「おーい! おまえらちょっとこっち来れるかー!」
 春の日差しが旋毛を照らす午後。
 御影先生が部員に号令をかけ、一か所に集まるように誘導する。どちらかと言えば放任的で生徒の自主性に任せることの多い先生にしては珍しい行動に首を傾げながらも従うと、そこには見慣れない生徒が一人。先生に背中を押されるような形で立っていた。
「よし! 皆集まったな! よおく聞けー! 今日からこの園芸部にまた一人、新しい部員が加わることになった。ほら真面目ちゃん、自己紹介」
です。御影先生に勧誘されて入部届を出したばかりの園芸初心者ですが……頑張りますのでよろしくお願いします!」
「よろしくな! みんな拍手ー!」
 挨拶とともに深々と下げられた彼女の頭上から、一際大きな音で先生が拍手の雨を降らせる。その音に続くように、少し遅れて徐々に現状を飲みこんだ部員たちからパチパチパチと盛大な拍手が贈られた。
 再び顔が上げられたときには、緊張した面持ちだったさんは打って変わってどこか照れたようなはにかんだ笑みを浮かべていて、それだけで彼女が悪い人ではないと分かった。
 聞けばさんは御影先生の受け持つクラスの子らしい。先生が〝真面目ちゃん〟と呼んでいるところから想像するに、きっとその人となりは私が抱いたイメージとそう遠くないところにあるのだろう。
 純朴そうで、清潔そうな女の子。
 今まで御影先生の周りではあまり見かけなかったタイプだ、と。私の頭の中の嫌な部分が耳元で囁く。
「……仲いいんですね」
「ん?」
「御影先生と、さん」
 紹介を終えて花壇にしゃがんだ先生に近づいて、その横顔に投げかける。
 先生は少しだけ怪訝な顔をして、揶揄われた子供みたいに目を細めた。目じりに浮かぶ薄っすらとした皺だけが、先生が年上だということを私に思いださせる。
「ふふん、そう見えるかぁ? って、実はまだあまり喋ったことはないんだが」
「そうなんですか?」
「回数って意味じゃ、おまえとの方が会話は多いな。まあ真面目ちゃんはまだ入学したばかりだし? 俺を担任として見極めてるってとこなんだろう」
「それじゃあ格好悪いところは見せられませんね」
「だろ? だから園芸部に誘ったわけだ。俺は植物や動物の世話をしてるときが世界で一番輝いてるからな」
 ニッ、と犬歯を見せて笑う先生の背中に、太陽の光が燦々と降り注ぐ。ああ、眩しいなと思った。私の目にはもう随分と前から、御影先生が一等輝いて見えている。太陽の力なんて借りなくとも。植物や動物の力なんて借りなくとも。ただそこに居るだけで。誰よりも。
 入学してからたった一年だ。
 そんな短い期間で、花壇に色づく花のつぼみたちよりも、私の恋心は無謀に大きく膨らんでしまった。
「そう言って、新入生には片っ端から声かけてますよね。それに泥だらけの作業着姿で言われても説得力ないですよ」
「お~? 言うなあ! おまえに泥臭い大人の魅力がまだ伝わってなかったとは……残念だぜ」
 軍手を纏った手の甲で涙を拭うフリをしながら、その口もとは変わらず弧を描いている。その顔を見ていたら堪らなくなって、先生の魅力なんて誰よりも私が一番分かっていると口走りそうになってしまう。でも、先生は自他ともに認める〝お調子者〟だ。誰にでもこんな調子で、誰にでも笑いかけてくれる。平等に優しくて、平等に残酷な人。だから私は、彼に恋をしていられる。誰も特別扱いされないという安心感だけが、皮肉なことに私を殺さないでいてくれていたのだった。
「御影先生! お話中すみません……あの、ちょっといいですか?」
「お? 真面目ちゃん、どうした?」
「種の植え方、合ってるか確認してもらえますか……?」
「おお、勿論いいぞ! ……っと、おまえにこっちの水やり、頼んでいいか?」
