闇の中で、どこかへ誘おうとする声が聞こえる。
 薄い膜が張っているかのようにその声は酷く籠っていて、はっきりとした言葉までは聞きとれない。だが、私にはそれが私を誘う声だと何故だか分かっていた。
 この闇は夢だ。夢の中の私はこれが夢だと理解している。それでも“何か”に必死に抗おうとしているのだった。このまま行ってしまっては大切なものを失ってしまう。体を思い通りに動かせない癖に、どうしてかその恐怖は思考の中央にあった。
 でも、そうやって僅かな恐怖と感じると同時に、夢の中の私は高揚してもいた。わけもなく腹の奥がじりじりと煮立っているその気味の悪さに頭を振るうと、私を誘う人はおかしそうに笑う。
 口を大きく開けて発せられたような溌剌とした笑い声は、膜を突き破る勢いで暗闇に響かせられた。
 私は、その笑い声に聞き覚えがあった。
 だが、誰のものなのか、思い出せない。
 それがもどかしくてさらに強く頭を振れば、パキン、と何かの割れるような音の後、視界に光が差しこんで意識が覚醒する――
「……ッ、はぁ……」
 瞼を開ければまだ外は暗い。
 額には汗が滲み、ベッドへ接していた背中はぐっしょりと濡れていた。戦闘した後のような体温の上昇に、絶えず荒い息が漏れる。
 上半身を起こし、近くにあったタオルを掴んで顔を拭く。
 そうしてベッドサイドの時計を確認すると、時刻は眠りに入ってから十分後を示していた。
 ――また、だ。
 私はこのところ不眠に悩まされていた。

 元々、魅了という精神異常が効かない体質ということもあってか、私は病気にもかかりにくかった。
 かつて国に仕えていた時代にかかった医者には「恐らく人体に備わったあらゆる耐性値が高いのだろう」と言われていたし、だから当然、不眠症に悩まされたことだって今まで一度もなかった。
 それが突然、思うように眠れなくなった。寝つけても、夢のせいで数十分も経たずに起きてしまう。
 何が原因なのか思い当たるものも特にない。今の騎空団にお世話になるようになってこれまで以上に健康にも気を遣ってきた上、団員の作る美味しいご飯のお陰で栄養だって十分にとれているのだ。むしろ、肉体自体は以前よりも元気といえた。
「……依頼、どうしよう」
 そんな中で、私は病状を団長に相談するか悩んでいた。
 その理由の大きな一つは、明日からの遠征依頼についてきて欲しいと頼まれていたためだ。
 依頼内容は決して珍しいものではない。島の中心から洞窟までの道中に出てくる魔物たちを泊りがけで討伐していくというものだ。
 しかし、その道筋にいささか問題があった。
 森や岩場の多いその島は、迷路のように道が入り組んでいて洞窟までの進路と村までの帰路が分かりにくい。
 そこで白羽の矢が立ったのが私だった。以前、別の依頼でその島に訪れたことがあった私に、案内役としても同行して欲しいと団長が声をかけてくれたのだった。
 勿論、現地の人に案内を頼むという手だってあった。けれど、魔物が出てくる道を共に歩き庇い続けるのは骨が折れる。わざわざ怖い思いをさせてしまうのも忍びない。となれば私は適任だったのだろう。
 だからこそ、今、もし団長に相談したら。
 団長はきっと休めという筈だ。もしかしたら私が原因で依頼を断るということもあるかもしれない。というよりそれだけで済めばまだマシだった。むしろ団長は先の依頼を蹴ってまで、私の不眠の原因を探る調査に出かけてしまいそうだとさえ思える。
 私にとってそれは最善ではなかった。
 そもそも、私が我慢すればいい話なのだ。幸い体は丈夫な方であるし、不調自体もまだ誰にも悟られていない。
「……団長には、内緒にしておこう」
 だから結局、相談はせずに素知らぬふりをつき通した。黙っていても治れば問題ないのだと自分に言い聞かせて。


 ::


