ニコラスと配達の仕事に出かけた途中、青果店脇の路地を出たところで一人の女性がこちらを見つめていることにアレックスは気が付いた。その視線があまりにも熱いものであったから「気のせい」ということもないだろうと立ち止まり首を傾げていれば、そんなアレックスの異変に気が付いたニコラスが足を止め、彼女の視線の先へと顔を向けた、――瞬間。
その女性の唇が美しく弧を描いたので、アレックスは同性ながら、その美麗さに目を見張った。
「ニコラス。あの人……知り合い?」
けれどアレックスは、彼女と知り合いというわけではなかった。あんなに綺麗な人であればすれ違っただけでも覚えているだろうし、いま顔を向けているのが初対面であることは間違いないという確信もあった。だから、必然的に消去法で導いた答えをニコラスに投げたのだけれど。彼はアレックスの唇を読み取ると小さく首を振るった。
「じゃあ、どうしてこっちを見てるの?」
『……。さぁな』
ニコラスは肩を竦めると、あっさりと彼女の居る方向に背を向け歩きだしてしまう。
なんだか釈然としない――アレックスはそう思ったものの、仕方なく、彼に倣い彼女に背を向けて地面を蹴った。
「ねえニコラス。本当に知り合いじゃないの?」
「…………」
「ニコラス?」
「…………」
「……もう!」
配達は全部で七件あった。
すでに五つは終えていたので、残りは二つだったのだが、当初は均等に二人で分け持っていたその荷物は今やすべてニコラスの手の中にあった。
小さな紙袋に包まれた荷は決して重いものではなかったが、ニコラスはなるべくアレックスには持たせないようにと彼女の配達先を優先出来るよう配分し、いつも気を遣ってくれていた。本人にそれを言えば「お前に持たせ続けて落とされでもしたら怖い」と言うけれど、アレックスはそれがニコラスの優しさであると分かっていた。今日も、例には漏れなかった。
残りの配達先は同じ建物の中に居る二人へそれぞれひとつずつ宛てられたものだったので、目的地まで来ると、これで終わりだなと言わんばかりに一度頷いて見せたニコラスは、それからアレックスを片手で制止して建物へと入っていく。
その後ろ姿をアレックスが眺めていると、不意に、自身の隣に人が並んだ気配が落とされたことに気が付いた。隣で制止した一つ分の気配は数秒してもそこから動く様子がなかったので「建物に用事があるひとだろうか?」次いで、ごく当然にそう思い、何気なくそちらへ視線を移す。
「……!」
直後――アレックスは、流した視線が丸々奪われる感覚に抵抗できず、思わず息をのんだ。
そこに立っていたのは、ニコラスと同じアジア人然とした黒目の美しい女性だった。けれど驚いたのはそこではない。アレックスは、彼女を知っていた。彼女は「先ほどこちらを見ていた女性」だった。
突然現れたその姿を視界の中心から外すせずにいたアレックスがそのままぼんやりと彼女を見つめてしまっていれば、十数分前に一度重なり合ったあの熱い視線と、アレックスの瞳が再び音をたててかち合う。
すると彼女は、また綺麗な笑みを作ってから、その唇を開いた。
「ニコラス・ブラウンは中に?」
「……え? ニコラス……?」
彼女の顔は、やはり近づいてみれば感嘆するほど整ったもので、アレックスは声を耳にしてすぐ少しばかり身を引いてしまったのだけれど、そんな彼女の口から発せられた言葉を理解すると同時に、反射的に疑問を口にしてしまう。
やはりニコラスの知り合いだったのだろうか?――アレックスがそう思案していると、彼女も同じように疑問符を頭に浮かべる。
「あれ? 先まで一緒に居たのは貴方でしたよね?」
「え……ええ」
「やっぱり。じゃあ、ここに居れば戻ってくるのか」
どうしてニコラスが他人のフリをしたのか想像もつかなかったアレックスは、彼女の確認に素直に頷いてみせた後、お返しにと口を開いた。
「あの、あなたは……ニコラスとはお知り合いなのかしら?」
「……ああ、自己紹介が遅れました。私、
と申します。不躾ですが貴方のこともお伺いしても?」
「ええ。私は、アレックス。……色々あって、いまは彼の居る便利屋でお世話になっているの」
「どうもご丁寧に、アレックスさん。それで、質問の答えですが――」