「はい」
「ありがとな。助かるぜ」
 些細な感謝の言葉に、いちいち心臓がどきどきと音を立てる。立ちあがった御影先生は大木のように大きくて、私を少しの間だけ日光から守ってくれる。そんなちっぽけな偶然にさえ、好きだ、と感じてしまう自分が恐ろしかった。私は、恋というものに、これ以上が存在することを知っている。
 二人の後ろ姿を見送り花壇に向き直ると、先生たちがどんな会話をしているのかすら聞こえなくなる。じょうろを片手に、私は水を浴びてきらきらと光る花たちを見ながら、どうか、と目を瞑ってひとり祈った。
 どうか彼女が、御影先生の魅力に気付きませんように。
 どうか彼女を、嫌いにならないで済みますように、と。


 一か月もすれば、さんはあっという間に園芸部に馴染んでいった。素直で勤勉な上に人当たりがよく明るい彼女は、私のことも〝先輩〟と呼び慕ってくれる。
 けれど彼女が私にニコニコと話かけてくれるたび、分からないことを聞いてくれるたび、感謝の言葉をくれるたび。少しずつ。私は彼女が怖くなっていった。
 そういう彼女の直向きな優しさに触れれば触れるほど、知らぬ間に彼女の欠点を探し始めていた自分に気付かされてしまったからだ。

 ジワジワと蝉の鳴き声が大きくなるとともに始まった夏休み。
 園芸部顧問である御影先生が毎日顔を出してくれるため生徒は自由登校ではあるものの、自分の花壇が気になる園芸部員は時々様子を見に学校へ足を運んでいた。私もその一人だった。
 せっせと土をいじる私の隣で、御影先生が葉の成長を確認しながら「そういやさ、」と楽しそうに身を乗り出した。
「あいつさ、今のところ課外授業皆勤なんだぜ? それで部活にもちゃんと毎日顔を出してる。はば学入って早速青春してるよなあ」
 泥だらけの軍手で額に滲む汗を乱暴にぬぐいながら、御影先生が世間話みたいに私に屈託なく笑いかける。話のきっかけは分からない。それくらい自然に、話題が〝真面目ちゃん〟に切り替わった。
 ――ああ、嫌だな。
 私いま、上手く笑える自信ない。
 先生の笑顔とは反対に、全身が強張って、胸のあたりから嫌な音が聞こえた。私の体が自分のものじゃないみたいに軋む感覚。こんな会話、流してしまえばいいのに、聞かずにはいられない。
 報われない恋が、こんなときに限ってどうしようもなく私の背中を押している。
「先生、」
 小さな声で呼びかければ、先生は目を合わせて首を傾げてみせる。
「……さん、毎日来てるんですか?」
「ん? おう。今日もおまえが来る一時間くらい前に帰ったけど……朝早く来て、昼頃帰ってる。野菜が毎日ぐんぐん育ってくの見るの、楽しいんだってさ」
「そうなんですか」
「んで、他の部員の花壇見てすげー! って無邪気な顔で眺めて、満足そうに帰ってく。本当、見てて飽きねえよ、あいつ」
 俺、真面目ちゃんと毎日顔合わせてんのにな? 先生がそう続けて同意を求めてくるのに、曖昧に唇を歪ませて頷いた。
 気を緩めたら、涙が出てしまいそうな予感がしたからだ。
 眩しかった。目に沁みるほど。先生の言葉が。表情が、物語っていた。私が一年かけて先生と縮めた距離を、もう彼女は飛び越えてしまっていると思わせられた。日数なんかじゃ埋められない、もっと大事な部分で、御影先生はさんを気にかけている。
 最初に感じたのは、羨望。
「私も、御影先生が担任だったらなぁ」
 次に感じたのは、たぶん、やっぱり恐怖。
 何かが変わってしまうかもしれない前兆は、いつだって期待と恐怖が隣り合っている。
 誰も好きにならないで。私を好きになって。誰のものにもならないで。私のものになって。
 そんなことばかり巡る、私の頭の中と同じ。
「急にどうしたよ? 嬉しいこと言ってくれるじゃねえか」
