いきつけのスーパーにてあらかたの買い物を済ませ、残りは飲み物だ、とコーナーへ走り目的の物へ手を伸ばせば、自分とは別の誰かの手が同じものに伸ばされ、計らずも私の手と触れてしまった。
 目当てのものはドクター・ペッパー。
 愛飲している人間は底抜けに愛飲し、苦手な人はとことん嫌うであろう味に癖のあるその炭酸飲料は、人気のゆがみ故取り扱うお店が少ない。
 ここのスーパーはその数少ない取扱い店舗であり、私と相手が伸ばしたドクペは最後の一本だった。在庫はまだあるかも知れないが、とりあえず出ている分では最後の一本だった。
「えっ」
「えっ……」
 どちらからともなく手を離し、視線を合わせる。
 相手は白衣を纏った長身の男だった。同い年くらいだろうか、幾許かくたびれた様相だが、顔立ちは若い。
 しげしげと観察するように眺めていると、ハッと意識を取り戻した彼がドクペと私とを交互に見たあと、私に視点を定めて大げさに肩を竦めた。
 何だこの人……。
「フン、貴様は運が悪かったようだな……これは俺のために誂えられた知的飲料すなわーち、神の飲み物なのだ……故にお前に譲ることは出来なぁい……」
「はぁ……」
「すまないな……俺が神に愛されていなかったらこんな悲劇は起きなかったんだが……」
「……そうですか」
「せめて、不運な己ではなく、俺のことを恨んでくれ」
 もう一度言いたい。
 何だこの人……。
 大げさな身振り手振りと芝居めいた口調とは裏腹に、恐る恐る、といった様子で一度手を離したドクペをそろりと持ち上げた男は何も言わない私をちらりと一瞥すると気まずそうに視線をペットボトルのラベルへと移した。
 ……意外にも気弱なひとなのだろうか。
 よくわからないが、その挙動不審ともいえる一連の流れを見た私はマイペースに口を開いた。
「あの、最初に『えっ』って言ってましたけど、あれって素ですよね?」
「えっ」
 すごい。
 普通にまた言った。
 私がそう突っ込む前に自分で気が付いたのか、コホン! と大きく咳払いをした男がズビシッと私に人差し指を向けた。

「……貴様、何をおかしなことをいっているのだッ!」
 あっ……このひと面白いかも知れない。

 思わずくすりと小さな笑いを漏らす私に、わなわなと震えながらこちらを睨む男。お世辞にも神に選ばれているとは思えないその弱弱しい睨みを跳ね返して私はなおも笑った。
 ぴくり、と無駄に姿勢のよくなった男がなんとも言えない(恐らくまだ睨んでいるのだろう)顔で私を見ているのが更に面白い。

「いや……ほら。今も言っちゃったじゃないですか。別に無理しなくていいですよ」
「…………ぐ、ッ」
 私がそういえば、男は悔しそうな顔を浮かべ、何か攻撃を受けたように背を反らした。忙しいひとだ。

「ドクペはまぁ……まだ在庫あるか聞いてきますし、別にそれは貴方が買って良いんですけど」
「なるほど。そう言って何か見返りでも要求するつもりなのだな?」
「そうじゃなくて。あー……貴方はその一本だけでいいんですか?」
「な、何ッ!? それを聞いてどうするつもりだ! ま、まさか……機関に情報を、」
「えぇ? 在庫確認のついでにまだ必要だったら持ってくるってだけの話ですよ、あればですけど」
「…………」
「…………どうします?」
「……えっと……可能であれば、あと二本ほど……」
「じゃあちょっと待っててください」
「あっ。ハイ」
「…………」
 なんというか、それは癖なのだろうか……。


 結果として在庫は潤沢にあった。
 品出しは後で行うからとりあえず先に、と担当の方から四本ドクペを頂いて飲料コーナーに戻ると、白衣の男は私が持っているものと同じ商品を大切そうに両手で包んで佇んでいた。
 右手に持っていたほうの二本を彼の目の前に掲げれば「ふム……貴様の分はあるのか?」と確認されたので、同様に二本掴んでいる左手を見せれば、男は満足そうに頷いた。
 その微妙なやり取りにふと、変なところ律儀だなぁと思っていると、右手の重りが減るのが分かった。
 視線を移せば空になった自身の右手と、三本のドクペを愛おしそうに包んだ男の両手が視界に入った。

「いやぁ! 申し訳ない。俺ほどの人間にもなるとこうして勝手に他人が従属してしまうから困ったものだフゥーハハハ!」
 偉そうな口調とやたらと大きな声だが、その両手にはドクター・ペッパーのつやりとしたデザインの光るペットボトルが包まれている。そのせいで身振りが出来ないのだろう。笑いとともに首を大げさに傾けた彼が下手くそなウインクを私に送りながら、開いた片目で反応を窺っている。