 討伐依頼を無事終え、グランサイファーが停めてある発着場に向かう道でのことだった。
 ぐらり――急に視界が揺れ、たたらを踏む。
 思いがけない事故になるべく音を立てずに体を停止させたつもりだったが、すぐ隣を歩いていた団長は目ざとくそれに気付いた。
「……? どうしたの? 具合悪い?」
「いや、大丈夫……」
 泊りがけの依頼。当然場所が変わっただけで満足に眠れるわけもなく、連日の睡眠不足は続いていた。
 剣技に問題はなかったため、体の基礎は元気なのは分かっていたがどうやら脳の疲れが取れていないらしい。
 頭を振って答えながら団長と視線を合わせへらりと笑う。
 私の繕った返答に団長は眼差しをキッと強めたが、それ以上言及してはこなかった。
「団長、ごめん。ちょっとゆっくり歩くから、先行ってて」
「……無理しないでね、
「分かってる」
 曖昧に笑って、数歩後ろに下がる。パーティーの一番後ろについて、その背中を眺めながら歩き出す。
 時折、団長が心配そうに振り返るので、また笑って返す。
 この依頼の完了報告が終わったら、いよいよ医者にかかるべきかもしれない。未だふらつく視界に自嘲しかけた――刹那。
 鼓膜を揺らした翼音。
「……ッ!」
 反応が遅れたことは自分でも分かっていた。
 切羽詰まった団長の叫び声に急かされるように、音のした方へ振り返ろうとして――ぐらり。再び足元の床が崩れていくような感覚。
 まずい。
 そう思っても、疲れ切った脳みそは私の体に適切な信号を送ってはくれない。
 目の前に鋭い鉤爪を振りかざしたグリフォンが見えた。大きな琥珀色の瞳が私をその芯に捉える。
 瞬時に状況を理解した仲間たちが私を庇うように立ちはだかる。
 けれども、動かない的を射抜くことは高い知力を持つ鷲にとってそう難しいことではない。
 するりと人の壁を縫ってみせた固い爪は、その先端を私の胸元へ容易に到達させた。上半身を覆う鎧ががつんと大きな音を立て、肩の継ぎ目から裂けていく。
 倒れる直前、一瞬、瞼の裏側が赤く染まった気がした。

「……なあ」
 ぐらぐらと足元が揺れている。
 それは地面が柔らかいもので出来ているという感覚ではなく、己の体内を巡る血液が体の片方に偏っているかのような不安定さだった。目の前は真っ暗で何も見えない。だが、声が聞こえてくる。
「オレの名前を呼んでくれないか」
 声の主は近いところから私へ呼びかける。私にはそれが、あの笑い声の主であるとすぐに分かった。しかし、相変わらず相手が誰かはわからない。聞き覚えがあるというのに顔はまるで浮かんではこないのだ。“オレ”という一人称と低い声から男性だとは察せられたが、それだけだ。
 だから、相手の名前を呼ぶことは出来なかった。そのことを申し訳ないと思いながらゆっくりと首を振るえば、私の頬に彼の左手が添えられる。
「……キミは本当に、焦らすのが上手いな」
 私の返事がないことに、男は気分を害した様子を見せなかった。
 むしろ機嫌が良さそうな素振りでそう言って、私の唇をそっと撫でてみせる。不思議と嫌悪感はない。
「早く、オレをキミの中へ招き入れてくれよ」
 こちらが拒否を示さないと分かると、彼は親指で私の唇を押しこみその第一関節を咥内へ悠々と侵入させた。そうしてしなやかな先端が上下の歯の隙間を通り抜けたかと思えば、指の腹で舌をぐっと押しこまれる。
 力任せのそれに、呼吸が苦しくなる。
 思わず喘ぎそうになり瞼に力を込めれば、途端――覚醒した嗅覚を刺激したのは薬品の冷たい匂い。