「前から思ってましたよ。先生、カッコいいし」
「おいおい、なんだぁ? そんなに褒めても――冷やしておいたハーブティーしか出ねえぞ? ってことで、休憩すっか!」
「……はい」
 それって、さんのために用意したものですか? そう聞いたらきっと先生は悲しむだろう。あるいは、私を憐れむかもしれないし、さんを悪く言われたとも思うかもしれない。
 ぎりぎりまで聞いてしまうか悩んで、結局口を閉ざした。
 先生に、嫌われたくなかった。

 先導され理科準備室に入ると、空調を効かせていたのか涼しい風が汗を冷やした。ふう、と思わずため息を零した私に、先にグラスの準備をしていた先生の背中が僅かに揺れる。
 その後ろ姿からも伝わる心配の気配に、なぜだか私の方が動揺してしまう。
 だから、無意識に出たため息を誤魔化すよりも、振り返った先生が気遣うように私を見やる方が早かった。
「言いたくないなら聞かないが……なんか、悩んでることでもあんのか?」
 眉を下げた顔のまま、冷蔵庫から冷えたハーブティーの入ったボトルを取りだして、とくとく、とリズム良く二つのグラスに注ぐと、片方を私に差し出してくれる。
 それを受け取りながら、私は小さく首を振って答えた。
 手に持ったグラスの、淡い色の水面が動きに合わせて震える。
「そういうため息じゃないですよ。部屋、涼しいなって思って、深呼吸してたんです」
「ああ、今日も外暑かったもんなあ。熱中症になったら危ねえし、それ飲んだら帰れよ」
 言いながら動く喉仏をじっと見つめる。汗の滴る首筋。グラスを持つ大きな手。ふわふわと揺れる左右非対称の髪の毛。平均以上に高い背丈。すらっと伸びた手足。整った顔の、大人の男の人。
 ――先生。
 〝御影先生〟は、教師だから私に優しくしてくれる。
 その証拠に、これだけ身近で親身に接してくれるのに、絶対に体に触れようとしない。グラスを渡す今だって、自分の大きな手は底を覆うように当てて、間違っても私の指が触れないように手渡した。
 学校生活の中で、運良く先生と触れあえるとすれば体育祭のフォークダンスくらいだろうけど、生憎私にその番が回ってきたことはない。
 今年の体育祭。
 さんと御影先生が二人三脚で走っているのを見た。
 一位を取って喜ぶ二人を見たとき、初めて自分が一年早く生まれたことを恨んだ。何も攻撃をされていないのに、体のあちこちが痛くて、どうしてか酷く惨めな気持ちになって、大事に温めておいた大切なものを手づかみでむき出しにされたような心地になった。
 私は、あの一瞬、先生に恋をしている自分を、恥ずかしいと思ったのだ。
 ――そして、そんなあの日の自分を、私はまだ許せないでいる。
 両手の中で円を描く水面を見つめてから、ぐっとその中身を飲み干す。心地よい冷たさと清涼感が喉を通り抜けても、私の中の惨めな気持ちは消えてくれない。
 机の上にグラスを置いて、息を吸いこむ。
「もし、悩みごとが出来たら……先生、相談に乗ってくれますか?」
 それは確かな、意を決した言葉だった。
 決意の宿った私の視線に、先生は何を思ったろう。思ってくれたろう。
「……勿論だ。俺でよければ、何でも言ってくれ」
 目の前に居る男の人は、誰よりも近くて、誰よりも遠い、私が見慣れた教師の顔で頷いた。


 秋の文化祭を大盛況に終え、学校主催のクリスマスパーティーを控えた十二月。
 マフラーに顔を埋めながら白い息を吐きつつ、帰路につこうと校門までやってきたときだった。
「御影先生!」
 大きな声で呼ばれた名前に、振り返ったのは呼ばれた当の本人だけじゃない。聞き覚えのある声。私を〝先輩〟と慕う無垢な表情が瞼の裏に浮かぶ。