「良かったですね。それじゃあ、私はこれで」
 それに対して特にコメントというコメントもなかったので、男のいう従属を終えた私はさっさと会計をして立ち去ろうと右手を挙げた。
 しかし。
「……待て」
 両目をきちんと開いた相手からそんな声が投げかけられたので、挙げた手を下ろしながらきょとんと男を見つめた。
「貴様、この俺が謝礼のひとつもせずに従者を野放しにするような野蛮な人間だとでも思ったのか?」
「……はぁ、」
「言っただろう? これは知的飲料であり神に選ばれたもののみが美味であると感じられる至高の一品である。つまり! 貴様もまた! 選ばれし者だということだ……ま、俺には及ばないが、なぁ」
「は、はぁ……」
「うむ? ああ、なるほどぉ……謝礼を想像して怖気づいたのだな。気持ちは分からないでもない。さぁ、そうと決まれば会計を終わらせるぞ」
「……いや、何が決まったんですか」
 ひらりと白衣を靡かせ颯爽と歩き出した背中に聞けば、微妙に狼狽したような雰囲気が伝わって来たものの、振り返ってはくれなかった。
 返って来たのは「いいから着いてこい」という一言だけ。
 なんとなく面と向かっては言えないのだろうな、と察すると、私もどっちみち会計は必要だったので彼の背を追った。


 男の名前が「鳳凰院凶真」であると知ったのは、彼のラボに連れていかれてすぐのことだった。
 字面はともかくそのあからさますぎる響きに確実に偽名であろうなとは一発で分かったが、なるほど、あの口調や身振り、それから狂気のマッドサイエンティスト・鳳凰院凶真……彼は十四歳特有の「アレ」を現在進行形で患っているタイプの人種なのだろう。
 凶真さん、と呼ぶといくらか瞳が輝いたような気がしたので、恐らく周囲の人間にはあまりこの設定を持ち上げてもらえていないに違いない。
 むしろここまで突き抜けていたらファンの一人や二人いてもおかしくないような気がしないでもないが、言うと面倒くさいことになりそうだったので私は口を噤んだ。

 室内はパソコンとその他の電子機器やらよく分からない備品が並んでいて、中央に四人用ほどのテーブルとそれを囲むように長ソファが配置されている。
 とりあえず部屋に促されて一番にソファへ着席するように言われたのでお言葉に甘えていると、冷蔵庫へとドクペを二本仕舞い一本は手に持ったまま彼、凶真さんが戻ってくる。
 空いた手にも何か握られているようだ、とそれを注視してみれば凶真さんはドヤ顔のままそれをテーブルの上へと置いた。
 カツン、と控えめな衝突音が鳴らされる。
「ほれ。受け取れ」
 彼の手に囲まれて見えなかったそれは、おでん缶だった。
 秋葉原ではすっかり馴染み深いそれであるが、なぜいまこのタイミングで? と首を傾げる私に「これの謝礼だ」と声がかけられたのは同時のことだった。
 ぷるぷるとドクペのボトルを顔の横でふるう凶真さんを眺めて、おでん缶に視線を移し、それに手を伸ばしてみる。
 冷蔵庫に入っていたらしいそれは紛れもないおでんであるがひんやりと冷たい。
「……どうも、ありがとう」
 おでん缶が悪いわけではないが、このためだけにラボに招いたのかと思うとなんとも言えない気持ちになった。元々在庫確認をしただけの謝礼ですごいものを渡されるとは思っていなかったが、やはり、なんとも律儀なひとである。
 しかし彼はというと私の一言に気をよくしたのか「家に帰ったら温め、よく味わって食べるといいフゥーーハッハ!!」と高らかに笑った。

 未だ不気味に笑いを零している彼自身のことはさておき。意外にも室内には生活感があったので、凶真さん以外の人間もここを出入りするのだろうかと思考を巡らせていると、少しして「気になることでもあったか?」と落着きをやや取り戻した彼が問うた。きょろきょろと露骨に辺りを見渡してしまっていた自覚はあったので素直に思っていたことを口に出せば、よくぞ聞いてくれたと言わんばかりの前のめり加減で言葉が返って来たから驚いた。
 曰く、説明したくて仕方がなかったらしい。
 それはこのラボの凄さであるとか仲間との友情であるとか、凶真さんの設定であるとか色々であったけれど、電話レンジ(仮)という謎の機械を発明したのだという説明の辺りで私は思考を投げた。
 とりあえず、今のところ片手ほどの人員は確保しているみたいだった。
「なんていうか普通にちゃんとした組織なんですね」
 話を聞いて一番に思った感想がこれだったので伝えると、私の前で立ったまま熱弁していた彼がPCデスクの椅子に座って優しく頷いて息を吐いた。
「まぁな。機密事項に通じている俺たちはいつも機関に命を追われているのだ」
「それはそれは……大変ですね」
「この鳳凰院凶真にかかればそんな人間の目を欺くことも容易いことだがな……身に覚えのない恨みつらみも、頂点に立つ者として享受せねばならんのが理なのだ」
 マッドサイエンティストとして命を狙われているらしい彼は痛ましげな表情で私を見やった。話していることの十割は虚言であるが、心の優しい人なんだろうなということはここまでで十分にわかっていたので、私も同調するように眉を下げた。すると、そんな反応が珍しかったのか、嬉しかったのか、はは……と乾いた笑いを漏らした後、凶真さんは私から視線を外した。