「……うっ…… ん……?」
 そのまま開けた視界の先に見えたのは、白い天井だった。
 ずきん、と痛む頭を抱え上半身を起こせば、ここが自室のベッドの上だと気が付いた。つんと鼻をつく薬品の匂いは肩から腕をぐるりと覆うように巻かれた包帯の下から漂ってきているらしい。
 片袖の引きちぎられたインナー姿の自分を確認し、ふと周囲を見渡せば脱がされたであろう鎧はベッドの脇に立てかけられていた。
 騎士の誇りでもある鎧は剣の次に大切なものだ。あれから無事であったかが気がかりだったが、どうやら団長たちが弾け飛んだ部品まで拾って持って帰ってくれたようだ。軽く見た限り、修繕の必要はあれど大幅な作り直しまでは必要がなさそうであった。
 鎧の無事にひとまずほっと胸を撫でおろすと、直後部屋に響いたのはコンコン、というノックの音。
 それに「どうぞ」と声をかける前に、遠慮なく部屋の扉が外から開かれた。

「おや? お目覚めでしたか、さん」
 狐のような雰囲気のある整った顔立ちをした銀髪の青年が、隙間からひょこりと顔を覗かせて言う。
「シャオ……?」
「はい、どうも。ご存じシャオです。僕の顔を判別できるくらいには回復したんですねぇ。それはよかった」
 エルーンの青年――大きな薬箱を背負い、静かに扉を閉めてこちらへ入ってきたその人は騎空団の仲間の一人でもある薬師のシャオだった。
 シャオは私と顔を合わせるなりニコリと笑って頷くと、ドアの隣へ薬箱を置いてこちらに近寄った。
「肩の調子はいかがですか?」
「これ、そんなに大きな傷だったの?」
さんの反射神経と鎧が優秀だったお陰で、痕は残らないと思いますけどね。その分衝撃を関節が吸収したのか、脱臼してました。もう元には戻してありますが」
「そうだったんだ、ありがとう」
「いえいえ、僕はこれが仕事ですから……と、目も覚めたみたいですし、包帯取り替えますね」
 薬箱から軟膏と包帯を取りだしたシャオが私の肩に手を添えた。
 すでに巻いてある包帯をゆっくりと解くその顔は真剣で、口調こそ飄々としている彼が心の奥では静かな覚悟を持って治療に向かっていることを伝えてくれる。
「でも、シャオが居てくれてよかった。ここ最近は艇に居なかったでしょ?」
「そうですねぇ。薬の材料を調達しに各地を回ってましたから」
 一度島を離れると医者にかかることが難しい空の旅では彼のような治療の知識を持った存在が必要不可欠だ。だが、騎空団の仲間として活動する傍らで、薬の行商としてもあちこちを飛び回るシャオが艇に居るのは珍しい。私は運が良かったな。そう思って何気なく呟いた言葉であったが、シャオは一度首肯してから軟膏を塗る手を止めて、神妙な顔をしてみせた。思わず注視してしまうと、彼の視線がこちらを向く。
「けれど、さんが怪我をしたと聞いて僕は驚きましたよ」
「え?」
「珍しいこともあるもんだなぁって。僕を呼びに来た団長さんの様子もいつもと違いましたし……」
「……そうかな」
「それに、これは起きてからさんと話そうと思ってたんですが……本当に酷いのは怪我じゃない。その原因……ですよね?」
「……」
「貴方は今、不眠に悩まされている」
 医学に精通している者の目は誤魔化せない。その証拠にシャオは私の返事を待ってはいなかった。
「シャオにはなんでもバレちゃうな……」
 小さくため息を零すと、同じようにため息で返される。シャオはやれやれと肩を竦めて続けた。
「僕以外に隠せていたのがおかしいんです。正直、脱臼なんかよりもよっぽど深刻ですよ。今回のことだって、貴方だからこの程度の怪我で済んだ。もう何日、十分な睡眠がとれていないんですか?」
 いつの間に処置を終えたのか、シャオは「はい、包帯も巻き終わりましたよ」そう言って白に包まれた肩に優しく触れると、私の顔を覗きこんだ。薄っすらと開かれた蒼の瞳が諭すように私を射抜いている。
「不眠を解決する薬は出せます。でも、あらゆる病気に耐性の強いさんがかかる不眠だ。まず通常と原因は違うと思ったほうがいいでしょう。何か心当たりはありませんか?」
「心当たり……」
 ここ最近、変わった出来事はなかったはずだった。
 栄養面で言ってもご飯だってしっかり食べているし、休息だって取っている、日頃の鍛錬も勿論怠ってはいない。事実、不調は肉体本体ではなくその内側や脳に出ているという感覚の方が近かった。
 眠れないのではない。起きてしまうからこそ生じる不眠。であるならば、なぜ目が覚めてしまうのか。
 ――夢。
 そうだ。夢を見る。心当たりがあるとしたらこれしかない。眠りに落ちたときに必ず見る夢。闇の中で誰かが私をどこかへ連れて行こうとしている夢。これを見始めてから、私は不眠に悩まされるようになった。ではいつからそれを見るようになったのか。
 私は無意識に、左手の薬指を撫でていた。 
「至極の、指輪……」
「……至極の指輪って、魔力が付与された装飾品の中でも特に貴重な……あの赤い指輪のことですか?」
 魔力を持つ宝飾品。
 団長からの贈り物だと言って、堕天司の男が渡してきた指輪。
 どうして思い至らなかったのだろう。手を取り合って指輪の効果を発揮させたあの日からだ。闇を彷徨う夢を見るようになったのは。
「団長から貰ったと言って、至極の指輪を渡されたんだ。それを二人で使ったとき、相手の魔力が私に入りこんできて……」
 人に魔力を分け与えたりすることは何も珍しいことではない。実際に、他者へ施す魔法の一種であるヒールやクリアはその応用の形を取っている。
 だがその場合、他者の体に混ざり合った魔力は時間の経過と共に消滅する。体における割合の強い方の魔力に浄化され、負けた方の魔力は空気に溶けて消えていくのだ。
 けれど、それは所詮人間同士での話だった。相手が堕天司なら、一体どうなるのか。