 浮かんだままのかたちをしたその人――昇降口から走ってこちらまでやってきたさんは、立ち止まった御影先生の前で足を止めると、へらりと人懐っこく笑った。
「そんなに急いでどうした? 真面目ちゃん」
「これから一緒に帰りませんか? あと、もし大丈夫なら帰り道に喫茶店入りましょう!」
「おう。構わねえぞ。丁度今日はバイクじゃないし、たまには寄り道すんのも悪くない」
 腕を組んで「うん」と頷いた御影先生の髪の毛が左側に傾く。先生の頭一つ分低い場所から、さんが嬉しそうに小さく拳を掲げるのが見えた。
 何も言えないまま口を開ける私の唇の隙間から、音にならない空気が白い煙となって宙を舞う。
 目の前で演じられた先生と生徒の日常の一コマ。
 私になんて気付かずに校門を出て行く二人は、どう見たって恋人同士になんて見えやしない。制服を着た女子高生と、スーツに身を包んだ大人の人。二人の雰囲気からやましい素振りは一切なくて、ただたまたま一緒に居るだけなんだって、きっと初めて彼らを見る人だって理解できる。でも私は〝そうなるには〟高いハードルを越える必要があると知っている。
 眼前に広がる光景は、彼女がそれを越えられる人で、私はそうでないということを表しただけのことだ。けれど、たったそれだけの事実が、冬の気温なんて目じゃないくらい寒かった。
 笑顔の先生が目に焼き付いて離れない。
 先生と一緒に帰るだなんて、考えたこともなかった。誘ったら駄目だなんて一度も言われたことないのに。
「……御影先生」
 ぽつり。
 呟いても、遥か先の後ろ姿は決して振り返りはしない。私の背中を、冬の冷たい空気が慰めるみたいに撫でて行く。


 そして迎えた春。
 無事に進級し進路を大学進学へと定めた私は、けれどもまだ園芸部から離れられないでいた。結局一度も先生を下校に誘えないまま、ずるずると植物の世話を続けている。
 園芸部は文化部の立ち位置ではあるものの、部員によっては目指す進学先の難易度から四月時点で退部している生徒も少なくなく、御影先生は嬉しいような寂しいような複雑そうな顔で彼らを見送っていた。
 始業式の直後。
 スーツ姿の御影先生は退部する生徒との挨拶を済ませると、腕を組んだ体勢で私を見下ろした。式の前日にクリーニングに出したのか、皺の無い黒のスーツに身を包んだ御影先生は、いつもよりも更に背が高く見える。
 百九十センチに近い先生を見上げると、少し首が痛い。でも、それがなぜだか愛おしく思えるのだから不思議だ。
「おまえはまだ続けるのか?」
「はい。担任の先生には、このまま勉強してれば合格出来るだろうって言われましたし、自分でも手ごたえはあるので」
「そっか。すごいな。今までちゃんと頑張ってきたことがしっかり身についているんだな。それって簡単に出来ることじゃないよ」
 声の一つ一つ。音の一つ一つ。語尾にかかる吐息や調子が、それが先生の何よりの本音の称賛であると私に訴える。
 私はこうして時々、御影先生が砕けたように甘く喋りかけてくれるのが好きだった。
「……ありがとうございます」
「俺も、おまえが居てくれたら嬉しいし」
 ほら先生、こう見えて寂しがりやだからさ? そう言いながら、首を傾けて挑発的に笑うのは先生の癖。持ち上げられた口角の隙間から尖った犬歯がチカッと光ると、私は胸が苦しくて堪らなくなった。
 この人がどうしようもなく好きだった。
 私だけが知っている御影先生なんて存在しないのに。そんなこと分かってるのに。いつか知れるときが来るんじゃないかと、見られるときが来るんじゃないかと、何気ないやり取りの中で、視界の端に光が差しこむ瞬間があるのだ。これが体温の上昇が見せる錯覚と言うのなら、もっと良い物を見せてくれると信じていたかった。
 ――御影先生。
 先生は、どうして先生になったんですか?
