびりショッピングモールを見て回った。
 前と違ったのは、小次郎さんが選んでくれたものをわたしが買うんじゃなくて、わたしが気に入ったものを小次郎さんが片っ端からプレゼントしてくれたことだ。買ってもらうつもりで商品を見ていたわけじゃないのに、少し目を離したら会計してしまうものだから、止めるのに忙しかった。
 それでも両手に収まり切らないほどのショッパーを抱えることになり、率先して荷物持ちをしてくれている小次郎さんを恨めし気に見やると「まだ欲しいものあるなら今のうちに言えよ?」なんて、まるで見当違いなことをわざと言ってくる。
「……小次郎さん、貢ぎ癖ついてませんか?」
「そうか? 可愛い恋人の誕生日なんだ。まだ足りねえくらいだと思ってるけど?」
「十分ですよ、もう……」
「ふはっ、今日の主役がそう言うなら仕方ねえな。じゃあ続きはまた今度な」
(続きって……やっぱり貢ぎ癖がついてるんじゃ……)
 そう思いながらじいっと見つめて訴えても、小次郎さんは機嫌良さそうに右上に視線を流し、素知らぬ顔で口笛を吹いて答えを誤魔化しにかかる。それにめげず小さな不満を訴え続けようとしたものの、そうして外された視線を追うより先に、腕時計で時刻を確認した小次郎さんが会話の主導権を綺麗に奪い去っていった。
「は~……楽しい時間は過ぎるのが早えな……もうこんな時間だ」
「あっ……本当ですね」
 見やすいようにこちらへ向けてくれた腕時計の針を見て頷くと、高い視点で辺りを見渡した小次郎さんが、最後にわたしを見てやんわりと首を傾けた。彼の左目にかかる長めの前髪が、重力に従って下へと揺らされる。
「少し早いけど、ケーキ買って家に帰るか? 夕飯はん家で二人で一緒に作って食べる……でいいんだよな?」
 小次郎さんが家に泊まることに決まったあの日の電話。誕生日のお祝いに「なんでもしてやるぜ?」と冗談めいた口調でわたしのお願いを聞きだそうとしてくれた小次郎さんに、わたしが返したおねだりがこれだった。折角泊まってくれるなら、わたしの家で一緒にご飯が食べたいです。そう言ったわたしに、小次郎さんは一瞬だけ言葉に詰まって、それから「いいよ」と笑ってくれた。
「はい! ケーキと荷物を置いてからスーパーに行きましょう!」
「あ、こら、あんまはしゃぐなって!」
 夢みたいだ、と、本気で思う。
 それと同じくらい、夢が叶った幸福感がある。
 夜になればこれ以上の幸せがあると思うと、嬉しくて、怖くて、なんだか涙が出てしまいそうだった。



「お邪魔します?」
 わたしが玄関の鍵を開けて先に部屋に入ると、後ろを着いていた小次郎さんは両手に荷物を抱えたまま扉の前で立ち尽くしていた。
「ふふ、なんで疑問形なんですか?」
「なんでだろうな?」
 これまで、どんな機会があっても決して踏みこもうとしてくれなかった〝先生〟の顔が、困ったように緩められている。どこか許しを求めるようなその表情にわたしは堪らない気持ちにさせられた。
 もう、葛藤なんてする必要ないのに。
 思わずその手を握って力を込めて引っ張ると、大きなその体はあっさりとわたしの部屋へ収まった。
 がちゃん。
 小次郎さんの背後で小さな音を立てながら、扉が閉まる。
「おかえりなさい、小次郎さん」
「……ただいま」
 見上げたその顔は、わたしが見たことのない〝男の人〟表情をしていて――目を見張ると同時、その熱の籠った顔がわたしの目の前に迫っていることに気が付いた。
 ちゅ、と唇を吸われる感覚。
「……んじゃあ、手洗いうがい済ませて飯作るか!」
「えっ、あ、はい……?」
 片手に荷物をまとめた小次郎さんが、空いた利き手でぽんぽんとわたしの頭を撫でて、その横を通り過ぎて行く。いつの間に靴を脱いだのか、綺麗に並べられた大きなスニーカーをぼんやりと見つめながら、わたしは恐る恐る自分の唇に触れた。
