※至極の指輪に関して全面的に捏造しています






 連日の活躍もあり、ここ最近は有りがたいことにシェロカルテを通して我が騎空団に来る依頼の数が急激に増えていた。しかし活発に働く団員たちとは裏腹に、いつもより静かな空気に包まれたグランサイファーは少し寂し気な様子で佇んでいる。それもその筈、依頼が増えたことにより長期間艇を離れる人間が増えたのだ。私も例には漏れず、馴染みの団員たちとあまり顔を合わせない日々が続いていた。
 数件の依頼を済ませ騎空艇へと戻ってこられたのは、一度離れてから三週間後のことだった。艇に乗りこむと甲板まで足を運び、思いきり息を吸いこむ。見慣れぬ場所から故郷へ帰って来たかのような安心感がここにはある。だがそうして一息ついたところで、いつもどこかほんのり感じられる団長の気配がまるでないことに気が付いた。
 団長と入れ違いになったのだろうか? なにせ団員がこの忙しさの中にあるのだ。当然、団長はそれ以上に忙しいだろう。私が艇を出る前、団長は次の依頼でどこに行くと言っていたか――と思考に耽り、こうして“この発着場”にグランサイファーが停まっている意味を思い出し首を振るう。どうして忘れていたのだろう。
 ――そうだ。
 団長はいま、休暇の真っ最中だ。

 ちょうど私が依頼で居なかった間、全空の騎空団が一堂に会する古戦場と呼ばれる催しがあった。そして我が団の団長は、この古戦場に参加した際はお決まりのように討伐報酬受け渡し日から数えて短い休暇を取る。今回も開催初日から日付を照らし合わせてみれば時期はぴったり合致する。
 ただ、どこに行くかまでは聞いておらず、また私には思い至ることも出来なかった。

 結局そうして結局ひとり首を傾げていると、刹那、背後から聞こえたバサリという大げさな羽音。
 見るまでもなく大きな黒い翼を持つ男の姿が脳裏を過った。その映像の鮮明さに、いつの間にかすっかり聞き馴らされてしまったと心の中で苦笑しながら視線を後ろへと流す。
 案の定というべきか――そこに居たのは想像に浮かべた通りの造形をした、ベリアルという男だった。
 童話に登場する天界の者とはかけはなれた艶やかな黒翼を、かつては確かに天司であっただろう男が思わせぶりに解いて背へと仕舞う。あれだけ大きな音を立てて羽ばたいていたというのに、その動作ではまるで音がしないのが憎たらしい。
 空を掴めるほどの立派な翼が体のどこに収められているのかは分からないが、そうして一見普遍的な人間の様相を取り戻したベリアルは「久しぶり」とこちらへ気さくに挨拶を口にすると、一拍おいてから湿度の含んだ声で続けた。