「……そういうの、皆に言ってるって分かってますよ」
「あちゃ~、バレたか。まあおまえとも二年の付き合いだもんな。俺の性格も筒抜けか!」
 できれば教師を辞めてくれませんか。
 辞めないのなら、私を、
 私と、

 そんな風に思ったから、罰が当たったんだろう。

 高校生活を始めてから迎えた、三回目の五月二十五日。
 私が先生の誕生日を知ったのは去年の夏休みだった。ふとしたきっかけから部員の誕生日の話になり、先生の誕生日がすでに過ぎていたことを知った。
 だから、今年こそは、最後だけは何か形に残るものが渡せたらと思っていた。一か月前から悩みに悩んで、ようやく決められた先生の好みを考えて選んだプレゼント。
 会える確実な時間である放課後。
 牛柄の包装紙に綺麗にラッピングされたそれを渡そうと思い理科準備室をノックしようとした時だった。手の甲が扉に当たる寸前。中から、話し声が聞こえることに気が付いた。
「小次郎さん、お誕生日おめでとうございます」
 その声に、緩く拳を作った右手が行き場を失くして硬直する。〝小次郎さん〟という呼び名に、肉体が活動を止めたように固まるのに、全神経が勝手に耳へと集中する。
 聞かないほうがいいと分かっている。盗み聞きなんてすべきじゃないと分かっている。でも足が貼り付いたように動かない。
 導火線はすぐそこでチリチリと燃えている。爆発は間近だった。
 刹那。

 温度を持つ、掠れた音。
 爆発音に似たそれが人名であると理解したとき。
 それが先生の可愛がる〝真面目ちゃん〟の名前だと理解したとき。
 御影先生が彼女の名を呼んだと答えが出たとき、先生の下の名を呼ぶことを許された生徒が彼女であると察したとき、私は私の恋心が枯れる音を聞かされた。
 扉の前で一人息を飲む。
 声なんて出ないのに、咄嗟に片手で口を覆った。
 先生を慕う、仲のいい女子生徒の名前を呼ぶ声じゃなかった。先生が時々する、あえて人を揶揄うようなお調子者の声じゃなかった。
 私がこれまで何度も、何度も何度も想像した、御影先生が私の名前を呼んでくれる声だった。
 聞こえてきたのは私の名前じゃなかった。
 気付けば、後退りしていた。
 少し扉から離れれば、仕切り一枚隔てた会話は、所々が途切れて聞きとれない。
 声が聞こえなくなったことでようやく動くようになった足を無理やり動かしてその場から立ち去ると、私は知らぬ間に握りしめてくしゃくしゃになっていたプレゼントの包みを近くにあったゴミ箱へ叩き入れた。
 少し遅れて、ぽつ、ぽつ、と。
 ゴミ箱の縁に水滴が零れ落ちる。一滴、包装紙の上にぽつりと落ちた滴が牛柄の模様を滲ませるのを見ながら、私は誰に見せるでもない笑顔を作って目を細めた。
「あーあ……」

 翌月に入ってすぐ、職員室で〝それ〟を渡すと、御影先生は私を理科準備室へ誘った。
「夏まで居てくれるんじゃなかったのか?」
「……気が変わったんです」
 そう問いかけてきた先生の手元には、退部届が握られている。
 あの日。二人のやり取りを聞いた私は、三年続けてきた園芸部を辞めることにしていた。
 これからの部活動の中で、御影先生とさんが話しているところを見ていたくなかった。少なくとも、先生のあの声を聞いてしまっては、もう今までの私ではいられない。
 先生は私と数秒見つめ合った後、ふう、と大きく息を吐いて続ける。
「そうか。おまえが決めたんならしょうがないな。受験、頑張れよ」
 ふっと笑いかけてくれる顔は変わらない。先生は、私を大切な生徒の一人だと思って接してくれている。それはきっと、彼女も例外じゃない。ただそこに、別の何かがあるかないかの違いでしかないのだ。
 私は、さんが先生を好きにならなければいいと願った。先生の魅力に気付かないでほしいと、そう願った。
 自分の恋が成就しないと信じ切っていた私は、先生への恋心に甘えていた私は、先生が誰かを好きになるかもしれないだなんて、本気で予想していなかったのだ。