唐突とも思える短い自己紹介で手に入れられたのは名前だけだったが、アレックスは質問をした手前、彼女へ自分とニコラスとの関係も付け足して答えた。
その返答に
はまるで紳士のように腰を折って会釈をしてみせた後、言葉を一度区切った。
が、息を吸う。そして、唇が開かれる。アレックスは、耳を澄まして続けられるであろう言葉に集中した。しかし
は薄く開いたそこから吐息をわずかに漏らすだけにとどめると、唇ごと顔を顰めた。
アレックスはそんな彼女の変化に集中を霧散させると、ぱちくりと瞳を瞬かせる。どうしたのだろう。その先が気になっていたアレックスは、原因が何であるか探ろうと、
の視線を追った。刹那。当たり前のように納得する。
目の前の建物の中から、配達を終えたのであろうニコラスがこちらを見ていた。
なんて間の悪い男なのだろう。アレックスはニコラスを認めて途端に、あともう少しで聞けたのに、と肩を落とし項垂れる。
『……知り合いじゃねェ。帰るぞ』
――けれど。
そんな彼が彼女を粗雑に見やって発した手話に、“見ていた”のか――そんな風に思い、やっぱり二人の間には何かがあるのだろうか? と問おうとしたが、それと時を同じくして
がそんなアレックスの疑問を吹き飛ばすかのようにニコラスへ詰め寄った。
「おい、ニコラス。他人のフリとはいい度胸じゃないですか」
「…………、」
その行動と言動に、ニコラスがあからさまに辟易とした顔を浮かべたのがアレックスの視界に映ったが、彼女にとって重要なのはそこではなかった。
今しがた、隣に居たはずの彼女が気づけばニコラスの胸倉をつかんでいる。
あの、清廉そうな彼女が、だ。
アレックスは、見た目にそぐわないその乱暴な挙動に頭が混乱するのと同時に、途切れて聞けなかった質問の答えを察した。
やっぱり、この二人は面識があったのだ、と。
じゃなければ“あの”ニコラスにこんな態度が取れるはずもなければ、
に詰め寄られるはずもないのだ。
ここが人気の少ない場所でよかった。
アレックスはそう思い、
をニコラスから引き離した。
それほど力を入れずともすんなりと離れてくれたことから、胸倉は掴みはすれど彼を殴るつもりはなかったのだとアレックスはほっと胸を撫で下ろす。そうして彼女に近づき直したことで、
の視線がニコラスの顔ではなく、彼が腰に佩いた刀に向けられていることにも気が付いた。
どうして刀――?
アレックスが
に聞こうと彼女の顔を窺い見れば、
は視線をやや引き上げてから、前触れもなく自身の両手を胸の前でせわしなく動かし始める。
それが手話を行っているのだということは、ニコラスの聴覚を知るアレックスはすぐに分かったが、
の手話のあまりの速さと滑らかさに、手話を学び始めたばかりであったアレックスには彼女の言葉を正しく瞬時に読み取ることはかなわなかった。
『ニコラス。また私の注意を無視して無茶したでしょう。君の運動方法は特殊なので、鞘を見ただけでもすぐに分かります。何度も言っているのに約束の一つも守れないとは呆れますね。話の通じない馬鹿はさっさと豆腐の角に頭ぶつけて死んでください』
「…………ハァ」
けれどまだ拙いアレックスにもひとつだけ、彼女の最後の単語だけは目で追うことができていた。しかしそれは吐き捨てるように文末につけられていたやけに物騒な部分だけであったため、アレックスにはそれがどういう経緯で言われたものかもわからなかったし、
がどうしてニコラスに怒っているのかもわからなかった。
それでもニコラスがそんな
の手話に対して諦めたように溜息をついたので、アレックスはそこで漸く、すべての原因はニコラスにあったのだということを理解した。
『それに、アレックスさんへ知り合いじゃないと言って逃げようとしたでしょう。前から言っているように、刀も銃と同じで定期的にメンテナンスが必要なんです。それは使っているニコラスが一番分かってるでしょうに』
『…………』
『手入れを疎かにして困るのは誰だと思ってるんですか』
『…………でも』
『…………』
『……でも、おまえ、怒るだろ』
『……はぁ?』
『…………刀、折りそうになると』
『へぇ、なるほど。折りそうになったんですか』
『…………』
『…………』
『…………』
『…………』
徐々に手話の動作が落ち着いていく