「特異点なら今頃シィラス島でバカンスの真っ最中さ」

 告げられたそれに思わず顔が歪む。まるで直前のこちらの思考を読んだかのような発言だったからだ。だがその事実に私が眉を顰めれば顰めるほど、ベリアルの目は愉快気に細められていく。
 以前にも似たようなことがあった気がするが、この男は人の顔色を窺うことに長けすぎているのではないか?
 そう思っていると、おそらく、それすら筒抜けなのだろうとすぐさま理解した。
 ベリアルが小さな声を出して笑ったからだ。
「特異点を探しているのかと思ったんだが、違ったかい?」
「……違わないけど」
「それとも、オレの言葉が信用できない?」
 大仰に肩を竦めてベリアルが言う。おどけたピエロのようなわざとらしい問いかけだった。
「別に……そういうわけじゃない」
 けれどもそれを即座に否定すると、ベリアルは今までの楽しそうな雰囲気を乱暴に床へと落としてどこか不満そうな顔をした。こちらの感情は大半が筒抜けなのに、ベリアルという男は相変わらず何が引っ掛かるのか理解が難しい。
 しかし、かといって特段機嫌を損ねたわけではないようだった。特徴的な紅い目には、すでにいつもの軽い調子が貼りつけられている。
「今の季節、その島では美味と噂の海産物が食せるらしい。出て行く前、ここの料理番のエルーン三人組と楽しそうに話していたよ」
「へぇ、そうだったんだ」
「彼らはここから出る定期便で島へと渡ったが……何なら今から後を追いかけてもいいんじゃないか?」
「それはいいよ。団長にはゆっくり休んでもらいたいし」
 堕天司の口から出たとは思えない真っ当な提案に即座に首を振ると、ベリアルは意外だとでも言いたげに瞠目した。
 だって私が今団長に会いに行けば、団長は私から依頼完了の報告を聞かなければならない。貴重な休日を使いわざわざ海へバカンスに向かったのに、そんな幸せな空気に浸っている団長に仕事のことを思い出させるのは私も本意でなかった。
「……キミが居るとそれが叶わない?」
「かもね」
 だから素直に頷くとなぜだか「ハッ」と鼻で笑われる。けれど、それは私の肯定に対する同調ではなく、ただ純粋にその返しが面白いと感じたが故の反応である様子だった。
「なんだ、やけに謙虚じゃないか」
 笑いをのせたままの声色でベリアルがのたまう。
 そんな憎たらしい笑顔の後ろに見える空をぼんやりと眺めながら、私は答えた。
「ベリアルも」
「オレがどうしたって?」
「どうしてついていかなかったのかなって」
 問えば、ベリアルは僅かに背を反らせて胸を張った。
「その理由は一つだ、。なにせ、オレはキミに用があった」
 男にしてはやけに白く美しい形をした指が宙に一本立てられ、ゆっくりと左右に振られると、やがてその先端がこちらへ向いて固定される。
「用?」
「ああ。他でもないあの特異点から、キミにと頼まれごとをしてね」
「……団長がベリアルに?」
 今度は流石に自分でも、考えたことがそのまま顔に出てしまったのが分かった。
「ハハッ! こればかりは意外かい?」
「正直……そこそこ意外」
「だろうな。オレもそう思う」
 ただ、ベリアルも同じ感想を抱いていたらしい。
 私と似たような顔を浮かべて神妙に頷いてみせると同時に、その時の団長を思い出しているのか、ほんの一瞬、眉が僅かに傾いて戻された。
「まあ、何もタダで請け負ったワケじゃないから安心してくれ。それに用向きと言っても大したことじゃない。非情に残念だが、特異点もそれが分かっててオレを選んだんだ」
「もしかして……ベリアル、また暇そうにしてた?」
「はあ? キミでもなけりゃ、そう簡単にオレを呼びとめたりしないさ。他の連中が鈍すぎるんだ」
 そう言って一度目を逸らしたベリアルは、上げていた手をひらひらと揺らしてから下ろし、再びこちらを見やって続ける。
「さて……早速だが用事を済ませるか」
「すぐに終わるの?」
「ああ」
 ならば心構えをする必要も特にないだろうとベリアルの様子を窺うと、彼は何かを確認するみたいに周りをきょろきょろと見渡したあと眩しそうに目を細めて言った。
「だが、そうだな……場所を移そう。こんな天気だ。日差しが当たらない場所が良い」
 言われてから、普段は意識せず感じられている涼しい風がないことに気付かされる。途端に、止まっている騎空挺での容赦ない日当たりに猛烈な暑さを感じ、身にまとう鎧の内側に汗がじわりと滲む感覚が一気に頭を支配した。その脅迫から逃れたく身じろぎすると、かちゃり、と腰に差した剣が微かな音を立て己の存在を知らせる。そういえば、今日はまだ剣の手入れを済ませていなかった。
 となれば、向かう先の候補にあの場所を挙げてもいいかも知れない。
「……じゃあ、武器庫にでも行く? 今なら誰も居ないだろうし、私もついでに剣の手入れがしたい」
「オーケイ。案内は頼むよ」
 片手を上げてすんなり了承を寄こした目の前の男は、口角を上げて綺麗に微笑した。