 だってそれが許されるなら、期待なんかじゃ済まなくなる。すぐに先生と生徒じゃいられなくなる。
 先生が目にかける〝真面目ちゃん〟はどうして真面目なままでいられるんだろう。どうして真面目な良い子のまま、先生に好いてもらえるんだろう。
「先生」
「……ん? どうした?」
「前に言った悩みの件、覚えてますか?」
「ああ、覚えてるよ」
「先生に相談したいことがあるんです」
 改めて切り出すと、先生は真剣な顔をして私を見た。私が何を言うか待ってくれている顔。身近で、親身で、優しい先生の顔。
 先生は、さんが相手なら、どんな顔をするんだろう。
「私、好きな人が居るんです。でも、失恋することは確定してて、卒業前に告白をするかで悩んでいるんです」
「……報われない恋、ってヤツか」
「はい」
 きっと予想外で自分に不向きな相談だったのに、御影先生は茶化しもせずにゆっくりと頷いた。カーテンから差しこむ夕日が、先生の横顔を照らす。癖毛に光が反射して星の瞬きのように点滅を繰り返す。
 格好いいな、と素直に思う。どうやったって私はこの人が好きだと実感する。室内に充満する匂いや私物。部屋を構成する全て。御影先生。全部が好きだと感じる。
「俺はさ、あんま偉そうなこと言えないけど……高校生活には悔いが残らないようにした方がいいぜ。これから先、色んな卒業がおまえを待ってると思う。でも、高校生ってのは人生で一度しかないんだ」
 何かを思い出すように、噛みしめるように、先生が教えてくれる。その顔をただじっと見つめた。
「大事な気持ちを心の中の宝箱に仕舞ってもいい。思い出として学校に埋めても良い。どっちを選んだとしても、それはおまえの立派な経験だ。だが、人生の先輩として言うなら……後悔しない方を選ぶのが先決だな」
「後悔、ですか」
「じゃないと、俺みたいになっちまうぜ?」
 けれど、続いたその言葉が、あまりにも自嘲気味だったから。
「先生みたいに?」
 思わず聞き返すと、先生は一度だけ瞬きを落として、ゆっくりと頷いた。先生の藤色の瞳に、オレンジの陽が輪を描く。
「ああ。俺は今も絶賛後悔中。まあそれも――」
「……?」
「いや、今俺の話はいいんだよ。俺みたいになりたくなけりゃ、しっかり満足行く卒業を迎えること! いいな?」
 パン、と一度手を鳴らして話を切り替えようとする先生を、私はまだ見つめていた。きっと今日の出来事は、私の思い出になっても、先生の思い出にはならない。それでも覚えていたかった。
「でも、先生は私にとって憧れの人です」
「はあ~……おまえも変わんないね。一年の頃から、嬉しいことばっかり言ってくれる」
 そこに下心があることを、先生は知らない。
 そう思い至って、ふと、先生も同じ気持ちなのかな、と考えた。あの子と接するとき、御影小次郎は、先生で、大人で、男の人。
 〝〟〝小次郎さん〟
 あの日聞いた呼び名に、先生の葛藤を垣間見る。変化が訪れたとき、嬉しさと困惑、どっちの方が大きかったのだろう。
「もっと褒めてもいいんですよ?」
「はいはいスゴイスゴイ。なんてな……本当に、おまえも俺の自慢の生徒だよ」
 言いながら、先生は退部届で私の頭をぽすぽすと二度叩いて笑った。決して触れあえない中での限りない譲歩。温度のないもどかしさより、先生の言葉と満面の笑みが見れた嬉しさが勝った。
 自分が恋愛対象にあるだなんて思ってもいない先生の態度が、私を楽にさせる。とっくに枯れた恋のつぼみを、摘んであげるときはすぐそこまで来ていた。


 終わりと始まりの匂いのする三月。
 紙の造花で装飾されたアーチを通り抜け、早足で校門へと向かう。
「御影先生!」
 その勢いのまま、いつかの彼女のように声を張って呼び留めれば、その人はあっさり振り返った。
 私と気付くなり、軽く片手を上げて挨拶をしてくれる。
「おう、なんだなんだ? 卒業式も終わったばかりで元気じゃねえか」
 目の前まで行くと、先生が自然な動作で少しだけ身を屈めて身長差を詰めてくれたので、もう一歩だけ近づいて問いかけた。
