「そういえば、お前まだあそこに住んでんの?」
 初めての“邂逅”から数カ月たった今、私は金融会社の社長であるこの男に時折雑用と称して拉致されることがあった。
 雑用とは名ばかりの拉致行為は私の意思を全くといっていいほど無視して執り行われるため、一度目ならまだしも、二度三度と繰り返されるうちにもはや抵抗することもなくなってしまっていたのだけれど。
 いい加減普通に連れ出してはくれないだろうかと彼を睨めば、当の本人は楽しそうに――とは言っても表情筋は死滅している――手に持ったうまい棒の穴をのぞき込んでいるのだから救えなかった。
 そしてその様子から分かるように「拉致」と私が便宜上呼んでいるそれが私に危害の及ぶような危ないものではなかった、ということも抵抗をやめた理由の一つだった。
 ……彼の拉致は、妙に可愛い。
 これを言ったら恐らく怒られるので、口にすることはないけれど。


 以前、春田という隣人がきっかけで接触することになってしまった彼の名は「丑嶋 馨」という。
 馨ってお名前可愛いですね、といったら親の仇でも見るような凄まじい殺気で睨まれた(ように見えた)ので私は「丑嶋さん」と呼んでいる。
 あの日出会ったもう一人のイケメンくんである高田さんによって車に押し込められた私は、その後カウカウファイナンスという丑嶋さんの経営する金融会社の事務所に連れられ、しかもなぜか会社で行われていた焼肉パーティにも半ば無理やり参加させられ、あれよあれよという間に社員さんと自己紹介を交わしてしまっていた。
 事務所に着くまでは正直、身の危険を感じるどころではないレベルでのドライブだったのに、着いた途端胃もたれを起こす勢いでカルビを口に押し込まれたのだから驚いた。
 口の中にこんもりとお肉をほお張ることを強要されある意味身の危険ではあったものの、どこの馬の骨ともわからない私が一応はそれっぽい歓迎ムードでなぜか出迎えられたため、困惑してしまったのだ。

 しかし、忘れてはいけない。ここはヤミ金融の巣窟。
 それも隣人に迫った男をなぎ倒した丑嶋さんの経営する会社となれば、ここまであからさまなまでの歓迎に裏がないわけがなかったのである。

 私の唇を割りばしでゴリゴリにねじあけ、数枚重ねたカルビを無理やりに突っ込んだ張本人である丑嶋さんは、私がその圧迫に耐え切れずじゅわりと肉汁のしたたるそれを咀嚼した瞬間。
 私の目をぎょろりと見つめて「食べたよな……いま、俺の肉」と。
「俺」の部分を露骨に強調して私の背筋をいとも簡単に強張らせて見せたのだった。
 コクコクと必死に頷く私に、丑嶋さんは満足気に口角を上げると、それきり何も話すことなく自身もお肉をほお張り始めたので放置された私もとりあえず口の中にあるお肉を噛みしめたのだけれど。その光景に社員の誰一人として声を上げないのだから教育とはとてもすごいものなのだなと私は思った。
 高田さんも、加納さんも柄崎さんも誰一人として言葉を発さずカルビを食べていた。少し怖かった。お肉はおいしかった。


 そんなこんなで、あのときのお助けドロップキックとカルビを引き合いに、私は拉致されるようになった。
 拉致、というか連れ出しは会社終わりであったり休みの日であったりするので仕事には支障をきたしてはいないが生活にはきたしているかもしれなかった。しかし私に断るすべはない。高田さんの手によって車に押し込められたときに抵抗という発想は捨てていた。
 それに、基本的に丑嶋さんの拉致は前述の通り駄菓子であったり暇つぶしであったり書類整理であったりと単純明快なものだったので、私も身の危険を感じるまでは適当にやり過ごそうと思考を切り替えていた。ここまで付き合って来たことにより、丑嶋さんは常識というスケールで量ってはいけない人だなと私は理解していたのだ。
 そもそも連絡先を交換していない上、家の前でもないというのに適格に私の居場所を捕え、出先でも平然と声をかけてくるこの人に逆らおうという気持ちは拉致三回目ほどで潰えていた。

「まだ、ってどういうことですか? 住んでますよ」
 高田さん曰く、隣人はあれから丑嶋さんの手ほどきによってどこかのアパートに引っ越したらしいので、あのアパートに来ることもなくなった丑嶋さんが私の実情を知らなくても無理はないかも知れない。確かにあんな出来事があったので怖いといったら怖いかも知れないけれど、あれから何も起こっていないので、そういうことは起こってから考えることにしていた。
 答えながら彼を見れば、未だにメガネの奥のその視線は細い穴に向けられている。
「……あっそ」
 聞いてきたのは自分のくせに、うまい棒にご執心な丑嶋さんは興味なさげに首を縦に一度だけ振るう。
 前もこんなことあったな……と思いながら、つい数分前、自分で買ったくせに「いらね」と言って突き渡されたサラダ味のうまい棒をしゃくりと口にすれば、その音に反応した彼がこちらを見やった。
 そしてそのまま、手に持っていた長細いそれをずい、と私に見せつけて口を開く。
「シュガーラスク味だけなんで穴ねぇンだろうな」
「知りませんよ」
 真面目な顔をしていたので一体何をいうかと身構えたらこれである。