「このラボには三人ドクペを愛す人間が居てな……しかし、その内の一人が存在を消したまま姿を現さんのだ」
 それは先ほどから聞かされている彼の設定の一部にも思えたが、それにしては声色が沈んで聞こえて、目を見張る。
「だが慣れとは恐ろしいものでな……俺は先ほどいつものように三本買ってしまった。言うまでもないが……一本は俺の、一本は助手の、そして最後の一本はそいつのものだ」
 そう言ってどこか寂しそうに笑う凶真さんが先ほど揺らしていた手の中のドクペは、未だ封を切られぬまま同じ場所に収められている。
「……?」
「つまり……このままだと一本余ってしまうということ、だ」
「なるほど」
 でも、凶真さんが飲めばいいのではなかろうか。
 そう思い続けようとした私の言葉は、食い気味に発せられた彼の言葉にかき消されてしまう。
「というわけで、だ! 残りの一本は貴様のために残しておいてやろう。また、気が向いたときに遊びに来たまえ。貴様は選ばれし人間なのだからな!」
 ハッハッハー!! とマッドサイエンティスト然として大きく口を開けて笑う彼に、下げた眉が更に下がるのが分かった。
「えー……それ、どういう理論ですか?」
「ドクペが貴様を選んだと言っているだろう」
「……そうなんですか」
 二回繰り返しされた言葉に、アッこれは設定のやつだ、と察したので深く掘り下げることはやめた。多分もう一度聞き返しても同じことを言われるに違いないと学習したからだ。
 しかし凶真さんはそんな私のそっけないともとれる反応をちら、と盗み見ると満足そうに口を閉じて目を細めた。今日半日見せられた大げさな笑いとはまるで別種の、柔らかな微笑みに、肩が跳ねる。
 どうしてだろう。
 無性に頬が引き攣る思いがした。
「そーだ。あれはもう、貴様の分なのだ。……おとなしく飲みに来、た、ま、え」
「はぁ……じゃあまた、いつか」
 ぴくり、と震える頬を無理やり引き上げて、笑顔を作って答える。
 そのときにはもう彼のその笑顔はなりを潜めていて、私は気づかれぬようにほっと胸を撫で下ろした。
 そうして理由の明確でない焦燥にも似た感情につられるようにして無意識に引き下げられた視線の先、そこには腕時計があった。そのまま何気なく針を目で追ってみれば、知らぬうちにここへ来てから三十分ほどが経過していたらしい。その事実に一気に浮上した意識に、私はこれ以上長居するのもあれだろうと言葉を続けた。
「えっと、そろそろ帰りますね」
 頂戴したおでん缶を手に取って立ち上がると、反対の手に掲げたビニール袋に包まれた自分用のドクペががさりと袋を巻き込んで音を立てた。
「おっと、帰り道には気をつけろよ」
「……はい」
 入口のほうへ歩いていく私の横にそっと添いながら、人差し指を宙へ突き立てて凶真さんは言った。
 扉の前まで来ると、彼はもう隣にはいなかった。
 けれども。
 ノブを捻り扉を開け一歩外に出てからまた室内へ振り返った私を、きっとそうするだろうと予測していたとでも言わんばかりの顔で凶真さんは見ていた。
 外側のノブを掴んで、半分ほど開け放った扉から顔を出して、お辞儀をする。
「また、いつか」
 来る予定は、たぶん無かった。
 私たちの愛飲する知的飲料の申し子、ドクター・ペッパーは品切れが起きやすい商品であるし、残っていた一本はああ言っていたけれどきっと凶真さんかその助手さんの喉を潤すに違いないと思ったからだ。
 恐らくまた、スーパーでばったり会うことでもなければ、彼と言葉を交わすこともないだろう。
 そう思いながら告げた言葉を、腰を折った私の頭上で、彼は鼻で笑ったようだった。

 もしかしていまこうして私が思っていることなどばればれで気を悪くしたのだろうか、と頭を上げれば、彼は馬鹿にするでもなく、蔑むでもなく、あの優しい笑顔で私を見ていた。
 彼の腕が内側のドアノブに伸びる。
 そうしてそのまま、目的のものを掴んだ手はゆっくりと力をかけ、私と彼との隔たりを顕著にしていく。
 狭まる隙間から最後にかけられた言葉は、ひっそりと小さく。酷く懐かしい思いがした。
「ああ……いつでも。、お前が来るのを待っている」
「分かりましたよ、オカリン」
 その言葉に、反射のように返事を口にした瞬間。
 閉まる扉の動きが一瞬止まった気配を見せたが、気のせいだったのか、それは間もなくして予定通りぴっちりと隙間なく閉じられてしまった。

 彼が告げた名前は正しく私のものだった。
 しかし、私が口にした愛称のようなそれは一体だれの名前なのだろう。
 ラボからの階段を下りる最中、必死に考えても、思い当たる人物はひとりもいなかった。
 そして凶真さんがどうして私の名前を知っていたのか、ということも。不思議となぜだか聞く気にはなれなかった。

ニーベルングの指環