「一緒に帰りませんか?」
 言えば、きょとんと丸まる目。
「おいおい、折角の卒業式ってのに……おまえと帰りたいヤツは他にも居るんじゃないのか? 俺とでいいのかよ?」
「いいんです。そもそも、私が誘ってるんですよ?」
「はは、そーだったそーだった。んじゃ、帰るか」
 周りの生徒に「気をつけて帰れよー!」と声をかけながら、校門をくぐっていく先生の後を追いかける。それから、門の外で親と話す生徒やグループで固まる卒業生たちに、御影先生が丁寧に挨拶を送るのを隣で見守った。
 学校近くの坂を下ると、途端に先ほどまでの喧噪はなくなり辺りは静けさに包まれる。舗装された道のガードレールの脇を二人並んで歩いていると、ややあってから先生が口を開いた。
「卒業、おめでとう。あと、大学合格もな。改めておめでとう」
「はい。ありがとうございます」
「言いそびれてたけどさ……園芸部も、ずっと居てくれてありがとうな。お陰で助かったよ」
「いえ、私こそ……三年間、楽しかったです」
「……そうか」
 お祝いされているのは私の方なのに、先生の方が嬉しそうな顔で笑うから、少しだけ、次の言葉を躊躇った。
 それでも忘れてはいけない。私は今日、先生に振られるためにここに居る。
「先生」
「ん~?」
「好きです」
 前を真っ直ぐ見て、一呼吸で言い切ると、隣で息を飲む音が聞こえた。
「おまえ、」
 ゆっくりと視線を向ければ、そこにあったのは戸惑う顔。驚いている、というよりは、困っている顔だった。
 ああ私、今先生を困らせてるんだな。
 そう思った瞬間、三年間の思い出が一気に頭の中を駆け巡って、どんどん顔に力が入っていくのが分かった。眉や目頭、唇。視界がぼやけてくると、自分の顔が自分で確認できなくて良かった、と馬鹿みたいなことを思った。高校生活で一番不細工な顔を、誰にも見られたくない顔を、よりにもよって大好きな御影先生だけが見ている。
 それがちょっとだけ面白くて、あはは、と泣き笑いが漏れると、先生は眉を寄せて私を見た。
 優しい先生は今、私を傷つけずに振る言葉を探している。私はその最後の慈悲を、首を振って断った。一思いに、殺してほしかった。
「先生、言ってくれたでしょ? 卒業は、後悔しないようにって」
「……ああ」
「だからこの帰り道に、私の思い出、埋めさせてもらうことにしたんです。聞かされる先生には、申し訳ないですけど」
「……いいよ。俺のことは気にすんな」
「ずっと御影先生が好きでした。ううん、今も好きです」
「……ごめんな。俺はその気持ちに応えてやれない」
「はい。知ってました。私、先生の大事な生徒ですから」
 両手で涙を拭ってみせても、先生はまだ困った顔をしていた。私という生徒が、分からなくなったような顔。大人な先生の、迷子みたいな表情。その顔を見たら、どうしてか。さんと二人で居たときの先生の顔を思い出した。
 途端に、納得する自分が居た。彼女は、先生にとって光なんだ。いつも自分を照らしてくれる道しるべ。きっと色んな場所へ連れてってくれる灯りみたいな女の子。
 私では、先生を照らすことはできない。いつも陽の光から私を守ってくれたのは先生だったから。
「……御影先生」
「ああ、聞いてるよ」
 教師になって、これまで何回、私みたいな子に出会っただろう。先生の昔の話は、ほとんど聞いたことがなかった。
 私もそんな、語られない過去の一部になるのだろうか。それは先生にしか分からないけれど。
 ――後悔。
 半年前。一瞬だけ見ることの出来た先生の一部。最後に世界で一番好きな人の幸せを、心から願わせてほしい。
「来年は、きっと先生の番ですね」
「……え?」
「卒業式。後悔しないようにって、私、応援してますから」
 私の言葉が指す意味を、先生が遅れて理解する。次の瞬間、私に見せた表情は、大人の顔を繕うことを忘れ、高校生に戻ったかのような初々しい赤面だった。
20211118