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 艇の奥へ進みほどなくして辿り着いた武器庫の扉を開けると、予想していた通りそこには誰も居なかった。
 今日こそひとけがないものの、普段はそこそこに人の出入りのあるその場所は、小さな窓が一つしかないにも関わらず埃やカビの匂いはなく、代わりに鉄錆びや火薬の焦げたような香りが染み付いていた。
 私は背後に付いていたベリアルが部屋へ入ったのをみとめると、静かに扉を閉めた。次いで部屋の中央に位置する大きなテーブルに腰の剣を置き、端にあった木椅子をふたつテーブルの近くに持ってくると、何も言わずにその片方をベリアルが受け取った。
「こんな場所があったとはね。イイじゃないか、快適だ」
 かこん、と床に置いた椅子に腰を下ろした男が呟く。
 そんなベリアルに背を向け、私も彼に倣い椅子を適当な場所に配置してから、今度は倉庫の棚から必要なものを取りだしていく。
「入ったことはなかった?」
「興味がなかったからね。武器の類を愛でる趣味はオレにはない」
「ふうん……」
「勿論、武器を愛でる人間そのものは嫌いじゃないが……オレ自身、物に愛着をもてないタチでね」
 言いきると、ベリアルは不意に黙りこむ。
 それを不思議に思いながら砥石や羊毛などを手に持ちテーブルに戻る。
 すると、私の到着を待っていたかのようなタイミングで、熱を帯びた息をこれ見よがしに吐いた男が、机上に置かれた剣の鞘をつうと撫でた。
「捨てるのが惜しくなったら困るだろう?」
「…………困る?」
 ハハハ、と大声で笑うベリアルに、少し思考する。けれども、何がそこまで面白いのかまるでわからない。
「捨てなければいい話だと思うけど」
 だから、素直に思ったことを口にしたのだが――私の言葉がまた彼のツボをついたようで、部屋に木霊する笑い声がさらに大きくなる。
「ハハハッ! それもそうだ! またひとつ勉強になったよ。アリガトウ、
「……その言葉、喜んでいいの?」
「何を躊躇う必要がある? 喜べよ。オレが感謝を述べる機会なんて、そうそうあるもんじゃない」
 少なくとも偉そうに足を組んで言うようなことでもない気もしたが、とりあえず納得した素振りを見せておく。これ以上何かを言い返しても得られるものがなさそうだったからだ。

 そうして気持ちを切り替えた私は間を置かずに、己の剣へと手を伸ばして――しかし、途中で動きを止めた。
「先に団長からの用事を済ませたほうがいい?」
 その挙動の意図は、言葉がなくともベリアルも分かっていたのだろう。男は手のひらを上に向け剣を指しこちらに先を促すと、僅かに顔を傾けて返した。
「気にせずどうぞ。その代わりと言っちゃなんだが、キミがこいつを手入れをするところをオレも見ていても?」
「それは構わないけど……なんか、ごめんね。この時間にベリアルがすることないって忘れてた」
「フッ、いじらしい顔で何を言うかと思えば、そんなことか? それが嫌なら最初に断ってるさ。キミには理解できないだろうが……オレにとって、この時間は貴重なんだぜ?」
「……? まぁ、ならいいんだけど……」
「ああ、いいんだ。さぁ……よく見せてくれ」
 上を向いた手のひらが、小指から手招きするように滑らかに丸められテーブルの下へと隠される。
 少し悩んだが、ベリアルの言葉に甘えて私は手入れを開始することにした。

 両手のガントレットを外し素手になってから、ゆっくりと鞘から剣を抜きとる。
 そして、刀身についた汚れを丁寧に布で拭きとって、砥石をかけていく。
 傷のついた部分に当たるたび、しゃり、しゃりという音が、じゃり、という鈍い音に変わると砥石の面を変えて強く撫でつけた。
 それを何度も繰り返し、やがてどこを研いでも小気味良い音がし始めると、最後の仕上げに羊毛に油をまぶして刀身を再度拭いていく。
 ベリアルはそこまで黙って見ていたが、剣が先ほどよりも明らかな輝きを見せ始めたころ、ほう、と吐息まじりに呟いた。
「流石に手慣れたものだな」
「騎士になる前からの日課みたいなもんだし……」
「そうかい」
「ベリアルの剣はいいよね。出すたびに新品で」
「これはこれで面倒なところもあるんだ」
 パチン、とベリアルが指を鳴らすと、どこからともなく大振りの剣が宙に現れ、もう一度指が鳴らされると残滓も残さずに空間に消えていく。
「……それに、これはキミたち騎士の剣とは別物だ」
「どういう意味?」
「オレの剣は愛着もないただの道具だ。だが、キミの剣はキミの手足ともはや同等だろう? 失っては困るもの。キミにとって剣を失うことは四肢をもがれるのと同じだ。違うかい?」
「……剣を失った騎士は弱いという話?」
 私が怪訝な顔を寄こすと、ベリアルはそんな私をじっと見つめた。
 血を固めたような虹彩が真っ直ぐ向けられる。
「いいや。そう聞こえたなら謝るよ。オレが言いたいのは、急所を増やすという行為が時に人を強くするということがある、という話だ」
 発せられたのは、驚くほど静かな声だった。
 抑揚の抑えられた含みのない声。思わず顔をまじまじと見返すと、口もとは確かに弧を描いているのに、目は全く笑っていなかった。
 初めて見る顔だ、と冷静な頭が指摘する。
 けれどその表情の理由を考えると同時に、普段は気にもしない堕天司の整った造形を改めて認識し、妙に落ち着かない気分になる。
 何か言い返そうにも、上手く口が動いてくれなかった。
 そんな私の反応を見てから、一拍遅れて、ベリアルは猫のように目を細めた。
「本当にそそるよ……最高にね」
 その声はいつものベリアルだったから、私はまた堕天司の気まぐれに付き合わされたのかと肩の力を抜いた。