を眺めていれば、何度か会話の中に出てきていた「刀」という単語は、アレックスにも見て取れた。次いで、ニコラスの見せた「折る」という言葉も。その二つから、
がニコラスの刀を見ていた理由も、いまこうして彼へと詰め寄った理由も、アレックスはなんとなく察していた。
「……二人とも、どうしたの?」
二人の会話が途切れたのを見てアレックスが問いかければ、
はぐったりと肩を落としてみせる。そこには今までニコラスに向けていたような覇気はなく、疲れた様相は色気漂う彼女をいくらか幼く見せていた。
「いや、ニコラスが私の想像以上に無茶したみたいだったようで。アレックスさんもご存じで?」
「……うーん? いつのことかしら……」
「貴方の知るところですでに複数あるのですね……はぁ」
「あっ……ええと、それは……」
「まぁ、いいですよ。こればかりはいくら聞かせても守ってくれないですし。彼の趣味なんでしょうね」
趣味、と言われ彼の悪行を思い出し否定することの出来なかったアレックスは曖昧に笑って頷くと、先ほど聞こえた単語をつなぎ合わせて出た結論を彼女へとぶつけた。
「ところで
って、武器屋でもやっているの?」
「ああ、アレックスさん。違いますよ。武器屋じゃなくて、刀鍛冶です。この町ではすこし珍しいかもしれませんが」
「刀鍛冶?」
「そう。まぁ、ここでは刀は流通しないからもっぱら注文が入るのはナイフなので……今はナイフ職人って感じですけど」
「……へぇ! それでニコラスの刀も?」
「はい。“あれ”が何本目かは数えたくないですけどね。仕事が入るのは有難いことではあるんですが」
「ああ、それで……」
配達を終え、手ぶらになったニコラスは、けれども帰らずアレックスと
の会話を眺めているようだった。
アレックスは、いつもなら一番に帰路へ向かうニコラスの普段との差異を不思議に思いながら、
の話を聞いていた。己が導き出した結論とは少しだけ違ったが、やはり彼女は刀に携わる仕事をしているらしい。それならば、ニコラスと面識があるのも納得だった。彼は
のお抱えの客だったのか――アレックスは頷いて、
の言葉の続きを促す。
「ニコラス、どうせいつも無茶してるでしょう? 私もすべてを把握できているわけじゃないけれど、手入れの時、刀身を見れば分かるんです。それに刀って、新しく作るのは勿論、使い込まれたものを打ち立て同様支障なく使えるように美しく保つこともすごく大変なんですよ」
まぁ、この人は分かってないみたいですけど――。
そう続けた
が唇を尖らせていたので、アレックスは同意するようにくすくすと笑った。
「ニコラスがお客だと、大変そうね」
「実際、大変ですよ。約束した日には来ないし。まぁ大方、便利屋の仕事をしているんでしょうけど。彼にとっての優先順位の一位は戦闘ですから」
「……それで、ついに
直々にニコラスの元へ? お店はどのあたりなの?」
「私の仕事場はここよりずっと北の四番街の端の端にあるんですが……今日はこっちに用事があったんです。ナイフの納品で。その終わりに、二人を見かけたので」
「……黙っていられなかった?」
「ええ。大体、そんな感じです」
話してみれば、
はとても気さくな女性だった。アレックスは普段、ニコラスやウォリックに対し質問をしても、目的の答えが返ってくるということが稀だったため「そういう」ことになれていたけれど、やはり自分が求めた返答が来て会話が続くというのは嬉しいものだった。
アレックスはニコラスと
の関係が分かると、今度はニコラスがどうして彼女の元へ行くのをサボっていたのかが気になった。アレックスは、彼が自身の刀を大切にしていることを知っていた。彼は配達に行くときも、少し買い物に出かけるときも、いつだって刀を腰に差している。それはいつ襲われてもいいように、というよりも、そこになくては落ち着かないから持ち歩いているように思えてならなかった。ニコラスは少しがさつな面もあるが、ニナに対する行動を見ている限り、とても誠実だ。そんな人が大切にしているものを粗末に扱うようには思えない。
「ニコラスは、どうして
のところへ行かないの?」
それは純粋な疑問だったのだけれど、アレックスがそれを口にすれば、
が笑う気配があった。