 なんの前触れもなく落とされたたった一度のキス。そのあっさりとした触れあいに、わたしはどうしてか〝食べられる〟と思った。そうなっても良いように心の準備をしてきたはずなのに、今までにないくらい心臓がどくどくと循環を繰り返している。唇も、触れている指先も、何もかもが熱くて馬鹿になりそうだ。
「おーい? 、早くこっち来いよー?」
「は、はい! いま行きます!」
 いつもの調子のいつもの声。聴きなれた小次郎さんの声が鼓膜を揺さぶるたび、体の芯を鷲掴みに揺さぶられている心地がする。めまいのような興奮に襲われながら、わたしは深呼吸をしてリビングへと向かった。

 見慣れた部屋の景色も、そこに恋人が居るというだけで全く違うものに見えてくるから不思議だ。百九十センチ近くある身長に見合った筋肉質で骨太な肉体を持つ小次郎さんが部屋の中央に居ると、一人では持て余していたリビングの広さもすっかり手狭に感じられる。
 わたしには少し高いと感じられるキッチンも、小次郎さんは窮屈そうに腰を折らなきゃ使えない。
「その体勢、辛くないですか?」
 野菜を洗うわたしの隣で包丁を扱う小次郎さんに話しかける。
 不意の問いかけに小次郎さんは何を聞かれたのか分からない、という顔をしてから、一拍置いて合点がいったように表情を和らげた。
「ん? ああ、ヘーキだ。百八十超えてからもう長いことこんな感じだしな。この身長だとぴったり合う家具探す方が難しいんだよ」
「小次郎さん、おっきいですもんね……」
「あ、今の言い方なんか良いな」
 息を漏らすように笑って、小次郎さんが続ける。
「お日様の光をいっぱい浴びて育ったからなぁ……高校時代は成長痛にも苦しめられた」
「う。考えるだけで痛そうです……」
「けど楽しくもあったな。朝起きたら昨日より視点が高かった日もあったりしてさ。それに不思議なもんで、モーリィは俺がどれだけデカくなっても懐いてくれてんだよ」
「小次郎さんのことが大好きなんですね。モーリィちゃん」
 洗い終えた野菜をまな板に置いて渡せば、大きな手がそれを受け取って流れるように包丁が入れられた。
 爪も短く、骨ばって血管の浮いた男らしい手は、わたしの二倍くらいの大きさがあって、この手がいつもわたしの頭を撫でてくれていると思うと、なぜだか誇らしい気持ちになった。
「ま、こんなにデカく育っちまって不便なことも沢山あるけど、良いことの方が多いかな」
  最後の下処理を終えた小次郎さんが、包丁を置いて囁く。その目を真っ直ぐ見つめると、同じように見返された。
 小次郎さんの瞳の中に、わたしが捕えられている。
「人混みの中に居てもすぐにを見つけられる。俺の特権だ」
 言いきった小次郎さんが視線を逸らすよりも先に、わたしはその手のひらを掴んでいた。
「……小次郎さんのじゃないですよ」
「え?」
「それじゃあわたしの特権になっちゃいます。いつも、大好きな人に見つけてもらえるっていう特権……」
 掴んだ手のひらの甲を、照れ隠しに指でなぞって呟く。
 最後の方はしぼんで声にならないような音量だったけれど、近距離に居た恋人にはバッチリ聞こえていたらしい。掴んだままの手が、ぴくっと震えたかと思えば、次の瞬間には逆に掴み直されていた。
 わたしよりも長くて太い指が、指の股を通り、わたしの手の甲をゆっくりとなぞる。それはわたしがした子供のじゃれ合いみたいな接触じゃなくて、もっと、何かをこちらへ分からせるような重たい温度が込められていた。
「……まだ夜には早ぇぞ?」
「小次郎、さん……」
「ハイ、そういう可愛い顔も禁止。……分かったか?」
 細められた瞳と唇から垣間見えた犬歯の輝きに、反射的に首を縦に振る。そんなわたしを訝しそうに見ていた小次郎さんは、一度吐息に似たため息を零してから「ならよし!」とパッと手を解放すると、料理へと向き直った。
(〝まだ夜には早い〟って……)
 小次郎さんになぞられた手の甲や指の股が、じくじくと疼いている。自分がいま、どんな顔をしているのかが分からなかった。
(なんだかわたし、どんどんはしたない子になってる気がする……)
