「手伝う。おまえ効率悪ィンだヨ」

 そう言って、目の前の三白眼が私の手元のプリントを掻っ攫っていく。
(……なんでこんなことになったんだっけ)
 文化祭実行委員。
 並べてみれば大層な肩書にも見えないこともなかったけれど、言ってしまえばただの雑用だ。皆がやらないようなチマチマした作業を押しつけられる委員とは名ばかりのそれは、比較的忙しい部活に所属している人間に押し付けられる仕事であった。
 文化祭前の準備期間は、私や荒北にとっては最も暇で、そして最も忙しい時期と言えた。
 荒北は確か、チャリ部。正式名称は自転車競技部だったか。ロードレーサーをひたすら漕いで、前へ進むだけの競技、と言ったら以前東堂に「チャンはなァんも分かってないのだな! それが格好いいんじゃないか」と言われたので黙っておくとして――そこに属しているために、長期の休みは勿論、平日や土日の放課後はめっぽう忙しかった。箱学のチャリ部は朝練習にも力を入れているようで(というのも、大体は福富の熱さのせいだと思うけど)、それこそ文字通り、朝から晩まで練習をしているような男なのである。だから、文化祭のような大きなイベントのときでさえも、その練習をやめることは勿論許されないため、こうして雑用委員に回されるのだ。雨の日の練習がない日には、打ってつけの人員と言えた。
 私はと言えば、荒北ほどではないが比較的忙しい部類の部活である美術部に所属していた。文化部だからこそ蔑にされやすい部活ではあったものの、本気で取り組めば恐ろしく時間の取られる部活だった。一年の内の大イベントであるコンクールは、大体この時期に開催される。

 荒北は、同じクラスの男子だった。
 文化部と運動部ということもあってか、共通の話題もないし、普段はあまりしゃべらない。仲が悪いということもなければ、決して良いとも言えないといった感じだ。本当にクラスメイトという枠を出ない関係というか――同じチャリ部なら、東堂のほうが仲がいいだろう。とはいえ、彼に関して言えば誰にでも「あんな感じ」なのでこれもまた特別親しいというほどでもなかったけれど。正直な話、荒北はその目つきの悪さから、あまり良い評判は聞かない。私から見て、決して怖いというわけではないけれど、昔はやんちゃをしていたのだと、こちらも東堂から以前聞かされたし、まぁこのまま卒業を迎えるまで私たちの関係は特に進展を見せることもなく終わって行くんだろうな……と、思っていた。

 文化祭のプリントを、十枚一組にして半分に折り曲げ、重なったところをホッチキスで止める。単純作業は意外と腰に来るというもので。小一時間ほど経って、明らかに作業ペースの落ちた私を、先に仕事を終えた荒北がじろじろと見ていた。
(私なんて待たずに帰ればいいのに、)
 そう思っていたことは口に出さず黙々とプリントを針で止めていると、「貸せ」
「半分、寄こせ」
 ぶっきらぼうな口調と、逸らされた視線。
 それから、差し出された右手に、私は思わず目を丸くした。
「え?」
「手伝う。おまえ効率悪ィンだヨ」
 ――そして、冒頭に戻る。

 荒北はずい、と差し出していた手をそのまま私の机の上へ叩きつけると、乱雑にプリントの山を掻っ攫っていく。乱暴な手つきの割に、丁寧な仕事だった。よく観察してみれば、彼が今まで止めたプリントも、正確に二つに折られ、ホッチキスの針も均等に距離が空けられて二つ刺されている。
 見た目と、その速さからは想像できないほどに器用さを感じさせる仕事っぷりだった。
 これはなんというか、初めての発見かも知れない。と、そんな荒北に倣うようにパチパチ、とホッチキスを使っていると、
「……ってさァ……東堂と仲良いワケェ?」
 十枚の束をとん、と机の上で跳ねさせて、角を整えながらなんてことのないように荒北は呟いた。
 突拍子もない荒北の発言に、「え?」先と全く同じ返答を漂わせていると「だーかーら。東堂。アイツからアンタの話よく聞くんだヨ」荒北はそう言いながら、尚もこちらを見ないままに手に持った束の先端を重ね合わせて、体重をかけて一気に折りこむ。
 ぺこり。綺麗にたたまれた紙が、なんとも情けない音を霞ませる。
(東堂?――でも、なんで東堂?)
 先ほど荒北と比例させるように思いだしていた相手だっただけに、正直どきりとした。べつに、後ろめたい気持ちがあったわけではなかったけれど、なぜか居心地が悪かったのだ。
 それを誤魔化すように何かを思い出すフリを装いながら右上を見て、それから荒北に視線を移す。彼はというと、折りたたんだプリントを左手で抑えながら、右手でホッチキスの針を入れ替えている。どうやら入れていた分は一つ前の冊子で使いきってしまったらしい。
「どうだろう。私は普通だと思ってたけど」
「ア? “フツー”って?」
 四角い箱から、一つ銀のブロックを掴んで、親指と人差し指だけを使って流れるように針を入れ替えている。その動作には話口調の粗暴さなどこれっぽっちも感じられなくて、私は更に焦ってしまう。
「普通に仲が良いって意味。東堂って、誰にでも仲良くするじゃん。だから」
「ヘェ〜〜」
 まぁ、別に良いけど。――会話の最中も、いっこうに合わせられることの無かった視線に、作業を中断してまで荒北の方を窺い見てしまった私が馬鹿みたいだった。彼にとってはこんな質問、これと言って話す内容などない私相手での、本当に、探り当てた日常会話の一部だったのだ。
 上手く言えないけれど、それが少しだけ、ほんの少しだけ寂しかった。