 “。キミがオレに寄ればいい”
 ――あの時、確かに男はそう言った。

「一体何の話です?」
 シャオは怪訝な顔をして私を見ていた。
 その目に、言いようのない不安が心を過る。何か重大な食い違いが起きていると、続く言葉を聞かなくても分かったからだ。
「相手って……覇業や至極といった指輪はすべて、一人で使うものでしょう?」
 それがどんな食い違いであるか、聞けばきっと私は追い込まれる。けれども問わないわけにはいかなかった。
「……“一人で使う”?」
さん……貴方の指にはめられた至極の指輪を、誰の魔力で壊したんですか」
 拘束の鎖は途切れぬまま薬指の根元を這っている。
 蛇に似た男。黒い翼の元天司。酷く容貌の優れた堕天司の男。奴は狡知を司る。生まれたばかりの生命を弄んだその両手で、気まぐれに愛を掬っては、何者でも埋められぬ空虚な心を自覚し愉快に笑う男。
「堕天司――ベリアル」
 その名を呟けば、瞼の裏がチカリと赤く光った。スイッチが切り替えられるように、あるいは、切られるように。それは私の体の中に、未だかの魔力が棲み付いている証明だった。
 知覚すれば、腹の底が重たい唸りを上げ始める。沸々と煮立つそれはあっという間に私の思考を奪うことに成功した。
 オレの名前を呼べ――そう奴は言っていた。恐らくそれはトリガーだった。目覚めさせてしまった。引きいれてしまった。この身に眠っていた、あの男の残滓を。
 体が熱い。
「……はっ、はあー……ハッ、ぁ……」
 いつにない私の異変に瞠目しながら、シャオはすぐさま額に手を当て、その熱さに勢いよく身を引いた。
さん! 今団長さんを呼んできます! しっかりして!」
 分厚い水の膜に遮られるみたいに、その声は遠くから聞こえてくる。答えなくてはと思うのに、瞼は勝手に下りていく……。

