※「~ふりをする」シリーズの主人公と同主
※柔道部の外部指導員
※織部を勝手に柔道部所属にしています
下校のチャイムが校舎にぼんやりと木霊する時刻。
「
先生」
語尾にハートマークでも付きそうな、やけに耳につく間延びした声で名前を呼ばれ
はゆっくりと振り返る。そこに居る相手が誰であるかは、顔を見る前に分かっていた。こんな風に呼びつける生徒など“彼”以外に居ない。
織部明彦。
先ほどまで部活動で一緒に汗を流していた生徒の内の一人だった。
「……織部、どうかした?」
窓から差しこむ夕日に照らされ眩しそうに目を細めながら、織部は美しい微笑みを湛えて立っていた。
他の生徒たちから“顔だけはいい男”と称されるだけあって人間離れした整った容貌を持つ男である。中学生ながらにして百八十を超える長身と涼しい面立ち。そこに在るだけで絵になる男に一瞬目を奪われそうになるものの、
はすでに知っていた。
芸術品のように静謐に佇む彼が同時に、酷い暴力性を秘めた内面を持つ学校一の問題児でもあるということを。
「次来るのっていつ? 今日も随分久しぶりだったからねぇ、待ちくたびれたよ」
校内の自販機では売られていないパックのリンゴジュースを片手に織部がこてんと首を傾げて言う。
彼がそれを特別に愛飲していると知ったのは、カバンに付けられた目立つリンゴのマスコットがそのメーカーのイメージキャラクターと本人から聞かされたときだった。限定品である赤いマスコットは正規の手段で手に入れたらしいが、わざわざ正規にと前置くあたりにこれまで繰り返して来たであろう違法行為の面影が窺える。
とはいえ、
には彼の素行を正す義務はないので改まって注意をしたことはない。織部もまた、それを望んでいるようには見えなかった。
「次回は二週間後の水曜日。ここ最近は他の学校にも呼ばれてて忙しくしてるんだ。間が空いて悪いね」
「ふぅん? まあいいさ。先生は人気者だから仕方ない」
「そんなこと言うの、織部だけだけだよ」
「フフッ……そうかい? それは光栄だ」
ちゅう、とわざとらしく音を立てながらストローを吸った織部が大仰に肩を竦める。
隙のあるような様子とは裏腹に、織部の深紅の瞳は
をじっと捉えて離さない。一挙手一投足を見逃さないように、瞬きすらせずに
を見つめている。
が織部と初めて会ったのは彼が入学してすぐのことだった。
強化選手として選抜された後も変わらず地元の中高の外部指導員として活動していた
が、この学校の柔道部に新しく招かれることとなり打ち合わせを済ませ帰ろうとしていたとき、校門の前で屯していた織部と鉢合わせた。
織部はそのときから今と変わらぬ派手な見た目をしていて、通りすぎる他の生徒たちは遠巻きに彼を眺めていた。目を合わせようともしない者、過剰に怯える者、彼が見える位置から黄色い声を浴びせる者。一人の人間へ集まる感情にしては好悪の振り幅が激しく、その異様な雰囲気に彼が不良だと
は直観的に察した。
であるならば、わざわざこちらから刺激する必要もない。そう思い、顔も合わせず通りすぎようとしたときだった。
がくん、と。いきなり左腕を掴まれ、力任せに引き寄せられる。
咄嗟に足を後ろに引き体勢を整えれば、抵抗されたはずの織部が上機嫌に身を震わせた気配があった。
だが、そうして思わず見上げた先、予想に反して織部は温度の感じさせぬ瞳でこちらを見下ろしていた。
「見いつけた」
正確には、掴んだ左腕の先に視線はあった。
の左手の指を見て、織部が低い声で呟く。
未だぎりぎりと掴み上げる腕を
が振り払わなかったのは、その言葉の意味が知りたかったからだ。第四指。織部が睨む
の薬指の根元には、まるで結婚指輪を模したかのように、生まれつき蛇が這ったような赤紫色の痣がある。それは意図的に誂えたように思えるほど鮮明で艶美な意匠をしており、物心ついたときから
にとって気味の悪い存在だった。
己すら知らない体の秘密を織部は知っている。そんな馬鹿げた話を、なぜだか疑問に思わなかった。ただ、疑問に思えないことは疑問でならなく、
は警戒を解いて織部を見つめ、相手の言葉を待つに努めた。
けれど、織部は
の無垢で無防備な対応を見てさらに笑みを深くするだけで、それきり何も言ってはくれなかったのだった。
周囲からの観察するような視線を感じる中。
が拒絶を示さないと理解するや否や、掴む場所を腕から手のひらに滑らせた織部は、それまでの一方的なやり取りを感じさせぬ丁寧さで互いの指を絡ませあい体温を交わらせる愛撫を施すと、意味深に口角を上げてその場から立ち去っていった。
それから彼は、不自然なまでに終始して
に好意的だった。
次の週には柔道部に入部し、わざわざ
が指導に来る日だけを狙って道場に顔を出した。他の部員たちが萎縮しても構わず、織部は
を独り占めにし続けた。問題だったのは、