第三者の、事情をいま知った人間が口を出したことが面白いのかも知れないとアレックスは解釈したが、
がおかしいと思ったのはニコラスの反応だったらしい。
次いで視界に収めたニコラスがなんとも形容しがたい顔でこちらを睨んでいたから、アレックスは一瞬、体を跳ねさせた。あれは――余計なことを言うな、という顔だ。
けれど、今までだって彼女に口酸っぱく言われていたはずだ。アレックスはそう思い、ニコラスを睨み返す。しかし彼はといえばかち合っていた視線を一度右上にやると、おずおずと右手を上げて口角をずり上げた。そうして、左胸の前で人差し指をかざしたあと、手のひらを開いて指を綺麗に揃えアレックスの方へすっとその先を絞ってみせる。
『アレックス。お前、先に帰ってろ』
ニコラスの生気の抜けたような光のない真っ黒い瞳が、アレックスを射抜く。二人に任された仕事は終わっている。ニコラスを縛るものがないように、アレックスを縛るものももう手の内にはない。
「うん。わかった」
アレックスは言葉を発しながら、右手でゆっくりと己の胸を叩いた。きっとニコラスは、あれほど嫌がっている素振りを見せていたのに、
の店へ行くのだろう。アレックスには確信があった。だから妙に、気持ちは晴れやかだった。普段ニコラスにからかわれることが多いからかも知れない。
にこっぴどく怒られてしまえばいい。そんなことを思っていた。
「……それじゃあ、私はここで」
アレックスが
に顔を向ければ、彼女は先ほどの笑みを顔に残したまま、優しく一度頷いた。
いつの間にか彼女の隣へと移動したニコラスが、そんな
の足を小突いている。
「こんな物騒なものいつまでも抱えてられないので、刀を手入れしたらすぐアレックスさんのところへ戻しますから」
の言葉を読み取ったニコラスのつま先が、
のふくらはぎのあたりにめり込むのを見ながら、アレックスはくすくすと笑う。
「でも、なんかお似合いだと思うな。二人って」
「……。……アレックスさん、結構豪胆ですよね」
「そう?」
「そうですよ! ニコラスもそう思うでしょう?」
『……さァーな』
もげそうなほどに首を傾けてニコラスがそういうので、
もアレックスもその会話を続けることはなかった。アレックスは「こういうとき」、彼の相棒であるウォリックの有難味を感じたりする。知らぬところで株の上がっている男を頭に浮かべると、アレックスは早くその主の元へ帰ろうと思い立って、二人へと背を向けた。
それから、一度だけ振り返って二人に小さく手を振るった後、こちらに手を振り返してくれる
に会釈をして、アレックスは帰路を歩き出した。
『…………おい、』
小さくなっていくアレックスの後ろ姿を
が眺めていると、隣に立つニコラスがずい、と顔を近づけた。それは彼が話し出す前振りのようなものであることを
は知っていたので、特に驚きもせずに彼を見返すと穏やかに微笑む。
『
。あんまり余計なこと言うんじゃねぇ』
そうして視界の端に映っていたアレックスが見えなくなると、
が足を進めるよりも先に、ニコラスが彼女から離れ歩き出す。少し遅れてニコラスの隣へ着いた
が彼に「見やすい」ようにと顔をそちらへ向ける。
「余計なこと、だなんて。私はちょっとお話しただけです」
『どーだかな』
「まぁいいじゃないですか。例えニコラスがなにかを懸念していたとしても、」
『…………』
「――彼女はきっと不思議にも思いませんよ」
『そういう問題じゃねェ。それに、大体変だろ。ただの知り合いだっつっても、ペラペラ俺と話せるなんてよ。お前こそ、疑われたかも知ンねーよ?』
実際、手話を勉強し始めたアレックスがまだニコラスとウォリックの会話に中々入ってはこれないように、知識のない人間が彼らの言葉を読み取るのは難しい。けれども
はいとも簡単にそれを行って見せた。それはニコラスを知る者にとってもお世辞にも普通とは言えないことだった。
それでも
は、それによってアレックスが例え何かを不審に思ったとしても、それはそれで良いと思っていた。なぜなら最初から、
には自身に関することを隠すつもりはなかったからだ。