 四回目の拉致のとき、一瞬だけ同席した戌亥さんという丑嶋さんの同級生曰く、彼は冗談をいうようなやつではない、とのことだったのでこれは気になったから口にしただけなのだろうと判断する。
 そもそも何でも真顔で言ってよこす丑嶋さんの言葉を冗談だと受け取ったことは一度とてないのだが、たまにある斜へ飛んでいきすぎる発言をどう受け取ったらいいのか、という悩みを解決してくれた戌亥さんに私はとても感謝していた。その戌亥さんはなんとも胡散臭そうな人なので、申し訳ないことに好きか嫌いかでいったら苦手だったけれど。
 勝手に思い出して勝手になんとも言えない気持ちに陥りながら思考を巡らせていると、先ほどの会話の名残か、ふと、隣人がどこへ行ったかが気になり、首を傾げる。

「春田さんって、どこに引っ越したんですか?」
 言えば、うまい棒を咀嚼していた丑嶋さんが顔を顰める。
 関係ねェだろ。という顔だということは分かったが、一応耳を澄ませてみる。
「遠いトコ」
「へぇ、田舎とかに移り住んだんですか? 確かにあのアパート間取りの割りに家賃高いですもんね」
 しゃくしゃく。
 彼に倣って会話の切れ目にうまい棒をほお張る。
 何度かもぐもぐとかみ砕いてほろりと溶けたそれを飲み込んで、私はふと思いついたことを続けた。
「あ、だから私にまだ住んでるのか聞いたんですか?」
 しゃく、しゃく。
「でもあそこ気に入ってるから引っ越す気はまだないかな……」
 しゃく。
 ……。

 不自然に途切れた音に丑嶋さんを見れば、彼のレンズの下の大きな黒目と勢いよく視線が重なる。レンズ一枚隔てているのにその鋭さの一切を失わない眼力の強さに反射的に視線を逸らしそうになるのをこらえて、丸いそれを見つめる。
 瞬きひとつ落とされる音のない静寂の中。
「はぁ……」
 短い溜息を漏らして、丑嶋さんの瞼がぱちりと瞬く。
「お前ってさ、」
「はい」
「結構図太ェよな」
「……図太い?」
 初めて言われたな、と少し前の彼と同じように瞬けば、その一瞬の間に、ふ、と吐息の漏れたような音が流れた気配に慌てて目に力を入れる。
 クリアな視界に見えたのは、相変わらず仏頂面で私を睨む丑嶋さんと背景の駄菓子屋さん。
「そういうとこ」

 さくっ。
 しゃく、しゃく。
 言いきってすぐ最後の一口を口に入れた丑嶋さんを見て、私も最後の一口に取り掛かる。
 丑嶋さんはそんな私をちらりと一瞥すると、慣れた様子で駄菓子屋の中に入り、プラスチックの水色の桶を片手に戻ってくる。
 こんなものどこから……と桶の出どころか気になり、入口からこっそり中を窺えば、店主のおじいさんが私を見てにこりと微笑んだので、店主が用意してくれたのか、という疑念の解消と同時に丑嶋さんの意外な交友関係を覗き見てしまったような思いになった私はそれを悟られぬように微笑み返した。

 丑嶋さんの手によって店先にあった古い木目の小さなテーブルに乗せられた桶を見れば、中には水が八分目まで張られていた。
 桶の底には小さい水鉄砲が二つ入れられている。
 それをひとつ摘まめば、余ったほうを丑嶋さんが手に取る。
 こうして駄菓子屋でお菓子を食べるのは初めてではなかったけれど、水鉄砲で遊ぶのは初めてだった。
 しかし丑嶋さんは慣れた手つきでコンクリートに水をぴゅうぴゅうと放っては、水を入れ、放っては、入れと無表情で遊んでいる。
 シュールだ……とても……。
 そう思っても口に出すことはしてはいけないので、私も引き金を引いてコンクリートの地面を濡らした。
「私、もうカルビ分働いたような気がするんですけど」
 無言の中、ぴゅうと水を放ちながら濡れた地面を見つめて言う。
「ハッ」
(鼻で笑われた……)
 ぴゅう……と引き金を引く感覚は、わりと楽しかった。水を入れるために右手を桶に突っ込むので、指先は少しだけ冷えたけど。
 たんまり張られていた水が半分ほどに減ったところで、丑嶋さんはどこからかピンクの容器のシャボン玉を取り出して、備え付けの緑のわっかのついた棒を液体に浸けて吹いた。

 光を纏った丸が、風に飛ばされてあちこちに散っていく。
 水鉄砲を桶の中に戻して空飛ぶシャボン玉を眺めることに徹すると、丑嶋さんは次々と光る丸を宙へ作っていく。
「上手いですね」
「あー?」
「シャボン玉」
「誰がやっても一緒だろ、こんなもン」
「一緒じゃないですよ」
 丑嶋さんを見れば、彼の眼鏡にシャボン玉がきらきらと反射して、その奥の黒い瞳さえも光らせていた。
 丑嶋さんって、強面だけど……目に生気さえ宿れば案外二枚目かも知れない。そんな失礼なことを考えていると、本人が怪訝そうな顔を寄こしたので急いで目線を宙へ戻す。
 ぷくぷくと彼の手元から作られるそれを目で追いながら、赤に染まる空を見上げていると、意識せずとも顔が笑みを浮かべてしまうのが分かる。

「なんか、楽しいですね……」
 風に流れる綺麗なシャボン玉と、ゆっくりと流れる時間に思わず口から飛び出た言葉は、丸いそれに溶け込むように宙に浮遊する。
「……あっそ」
 私の楽しそうな声色とは反対に、さぞつまらなそうに一言つぶやかれた返事は、丑嶋さんが尚も作るシャボン玉に混じって消えていった。
友人くん