に構っている間は彼が大人しくなると、教師たちがその我が侭を許容したことだった。これではなんのために仕事で呼ばれているのか分からない。
は最近、そう思うことが増えてきていた。
今日も同じだ。織部はずっと
に引っ付いて、他の部員を寄せ付けなかった。誰かが近付こうとすれば目で制し、あまつさえ
を背後から抱きすくめ太い腕の中へ閉じ込める。中学生とは言え成熟した肉体を持つ男によって肩に顔を埋められ、首筋に鼻梁が押し当てられる。そんな明らかな異常な光景が目の前にあっても、
以外は余計な言葉を発しない。
織部明彦が怖いからだった。
けれども
から言わせれば、自分以外の人間が揃って彼を恐れる状況の方が恐怖だった。
ただの中学生に何をそこまで怖がる必要があるのだろう。体の自由を奪われても、
は織部を怖いとは思わない。思えなかった。
だって彼は、狡猾ではない。織部の言葉や行動からは、腹の裡に響くような、鈍く重たい悪意を感じない。
「あのさ、織部」
下校のチャイムが聞こえなくなっても、織部はじっとその場に立っていた。変わらず
をじっと見つめながら陽光を受け、輪郭を緋色に縁取らせその存在を強調させている。
には、初めて会ったあの日から織部明彦に対して説明しがたい心地の悪さがある。
年齢、関係性、見た目、そのものの話じゃない。己の内側にある何かが彼を確かに排斥しているのに、反面で、懐かしさのようなものも感じている矛盾が生む座りの悪さ。
「なんだい? 先生」
が口を開いただけで、織部は恍惚に目を細める。それは中学生が大人を見る眼差しではなかった。もっと違う、粘着質な感情がそこにあるのが
にはどうしてか分かってしまう。人を支配しようとする赤く透き通った目。彼のこの目を、何度も見たことがあると、あるはずのない記憶が言っているのだ。
だから、聞かなくてはならなかった。
「……見つけた、ってどういう意味?」
会話の前後などない問いかけに、織部は「ん~?」とジュースを啜って、ちゅぽ、とストローを口から離した。
その、一瞬の間。
決して油断していたわけではない。けれど刹那、
は自らの視線が、注意が、ストローへ誘導されていたと気が付いた。
瞬きの内に目前に迫る織部の顔があったからだ。
「へえ? 本当に、聞かなきゃわからない?」
常はつり上がった眉が僅かに下げられ、その瞳に力が入るのが見えた。
の体の硬直がとけるよりも前に織部は彼女の後頭部に手を回し、そしてそのまま、林檎の甘い匂いのする唇を近づけて
の唇に重ねた。ちゅ、と子供らしく一度だけ吸い付いたかと思えば、触れた
の唇に付いた果汁の水滴を長い舌でねっとりと淫らに舐めとる。
その感触に慌てて我に返り腕で相手の胸を押し返してみても、嘲笑を零す織部に頭を掴む力を強くされるだけで終わってしまう。熱い舌が何度も押し付けられ、唾液を塗り込むように唇を味わい尽くされ、割り開かれる。空いた隙間から織部の舌が
の咥内にぬるりと入りこみ、未成年らしからぬ手管で
の呼吸と思考を奪い取っていく。
織部の性技に
の力がかくんと抜け落ちると、彼は気を良くした様子で
の腰を掴んで自らの下半身を押し付けた。興奮に勃ち上がった織部の熱量に、
は残った膂力を振り絞り彼の体を再び押し返しにかかる。抵抗というにはお粗末な弱すぎる力だったが、織部はそれを受け入れ、最後にもう一度甘く柔らかな唇を食んでから体を離した。
「……んっ、はぁ……はぁ……」
「ハッ……ハァ……フフッ……」
ようやく解放されても、すでに好き勝手荒らされた
のそこにはじくじくと麻痺に似た織部の感触が残っていた。
掠れた吐息を零した織部が、恍惚に目を細めて
を見下ろしている。
何かを言ってやらねばならない。
はそう思うのに、嬲られた唇は音を奪われたみたいに浅い呼吸だけを繰り返す。
背骨に電流が走っているようで、脳が心臓みたいに収縮してどうしようもなく苦しくて、
の瞳に薄い涙の膜が張る。理由の分からない激情がある。恐怖ではない。嫌悪でもない。歓喜でもない。ただ、ああそうか、と。納得があった。
見つけた。織部はそう言った。
この男は、私を、見つけようとしてたのか。
織部は未だ
が何も言わぬのを良いことに、彼女の鍛え上げられ引きしまった体を前から抱きしめる。
両腕の檻で簡単にすっぽりと覆えてしまう体格差があるのに、びくりともしない体幹の強さを持った
の肢体に、織部は嬉しそうに体重をかけながら拘束を強めていく。
前屈みに曲線を描いていく織部の広く逞しい背中を、煮え滾る夕刻の赤い星が煌々と照らす。
「先生はもうオレから逃げられない、って意味」
これまでに聞かされたことのない低く甘えた声で、織部が囁く。
「……呪われた気分はどうだい? オレにも聞かせてくれよ、なあ、
先生」
次の瞬間、
は男の背後に伸びる大きな黒翼の影を見た。