ただ、ニコラスが「何を」言いたいのか、ということはその雰囲気から察していた。彼はきっと私の“中枢”が不用意に晒されてしまうことを心配してくれている。真面目なひとなのだ。そして何より、そういう気概が他人を正直にさせていることに気が付いていないのだから相当なのだろう――
はニコラスから一瞬視線を逸らすと、眉を下げて唇を尖らせる。
「それはないと思いますよ。アレックスさんいい人そうだったし。きっと訳なく人を疑ったりなんてしない人ですよ」
『…………』
「それとも。ニコラスは、私に嘘を吐いて欲しかったですか?」
『……ハァ。……そういう聞き方はやめろ』
「またまた。恥ずかしがらなくてもいいのに」
『そういう絡み方もやめろ、あいつを思い出す』
「ああ、相棒ですか。私も会ってみたいなぁ」
『…………』
「ウォリックさんでしたっけ。……ニコラス?」
『…………』
「唇。読めてるでしょうに、また無視ですか?」
エルガストルムには、どこにもせき止められることなく流れてきたはぐれ者が多く存在する。
ニコラスも、彼の相棒であるウォリックも、そしてアレックスもその一人であり、今ニコラスの顔をのぞき込んでいる
もまた、れっきとした漂流物だった。
が刀鍛冶になってから、日は長い。
エルガストルムでニコラスが
と初めて会ったときにはすでに、彼女は一人であり、刀を握っていた。その腕は確かであるし目利きもよかった。だからニコラスは、彼女と知り合って間もなくして、どうしてそんなに腕のいい鍛冶がここへ来ているのかということが気になった。ニコラスが聴覚を失っていることに気づくと手話を勉強し始めた彼女は、当たり前のようにできた人間であったし、自分のように「異常」ではない。だからこそ不思議だった。けれど、それは外殻の話だったと、それから二年ほど経ったあとに気が付いた。ちょうど、
が手話をそつなく話せるようになったときだ。
――ニコラス。私、貴方に黙っていたことがあるんです。
――本当はね、私、刀が好きでこの仕事をやっているんじゃないんです。
――私は、私はね、ニコラス。
――本当は、鉄が好きなんです。
――鉄の、錆びたにおいが。
それが何を指すかは、考えるまでもなかった。
自身で作った刀を、人に向けることはなかったと
は言った。私は、使われた刀を手入れをするとき、刀身に付いたにおいを感じるだけで満足出来るんです。だから、“己の刀”で人を傷付けることはなかった。かつてニコラスに、
は手話でそう教えた。そうされてしまえば、聞こえないふりをすることはニコラスにはできなかった。それが分かっていて、
は話したのだ。
――ならばなぜ、どうして、いつ、彼女は己の異常に気が付けたのか?
彼女の言葉に目を傾けながら、ニコラスはその時確かに胸中を燻った疑問を、けれども口にも手にもすることはなかった。
きっと、恐らく。彼女もまた自分と同じように、元居た場所に大切なものを置き去りにしてきたのだろうと思ってしまったからだ。
彼女と出会った場所がエルガストルムであったことが、ニコラスの口を強く噤ませていた。
それから、ニコラスは己の刀を
に任せることに躊躇いを感じるようになった。彼女の腕は確かだ。作業風景を眺めていたこともある。流れるような手さばきで手入れを行う彼女は、楽しそうであった。けれど、あのとき「我慢」していたのかと思うと、想像してしまう自分が居るのだ。血の匂いに飢える彼女の姿を。それは、刀を手元に置いていないとより顕著に脳内に現れた。
ニコラスは、自身も偶像に悩まされながら、それと同時に、
のそういった部分が他人に無遠慮に踏み荒らされるのを酷く嫌っていた。だから彼女が言うように、アレックスと
との対話の中でそれが暴かれてしまわないかと少なからず懸念していた。それは懸念に終わってくれたが、けれども実は他にももう一つ、ニコラスの懸念は存在していた。
それは、
に関するものではなく、アレックスのことだった。今日偶然ここへ
が訪れ、アレックスが自分の隣に居た。一人であれば、変な心配はしなくてもいい。しかし彼女は、何を言うかは分からない。
は見た目だけならば、人畜無害であるからだ。
結果としてアレックスもまた、ニコラスが危惧していたことは何も言わなかった。けれどニコラスが頭にも思い浮かべなかった一言を、彼女は言ってしまった。
“ニコラスは、どうして
のところへ行かないの?”