 全身が熱い。燃えてしまいそうだと思った。
 バタバタと数人の足音が聞こえる。団長が誰かに怒っているようだ。聞きなれない怒鳴り声に、自然と耳を澄ませてしまう。
をどうするつもりだ」
「どうするつもりも何も、オレは彼女を助けてやろうとここにいる。じゃなきゃこのタイミングでのこのこ姿を現したりしないだろう?」
 そうして前触れもなく鼓膜を揺さぶったのはベリアルの声だった。低く、どこか籠ったような湿度のある声。その声に、妙に落ち着いてしまう自分の体があった。頭ではそれが腹の奥をたゆたう魔力のせいだと分かっていても、思わず笑ってしまいそうになる。
「いいのかい? ここでオレを追い返して。このまま放置したらは死ぬわけだが」
 顔が見えない分、男の声から伝わる感情の情報は多く感じた。団長を馬鹿にするような響きではあったが、多分、嘘は言っていない。そういった機微に敏い団長も察したのだろう。今、この男を帰したらどうなるか。怒りを必死に抑えて黙り込む団長に対し、再びベリアルが口を開く。
「この場はオレにしか治められない。キミにだって分かってるはずだ」
「ふざけるな! 元々は貴様が撒いた種なのだろう!」
「ハァ……落ち着けよサンディ。オレは今特異点と話しているんだ。なあ、特異点。この始末はオレに任せてはくれないか?」
 サンダルフォンの声だ。見舞いに来てくれた嬉しさよりも、また迷惑をかけてしまったという申し訳なさが勝る。あとで謝らなくちゃな、と私がぼんやり考えていると、先ほどよりもいくらか落ち着きを取り戻した様子の団長が声を荒げるサンダルフォンを宥め、ふう、と息を吐いてから返事を告げた。
「……約束しろ。を死なせたりしないと」
「フフ、安心しろよ……それはオレも本意じゃない。悪いようにはしないさ」
 場に漂う雰囲気だけで、団長たちが納得していないことは分かっていた。それでも今はベリアルに任せるしかないと決断したのだろう。二人の足音が去っていくと、私の方へ、残った一人の気配が近づいてくる。
「キミのナカは最高だ。こんなにも熱くて、蕩けていて、それでいてオレとは正反対の性質を保っている」
 意味深に魔力の話をしながら、ベリアルは私の腹筋をインナーの上からなぞった。本来の主に引っ張られてしまうのか、つう、と指の滑ったところに腹を渦巻く鈍い魔力が集まって熱の塊を作り上げる。
 ぐつぐつと沸騰する魔力に合わせて、堕天司が喉を鳴らして笑う。
「ここにあるのは何か……キミには分かるかい?」
 ベリアルは下腹部に溜まったそれを愛おしげに手のひらで撫でると、甘い声でそう呟いた。
 刹那、色の付いた生暖かい吐息が無遠慮に顔に浴びせられる。
「愛だよ、愛」
 ――微かに、唇に何かが掠めた感触があった。


「やあ、。ご機嫌いかがかな?」
 ぱちり。
 次に目を開けると、一面に広がったのは厭味ったらしいまでに整った男の顔面だった。
「最悪だよ」
「だろうな」
 ハハハ! と無邪気に笑う男の声は、夢で聞かされたそれと相違ない。分かりきっていたがやはり犯人はこいつであった。ベリアルのことは嫌いじゃないが、不眠によってもたらされたストレスは簡単に許してやれるものではない。体を巡っていた高熱はすっかり鎮められていたが、それはそれだ。
 はあ、とこれみよがしにため息を吐いてやれば、ベッドの余白に横向きに座っていたベリアルはわざとらしく肩を落としてみせる。
「キミがあんまりにもオレに助けを求めないものだから、オレも少しばかりムキになってしまった。反省してるんだぜ? これでも一応」
「だからって……もっとやり方はなかったの?」
「これでもないほどに最高のやり方だったと思うが? その証拠に今こうしてオレは得している」
「ベリアルではなく、私にとって」
「ああ、そういう。そこまで考えちゃいなかったな。だってキミはオレが何をしたって嫌いにならないんだろう?」
 赤い瞳に堂々と貫かれ、反射的にひるんでしまった。
 確かに、嫌いにはならない。ベリアルにもそう言ったし、前言撤回するつもりはないけれど。自信満々に本人から言われるとは思ってもいなかった。何気なく踏みだした一歩が、思いがけずベリアルの土地を踏んだ感覚に戸惑う。しかも、今のは、招き入れられたような、そんな。
 私は思考を切り替えてベリアルに問うた。
「……団長は? 怒ってなかった?」
「特異点? キミが死にかけたのがオレのせいだと知ってオレを殺そうとしてきたが、それくらいだな」
「ベリアルのせい?」
「キミは当事者だからとっくに気付いているだろう? オレがの体の中に燻っていた魔力を夢の中から目覚めさせようとしていたことを。そしてオレの願いが通じ、キミはオレの名を呼んで、魔力による熱暴走を起こした」
 ベリアルは歌を謳うようにそう言って綺麗に口角を持ち上げてみせると、鷹揚に立ち上がった。
 私の隣まで歩を進め、見下ろすように顔を近づけられる。
「でも、夢の世界になんてどうやって……」
 言えば「ああ」とベリアルはおもむろに私の左手を掴んだ。白く長い男の指が、薬指の根元をぐにゅりと揉みこんで離される。
「オレたちには“繋がり”があるだろう。切っても切れない鎖の縁が」
「……これだけで?」
 蛇の痕。ベリアルの手つきを真似るようにもう一度揉みこむと、根元がほんのりと赤く色づいた。痛みはないがずっと見るものでもないと視線を上げれば、今度は堕天使の赤が私を出迎えた。
「そういえば言い忘れてたな。前にキミに言った指輪の決まり事はすべて嘘だ。薬指は魔力の通り道ではなく、契約に使われる。キミとオレは契約で結ばれた仲だったというワケさ」
 ベリアルが笑う。
 裏があるとは思っていたが、まさか全部とは。嘘が上手いな、と素直に関心した。やられたことは決して褒められたことじゃないのに、怒る気にもならず感情の行き場を見失う。
 返す言葉も失い無言になる私に、ベリアルは鼻を鳴らして言った。
「フッ……オレを嫌いになったか?」
 視線は重なったまま。
「え? ……いや、別に」
「へえ。そうかい」
 不意に、逸らされた。