 一度大きく深呼吸をしてから、中断していた作業を再開する。
 余計な油を拭きとって、剣を空に翳し表面の照りを確認してから鞘に納める。
 しゃきん、とそれっぽい音が鳴ったのを聞き届け、私はベリアルを見やった。
「えっとー……待たせてごめん」
「さっきも言っただろう。有意義な時間だった。キミは大事な物をああやって扱うんだな、参考にさせてもらうよ」
「…………何の?」
 手入れの済んだそれを腰のベルトに戻しながら首を傾げても、ベリアルは曖昧に笑って返答をはぐらかす。どうやら教えるつもりはないらしい。
「さてと」
 それからベリアルは、私が座りなおしたのを見るとおもむろに立ちあがった。そのまま長い足で数歩距離を詰めたかと思えば、覆うように私の顔を覗きこむ。
 一瞬、顔がぶつかりそうなくらい近づいた距離に反射的にのけ反ると、ベリアルは喉で笑いながら一歩下がって私を見下ろした。
「特異点からの用を済ませようか」
 そう言うとポケットに拳を入れたベリアルは、思わせぶりにその手をこちらへ向けて開いた。
 何が出てくるか僅かに身構えたが――その手の中には、見たことのない赤い指輪が握られていた。リングの中央に金色の装飾が彫られており、見ただけで高価なものだと分かる。
「……指輪?」
 これを、団長が私に? と、虚をつかれ瞬くと、ベリアルは一度頷いて見せた。
「至極の指輪と特異点は呼んでいた」
「これを渡すのが、団長からの頼み事……?」
「ああ。紛れもない特異点から、キミへの贈り物さ。先日の催事で手に入れたらしい」
 催事とは、恐らく古戦場のことだろう。でも、ならば尚更この指輪は貴重なもののはずだ。
 至極の指輪。名前だけなら聞いたことがある。
 特殊な魔力の込められた指輪で、着けたものの力をより引きだすことができる装飾品。高級品で中々市場に出回らないと聞いていたから自分とは縁のないものだと思っていた。
 それを、団長が、私に……。
 嬉しいという気持ちと一緒に、申し訳なさが沸いてくる。同時に、目の前の男がそれを持ってきたという事実に一つの疑問も降って湧いた。
「ありがとう……でもこれ、ベリアルに頼む必要あったのかな」
 浮かんだ疑問をそのまま口にすると、ベリアルは左眉を上げて器用に笑う。この問いかけが来ることは、堕天司も予想していたようだった。
「貴重な品だからこそ、早くキミに届けたかったそうだ。あの特異点がわざわざオレの手を借りたくらいだ、よっぽどだったとキミの方がよく分かるんじゃないか?」
 そう言われてしまえば、納得するしかない。もしかしたら、バカンスに行った団長を私が気にしていたように、団長も私のことを気にしていたかもしれないと思わせられてしまったからだ。
 確かに団長なら、すぐに渡したいと考えるはず。
「用事の内容は分かったけど……タダじゃなかったんでしょう? その見返りは?」
「ハハ! まあそう急くなよ」
 理由に納得できると、今度はベリアルが素直に請け負ったワケが気になった。
 私の問いかけに、ベリアルは楽し気に笑ってもう一度拳をポケットの中に入れた。
 間もなくして出てきたそれが、私の前で再び開かれる。