その答えは、ニコラスには決して、口にはできない。
だから
は、朗らかに笑ったのだ。
ニコラスは先日の黄昏種との戦闘で、自身の体を自身の刀によって切りつけられていた。体を過剰に動かしたせいで所々の記憶が甘く、鞘に納めた刀に血が残っているかどうか、覚えてもいなかった。
『あいつには会わなくていい』
足は動かしたまま、ニコラスがぶっきらぼうに手を動かせば、それがさきほどの言葉の続きであることに気が付いた
は僅かに首を傾げた。
「どうしてですか?」
『…………』
「ニコラス?」
『あいつと話すと、孕む』
滅多に使わない単語を模ってから、ニコラスは馬鹿にしたような顔を作って
に視線を合わせた。
けれどもそこには、驚いたような、なんとも間抜けな顔をした
が居り――ニコラスは自分が示した言葉を再度思い返して、思わず足を止めた。
ここまで流暢に会話の続く人間が、ニコラスにとっては数人しかいない上、そのどれもが男であるから油断した。自分の冗談は冗談に聞こえないのだと、それこそ相棒にはよく注意されていたというのに。
「…………」
『……いや、待て』
「…………」
『やっぱり今の忘れ、』
「ません」
『…………』
丸くしていた目を楽しそうに細めニコラスを見やった
は、彼が何か手を動かすたびにその腕を掴んで動作を止めてしまう。ニコラスには、その手をどける権利はなかった。今や笑っている
はそれこそ気にもしないだろうが、女性を相手にしているというニコラスの気質がそれを許さなかった。あれもこれも、ウォリックのせいだ。ニコラスは心の中で相棒へ憎しみを込めて罵倒を送ったが、
はそんなニコラスさえ楽しそうに眺めていた。
「アレックスさん。私とニコラス、お似合いだって言ってましたね」
『……さァな』
「でも似合いはしなくても、なんとなく彼女が言いたいことは分かりましたよ。だってこの町にニコラスの刀修繕できるの、私だけですし」
彼女のいうことは、事実だった。そもそもニコラスが刀の手入れという習慣があることを知ったのは、
と出会ってからだった。だから、それにひとつ頷いて返した。これは決して、そのひとつ前の言葉に対してではない。それでも彼女はニコラスの肯定に嬉しそうに笑う。
その顔を見ていたら、今日の手入れは長くなるだろうな、とニコラスは他人事のように思った。それほどに、無茶をしている自覚も、無茶をさせている自覚もあった。
何より、自分の血が付いてしまっているのか、「覚えていなかった」ということが大きかった。
実のところ、今までの一度も、ニコラスは自分の刀に己の血を付けたことがない。己と戦った人間を生きて帰したこともなかった。だからもし「そこ」に残っているのならば恐らく、今日が初めてになるとも、最後になるだろうとも思った。
そんなことは知りもしない顔で笑う彼女を見ていると、ニコラスの頭の中に、あの日から無遠慮にこちらを覗く血に飢える女の姿がまた映り込む。
それを見ることも今日が最後になるのだろうか――ニコラスは、一瞬そんなことを思ったが、きっと消えてはくれないだろうと思った。もし刀ににおいが残っていたならば。自分は恐らく、また違う彼女の姿に惑わされることになるのだろう。
そう思えば、常は億劫である己の唇が騒ぎ出しそうに震えるのが分かった。
……もし。もし己の血が残っていたとして、彼女は気が付いてしまうだろうか? 彼女の嗜好は、自分とそれ以外とを区別することができるのだろうか?
そこに「何か」を期待しているのかは、分からない。ただ、それは今まで思いつくことが無かったのが不思議であったほど、ニコラスの好奇心を刺激していた。
どうしてそこまで気になってしまうのか、とニコラスは首を捻ったが、唯一はっきりと認識できていたのは、血が付いていないことを覚えていたとしたら、自分はこの時も、怒られることになるだろう彼女の元へ行こうとはしなかったということだけだった。
「……な ぁ、
」
ニコラスが声を発して尚、いまだ楽しそうにこちらを眺めるその瞳に、愉快気に口角を引き上げる自分が映ったのをニコラスは見とめた。
悪い笑みだ。そう思えば、余計に笑えた。
「今 日は、ァ別にぃッ 我慢、しな くてェ、も いーぜ」
先ほどよりもいくらか配慮に欠けた発言をした自覚はあったが、今度は訂正するつもりは一切なかったニコラスは、言い切ってすぐ彼女から顔を背けると大股で歩き出した。自身の腰に差したそれに痕跡が残っている前提で話す自分に、舌を出して笑いそうになる気持ちを抑えながら。