 抗えない身の内の渇きのようなものが、皮膚の下で育っているのを感じる。それが悪いことだと思えないのは、小次郎さんの気持ちがまだ分からないからだ。
(もし、小次郎さんがわたしと同じ気持ちでいてくれるなら……わたし、今日、どうなっちゃうんだろ)
 他人事のように悶々とそう考えるわたしを、小次郎さんがどんな顔で見ていたかだなんて――自分のことで必死だったわたしは知る由もなかったのだった。


 二人で作る料理は楽しくて、余った材料で予定になかったメニューまで作ってしまう始末だった。独り暮らしの長かった小次郎さんはそう言った節約レシピに強く、これからの生活に役に立ちそうなテクニックも沢山教えてくれた。
 そして今、目の前に広がっているのは――居間の中央にあるガラステーブルに乗り切らないくらいの沢山の料理。
 美味しそうに出来上がった数々の料理を見て目をキラキラとさせるわたしに、小次郎さんは「ほんと、は作り甲斐ある顔してくれるよな」なんて言ってくれる。
「ほら、温かいうちに食べようぜ」
「はい。いただきます」
「いただきます!」
 テーブルを挟んで向き合うように座って、同時に手を合わせる。箸を持って料理を口へ運ぶのも、ほとんど同時だった。
「ん~! 美味しい!」
「だな! おまえの味付けもすげぇ丁度いい。俺、こういう味好きだ。体に染みる……」
「小次郎さんが作ってくれたドレッシングもすごく美味しいです!」
「そうか? 口に合ったようで何よりだ」
 サラダにかけるドレッシングと、具だくさんのミネストローネは小次郎さんが手際よく作ってくれた品だった。細かく刻んだ野菜と目分量で入れられた調味料をかけあわせたオリジナルドレッシングは工程こそ簡単なものだったはずなのに、言われなければ分からないくらい整った味をしていた。普段から野菜と向き合って生活してきた小次郎さんならではの味付けはスープにも十全に発揮されていて、大きめにカットされた色んな種類の野菜が入ったミネストローネはどこをとってもコクや甘味があって美味しかった。
 それ以外の料理も本当にどれもが美味しくて、箸も料理を褒める言葉も止まらなかった。それは小次郎さんも同じだったようで、一口一口を噛みしめながら、わたしの料理の良いところを気付いた端からつぶさに褒めてくれた。
 ずっと笑いっぱなしで頬も腹筋も痛くなるくらいの楽しい時間は、あっという間に過ぎていった。
 綺麗に平らげたお皿の後片付けを済ませたあと、お風呂の用意もし終えてコーヒーを淹れるわたしの隣で小次郎さんがケーキの準備をしてくれる。
「バースデーケーキに載ってるこのマジパン? ってやつ? 牛のもあるなんて気が利いてるよなぁ」
 ロウソクを持つ手とは反対の手の指が、中央に座る洋菓子のマスコットを示す。ネクタイを身に着けた牛と、耳にリボンが付いた牛の二体がこちらを見上げるような体勢で純白のケーキの上に飾られていた。
「生クリームにこだわってるお店だったからですかね? 運命的な出会いでしたよね」
「ああ。おまえが突然袖引っ張るから、なんだと思ったよ。そしたら興奮した顔で〝モーリィちゃんが居ます!〟って……牛のキャラクター見たらなんでもモーリィに見えるなんて重症だな?」
 店先での出来事を思い出して、頬がかっと熱くなる。
 元はといえば小次郎さんが頻繁にモーリィちゃんの写真を送ってくるのが悪いと思う。お陰で前までは牛の見分けなんてつかなかったのに、今では御影牧場の子かそうじゃないか分かるようになってしまった。〝べっぴんさん〟――小次郎さんがよくモーリィちゃんをそう呼ぶけれど、その意味が分かる程度には、わたしも彼女が美形であると認識出来てしまっているのだ。
「小次郎さんのせいですもん。いつもモーリィちゃんの写真送ってきてくれるから……」
「ははー、俺のせいか。そりゃ、すまんすまん」
「もう! 顔が笑ってますよ!」
「〝もう!〟って、そこまでモーリィに影響されなくていいんだぞ~? ってこんなやり取り前にもあったか?」
「覚えてません!」