「見てみろ……ここには、そんな貴重な指輪が二つある」
 見せられた手のひらの上には――赤く光る指輪が二つ並んでいた。

「条件なんて可愛いものさ。キミにこれを渡す代わりに、もう一つ同じものをくれないかと頼んだんだ」
 そう言うベリアルが手を揺らすと、かちゃかちゃと指輪の擦れる音が鳴る。私はベリアルと指輪とを何度も見比べた。たぶん、心底間抜けな顔をしていたのだと思う。
 ベリアルが私の顔を見て、溜息を零したからだ。
「最近はオレも静かにしていただろう? 特異点は素直だから、そんなオレを見て何か思うところがあったんじゃないか?」
「それでもこんな貴重な品をベリアルに……ありえないでしょ」
 言いきる私に、ベリアルは首を緩く振るって肩を竦めてみせる。
「おいおい、断言とは寂しいねぇ。だがまぁ、キミの言葉はもっともだ。オレも特異点のことが心配になったよ」
「……団長を騙したの?」
「いや? 指輪はペアで一つと数えるべきだろうと説いたまでさ」
「……」
「そんな顔をするなよ。嘘は吐いちゃいない」
 私を見るベリアルの目に偽りはない。けれど、疑うまでもなく本当のことも言っていないと分かる口ぶりだった。
 とはいえ実際、ベリアルの手の中には二つの至極の指輪があるわけで……。
 私はお人よしな団長の笑顔を頭に思い浮かべてから小さく嘆息を零し、先ほどの堕天司のように首を横に振ると、目の前の男に視線を返した。
 目を合わせて、手のひらを上にしてベリアルの前に差しだす。
「はい」
 けれどベリアルはにやにやと笑うばかりで、一向に指輪を渡そうとしない。
 不思議に思い首を傾げると、刹那、ベリアルは私の手を取った。
「オレがはめてあげよう」
 するりと意味深に指を撫でられ咄嗟に手を引っ込めようとしたが、思ったよりも強い力で拘束されていて抜けだすことは叶わなかった。
 ベリアルを睨んでみても解かれない。それどころか、奴はどこ吹く風といった調子で微笑み、そのままその場に跪いた。
 いつもは見上げるばかりであった男のつむじが、初めて私の前に晒される。
 無防備だな――と思った。手を取られたままの私もまた、同じかも知れなかったが。
 ベリアルはこちらを見上げると、私の視線を誘導するみたいに繋がった手を見て、それから、一本一本親指で揉みこむようになぞっていった。
 人差し指、中指、と辿った親指が、薬指で止められる。
「至極の指輪は左手の薬指にはめると効果が出ると特異点が言っていた」
「へえ、指の指定があるんだ」
「魔力の通り道として優秀らしい。特別な意味は、ないだろうが」
 フッと瞬きとともに微かに笑ってベリアルが続ける。
「なあ。これはオレからキミへの贈り物だ」
「……団長からでしょ?」
「元はそうだが。特異点から頼まれて、オレが受け取った。オレの物だ。そうだろ?」
「まあ、そう言われたら、そうなのかも知れないけど」
「オレの物を、キミにあげるわけだ」
「……分かったってば」
「フフ、分かればいいんだ」
 やけにしつこく迫るベリアルを適当にあしらえば、最後の一言でやっと満足してくれたのか、奴は私の薬指をもう一度撫でそっとその先端に指輪をあてがった。
 至極の指輪の中央がきらりと光る。
 ベリアルの力によってゆっくりとはめこまれていく指輪は、私の指に合わせたのかというくらいぴったりと指のふちを滑っていく。
 そうして指の付け根で止まると、ベリアルは漸く手を離して立ちあがった。
 魔力の通り道。確かに、自分のものではない力を左手から感じる。しかし、その馴染みのない魔力に何かを思うよりも先に、今度は逆の手が握られた。
 それはすぐに解放されたが、私の手のひらには、もう一つの至極の指輪が乗せられていた。
「今度はキミが、オレにはめてくれ」
「……良いけど……なんで?」
「こういうのは形式が大事なんだ。野暮なことは聞くなよ」
「……はぁ」
 唇を尖らせる堕天司はまるで可愛くないが、たまにはこちらが言うことを聞いてあげてもいいだろうと思い、私もその場に跪いた。
 ――けれど、その瞬間。
 真上から息を飲むような声が聞こえてベリアルを見上げると、奴は右手で口もとを押さえていた。
「どうしたの?」
「……キミは聖騎士だったな」
「そうだけど」
「僥倖だ。キミが廉直な心の持ち主であったことに感謝した」
「……なに?」
「なんでもない。気にするな。ほら、左手の薬指だ。はめてくれ」
 しっしと振られた左手を取って、薬指を掴み指輪をあてがう。
 筋張った、けれどもしなやかなベリアルの指にもまた、至極の指輪はぴったりとはまっていった。
「この指輪も、いわばキミからオレへの贈り物だ」
「……そうだね」
「そうさ。跪いてまで、がオレに贈ってくれた物だ」
 恍惚に呟くベリアルは私が首肯するまでそう繰り返した。この男が変な行動をするのは今に始まったことではない。きっと何か気になることがあるのだろうと適当に頷けば「ハハハ!」とベリアルは笑った。