 その瞬間、今までのベリアルとの記憶が走馬燈のように頭になだれ込んできた。かつては確かに殺しあったはずなのに、そんな記憶は最初の一枚二枚。抱いていたはずの憎しみや恨みを探すのが難しいくらいに、どうでもいい日常の記憶がその上に山ほど積み重なっている。
 馬鹿だな、と思った。離れられるタイミングなどもう手の内にはない。それに気付いていないのは目の前の堕天司だけだ。
 愛だ。
 そう私の頭の中で吠えたのは誰であったか。
「呪いさ。キミはもうオレから逃げられない」
 逸らした視線を私に戻し、己の薬指を撫でて囁くベリアルは流暢だった。けれど、そんなものは詭弁でしかない。私にだって簡単に封じることができる。
「それはベリアルもでしょ」
 手を掴む。乱暴に振りほどかれて、めげずに掴み直す。二度は振りほどかれなかった。
「私から、逃げることはできない」
 ベリアルはもう笑ってはいない。陶器みたいな顔色で、人形みたいに美しい表情で私を見ている。
「例えそれが果てのない穴の底でも、キミはついてくるって言うのか」
 それは酷く小さな声で零された。
「いいよ、どこへでもついていく」
 多分、言葉は脳の検問を通っていなかった。それほど素早く、思考がそのまま音となって空気を揺さぶった。
「……ハハ……フフフ……」
 ベリアルは小さく肩を震わせて力なく笑うと、やがて天を仰いで大声で笑った。そうして酸素を吸いこみ尽くすのではないかというくらい笑い続け、それが落ち着いたころ。ベリアルは掴まれた手の上から自分の手をそっと被せた。
「それがどれほど険しい道でも?」
「……案外近くに出口はあるかもしれないし」
「でもその保証はない」
「出られないって確証もない」
 何度聞かれたって答えは同じだ。それでも私の言葉の何かが、彼には納得できないみたいだった。
「そういうの、イカれてるって言うんだぜ」
 極めて真っ当な意見を述べるベリアルにいつの間にか立場が逆転していたことを知る。
 となれば私から言えることは、もはやこれしかないだろう。

「何言ってんの? 愛だよ、愛」
 とびきりの笑顔でそう言ってのければ、握られた手のひらごと力任せに引っ張られる。慌てる私をよそに、酷く余裕のない顔をしたベリアルが歯を立てて私の唇に噛み付いた。


勇者は人のふりをする