 決して怒ったわけではないけれど、わざとらしく顔を背けてみれば、小次郎さんが焦ったように頭を下げた。
「おっと、からかいすぎて悪かった。ほら、ケーキの準備も出来たぞ! 今日の主役は座った座った!」
 そうして下げた頭を上げるなり肩を掴まれ、ぐいぐいと押されてテーブルの前に座らされる。わたしの目の前にケーキを置いた小次郎さんが、ロウソクに火を点して部屋の電気を消しに行った。
 戻ってくる歩みと一緒に、聞こえてきたのは定番の曲。
「Happy birthday to you, Happy birthday to you……」
 小次郎さんの歌声に祝福され、改めて彼がここに居る喜びが脳髄を侵食していく。今日だけで何度も感じた、夢みたいだと思う自分と、夢が叶ったのだと思う自分が同時に存在している感覚。
「Happy birthday, dear ……」
 隣まで来た小次郎さんの顔がロウソクの淡い灯りに照らされているのをぼうっと眺めてしまうと、手のひらで消火を促される。
 それに一度だけ頷いて返して、火に向かって息を吹きかけた。フーッ……という呼吸の音のあと、部屋の中が暗闇に包まれる。
「今日は俺にとっても特別な日だ。生まれてきてくれて、出会ってくれて、好きになってくれて、本当にありがとうな」
「小次郎、さん……」
「……。愛してる」
 後ろから囲うように両腕で抱きすくめられ、項に顔を埋められる。耳元で吐息と共に低い声で名前を呼ばれ体を硬直させると、ちゅ、と首筋にキスを落とされた。
 二回目の、心臓に悪いキス。暗がりでは、必死に目を凝らしても、いま彼がどんな顔をしているのか見ることは叶わなかった。
 体感では無限にも感じられる数秒の抱擁のあと。温もりが離れて、すぐに電気が点けられる。眩しく思える視界のなか小次郎さんの方を見れば、いつの間に取ったのかその両手は取り皿とナイフとフォークで埋められていた。
「早くケーキ食おうぜ。これ食べるの、おまえ楽しみにしてたろ?」
 けろっとしている様子の小次郎さんに、さっきのは気のせいだったと思いかけたとき。こちらを見やるその瞳が甘く細められていることに気が付いた。まるで捕食前の獣みたいに、小次郎さんの鋭く尖った犬歯がチカチカと光って唇の隙間からわたしを睨んでいる。
 けれどもその獰猛な色とは裏腹に、視線からはどこかわたしを気遣うような雰囲気も感じられて、ふと、高校時代のこれまでのことが思いだされた。
 たぶん小次郎さんは今も時々〝御影先生〟に戻ってしまう瞬間があって、それが私を大切にする理由にも繋がっているのだろう。
 かつて先生と教え子だったときの純粋で潔白な思い出。その思い出を綺麗に塞いでおきたい〝先生〟の自分と先に進もうとしてくれている今の自分との葛藤。
 それはわたしが小次郎さんに嫌われたくないと思いながら、小次郎さんと大人になることを知っていきたいと思うのと似ている。
 でも、〝御影先生〟。わたしはあなたが連れてってくれる場所が、一生の思い出になるところばかりだって知っている。
 知ってしまっている。
「……あの、小次郎さん」
「ん?」
 その手を最初に取ったのは、どちらだったか。瞼の裏に過るのは海での課外授業のときだ。手を繋いだのは小次郎さんからだった気もするし、それを絡めたのはわたしからだったような気もする。わたしにとってそれほど自然に、小次郎さんは日常に馴染んでいった。
 だから他でもないあなたに。もっと触れたいって思うのも、通じ合いたいって思うのも、悪いことじゃないって思わせてほしい。
 逸る気持ちがわたしを〝真面目ちゃん〟で居られなくさせる。
「ケーキを食べ終わったら、その、」
「……うん」
「わたしのことも……」
 食べてもらえますか?
 意を決して、そう言いきったとき。
「いいんだな? ……ここまで来たらもう、戻れねえぞ?」
 わたしは、目の前の優しくて大人な恋人の、抑えつけていた箍が外される音を聞いたのだった。
20220515