 特に時間をかける必要もないので、さっさと付け根まではめ終えると、手を解放し立ちあがる。
「アリガトウ、。嬉しいよ。キミからこんなに素敵な物が貰えるなんて」
 ベリアルは己の薬指をつうっとなぞりながら言う。
「あっそう。でも、この指輪……確かに魔力は感じるけど、強くなったって気はしないなー……」
 私はそんなベリアルから視線を自分の手に移して、しげしげと指輪を眺めて返した。
 ただの装飾品にしては、強い魔力を感じる。でも、それだけだ。
 指輪から不思議な力が流れ込んでくるだとか、自分の力が増えたような気がするとか、そういった感覚はまるでない。
 だから単純に疑問に思ったのだが、ベリアルは私の言葉に「ああ」と何かを思い出したような声を出して、私の視線を奪った。
「そりゃあ、ただはめただけじゃ何も感じない。この指輪は、最後に仕上げが要るんだよ」
「……仕上げ?」
「互いの魔力を指輪に流し合ってこれを壊しちまうのさ。その魔力に反応して壊れた指輪から流れた魔力が、肉体に定着する仕組みってワケだ」
 壊す――その言葉に、もう一度指輪を眺める。
 ガラスのようにも金属のようにも見える素材でできた指輪は、やはり綺麗だ。それが壊すことで真価を発揮するだなんて、勿体なく思えてならなかった。
「こんなに綺麗なのに、壊しちゃうのか……」
「イイじゃないか。価値のあるものだけが、壊す喜びを味わえる」
 ただベリアルはそうではないみたいだった。物に愛着を持たないと言ってのける男にとっては、薬指を彩る指輪もただ一時の飾りでしかない。
「さあ、ヤろうか」
 ベリアルが私の左手を取ると、指輪がかちあう高い音が鳴った。
「仕上げだ」
 繋がれた手のひら。
 男の大きな手は、私の手をすっぽりと覆い隠した。
 ぎゅうと強く握りこまれ、ふとベリアルを見上げると、奴の紅い瞳が鈍く光りを滲ませる。
 二つの薬指を飾る至極の指輪によく似た色だった。
「オレの名前を呼んでくれないか」
 その問いは、思考の外から投げかけられた。だから、その名が音となったのは反射行為でしかなかった。
「……ベリアル」
 目の前の紅い瞳がキンと一段と激しく輝く。その瞳は、私を捕えて離さない。
 そうしてその視線を正面から受け止めたとき。
 私の脳裏に初めて、男のこれまでの行為に何か裏があったのではないか――という当然の考えが過った。
 けれども、もう遅い。
「魔力を込めろ、
 常よりも低い声で発せられたそれに従ってしまったのは、その声が。かつて何度も、目の前の男と対峙したときに聞かされてきたものだったからだ。
 しかし――魔力を込めた刹那。
「……っ!?」
 じゅう、という音とともに薬指の付け根に燃えるような鋭い熱が伝わった。
 あまりの熱さに繋がっていた手を離してしまいたくなっても、ベリアルがそれを許さない。
 互いの魔力が手の内側で渦を描く。じりじりと、手のひらが焼かれていくようだった。

 どれくらいそうしていただろう。
 やがて熱さが落ち着きを見せると、パキン、パキン、と何かが壊れる音が二度鳴り響いた。
「中々イイプレイだった。こういうのも悪くないな」
 そう言ってベリアルが手を離すと、私の薬指にはすでに指輪はなく、代わりに蛇のような火傷の痕がついていた。
 蛇の痕は右手でなぞっても痛みはない。水ぶくれのような段差こそあるものの、外側が腫れているというよりは内側が腫れているといった触り心地だった。
「ねえ、ベリア――」
 ベリアルも同じ反応が出ただろうか、と問おうとしたとき。
 突然、目の前がちかちかと明滅し始める。それと同時に、体の奥から魔力が湧き出てくるような感覚があった。重く腹を焼くような、血液が沸騰するような振動は、腹の裏から背骨を通って脳へ到達する。
 その形容しがたい感覚は、体の中に入れてはいけないものを必死に押しだしているもののようにも思えた。
 何か異常が起きたのではと、ベリアルの方を見ようにも光が鬱陶しくて瞬きさえ上手くいかない。
 ならばと思いつく最善の行為として、自分の体内を巡る魔力と湧いたそれとをゆっくりと掻きまぜてなじませていくと、期待通り徐々に沸々とした振動が治まっていく。
 完全に落ち着いてから一度深呼吸をして目を開くと、ほんの一瞬、目の前が赤く色付き周囲の光に溶けていった。
「大した量じゃないとはいえ、平然と飼い慣らしてみせるか……」
「……?」
「まあ、その方がオレにも都合が良いが」
 ベリアルの一声は不意に鳴った耳鳴りにかき消されよく聞こえなかったが、呆れ顔で言われたそれを聞き返す気力もなかったので首を傾げるだけにしておく。
 ベリアルはそんな私をみとめると、優雅な動作で左手を掲げた。その薬指の根元には、私と同様に火傷の痕がついている。奴はそれにうっそりとした表情で口づけると、恍惚の声を漏らした。
「オレたちを繋ぐ、拘束の証みたいだろ?」
 ちゅ、という短いリップ音の後。ベリアルは手を下ろすと私の左手を見つめ、蛇の痕を確認し目を細めた。

「前に……キミはオレを“いいやつ”だと言った。だからオレも、キミの前ではなるべくいいやつで居たかった」
 目の前に立つ堕天司が、誰よりも演技派で、狡猾な男であることは理解しているつもりだった。
 けれど今の私には、真剣な顔でそう言ってみせるベリアルが嘘を吐いているようには見えなくて戸惑う。
 あるいは。嘘であってほしかったのかもしれない。
「だが、キミがキミであればあるほど、それは難しくなる」
 ベリアルが私の手を取って、薬指の付け根に触れた。
「ならどうすればいいか――答えはひとつだ」
 途端、またじわじわと傷痕が熱を帯びていく。
 そこで、気付いた。
。キミがオレに寄ればいい」
 私の体に巡った“あの魔力”は、目の前の男の物だと。

 黙り込む私に対して、ベリアルは変わらぬ笑顔を作った。
 しかし、その顔を見た瞬間。あれほど動かなかった口が勝手に言葉を発した。
 ベリアルは私が怒ると思っている。それが直観的に分かってしまったら、言わずにはいられなかった。
「そんなことしなくたって、嫌いになったりしないのに」
 私の口から出たそれがベリアルの鼓膜を揺さぶると、奴は、笑みを崩して私を見つめた。信じられないようなものを見る目で私を見て、それから大きく溜息を吐いて、眉を寄せる。
 普段あれだけ饒舌に喋る堕天司は、珍しく少し考え込むように口を噤む。
 薄い唇が震わせられたのは、ややあってからだった。

「……天司の贈り物が祝福とされるなら、堕天司からの贈り物は何になるんだろうな」

 そう零すベリアルの顔は、いびつに歪められたままだった。
 私はその表情に――どうしてか、無性に心臓の表面を荒らされた心地になったのだ。


神は見て見ぬふりをする