 “荒北はなぁ……難しい男なのだよ。察してやれ、チャン”
 パチパチ、カサカサ、と。作業の音だけが響く教室で、不意に私は東堂が荒北の話をしたときのことを思い出す。あいつは紛う方なき男なのだ。まぁ、オレと違ってモテはしないが、それでも男だ。悔しいがな、こればかりは認めざるを得ん。――そう言った時の東堂の顔が、親友であるらしい「巻チャン」という人のことを話すときの顔と一緒だったから、何言ってんの、とか、そんな言葉すら返せなかったように思う。「皆アイツのことを勘違いしているんだ。荒北は格好いいぞ」東堂は、私を見てはっきりそう言った。でも、今度こそ、その言葉に、私は東堂に言葉をぶん投げたのだった。何言ってんの。「それは見てれば分かるよ」私がそう返したときの東堂の顔は、今でも覚えている。「チャンも罪な女だな。そう思っていたのなら、本人に言ってやればよかろうものを」――と、とびきりの綺麗な顔で笑って。

 私と荒北は、同じクラスというだけの、特に親しくもない間柄だった。
 けれども私はこっそりと隠していた気持ちがあった。それが、東堂には見つかってしまった。ただそれだけの話だった。それだけのことが、私と東堂の距離を少しだけ縮めた。やつはそれを面白がる男ではなかった。

 ある時、クラスの友人に「荒北は高嶺の花なんだよ」と言ったことがあった。
 そのときは「それは無い」と茶化されて、私も合わせるように笑った記憶がある。荒北は花っていうような感じじゃないでしょ、どちらかと言ったら猛獣って感じの――友人はそう言いながら「同じ自転車部だったら、真波くんとかの方がそんな雰囲気じゃない」私の言葉なんて無視するように頬を赤らめさせて、一年の子のことを思い馳せていたけれど。
 ……あれはべつに冗談でもなんでもなくって、なんとなく直視したら居心地の悪そうな瞳と、乱暴な口調に、私が「彼は誰よりも素直に生きているんだろうなぁ」って思っただけで。そう思ったら、「手が届かないなぁ」って、そう感じてしまっただけで。
 ――まさかそれを、恋だなんて思ってなかったってだけで。
 きっと長い間温めていたはずなのに、こうして東堂に吹っ掛けられて自覚したら、何も出来なくなってしまった自分が居た。高嶺の花――我ながら何て的確な表現だっただろう。
 今だって。
 彼は、目の前に居る私なんて、これっぽっちも見ていない。けれど、私はそんな荒北だからこそ、惹かれてしまったのだ。

 プリントの山は、あと数回折り曲げたら終わってしまうだろうというくらいに減っていた。それは荒北も同じであったが、私より多く作業をしているであろう彼は全く疲れた様子も見せずに淡々とこなしていた。
(この作業が終わったらまた、暫く荒北とこうして長い時間を一緒にすることもないんだろうな)
 文化祭実行委員は、おもに雑用を担当すると言ったけれど、その雑用は基本的に余ったものだ。皆の時間が取れなくて、どうしても人員が足りないとき、こうして数時間ほど仕事が回される。だから次はいつ、その仕事が回ってくるかは分からない。クラスで実行委員に選ばれたのは私と荒北の二人だけだったから、大きな仕事は他のクラスにあてられるかも知れない。だから、もしかしたら、こんな風に時間のかかるものを任されるのは、これが最後かも知れない。
 そんなことを考えながらも、動かす手は止めずに居れば、ついに、作業は最後の一つとなっていた。気がつけば、前の席からは音が一つも聞こえない。荒北の右側に綺麗に並べられた冊子が、彼の作業の終わりを告げていた。
(私なんて待たずに、先に帰ればいいのに――)
 私は、さっきと全く同じことを思った。もうこちらの作業もあと少しで終わるのだから、律義に待たないで、帰ってしまえばいいのに。そう思って、不意に持ち上げた視線に、かちり、と彼の視線が重なったから驚いた。荒北が、こちらを見ていた。一度も合わなかった視線に射抜かれる。彼はいつもの鋭い視線で、黒眼を丸く尖らせて、こちらを見ていた。
「俺のことはどー思ってんの。おまえ」
 息を吸う。そして吐く。ただそれだけの動作に。心臓を鷲掴みにされた気がした。

「あー……やっぱり忘れて、今の」
 ばくばくと震える心臓を抑えつけていれば、取ってつけたように続けられた短い言葉と一緒に、その鋭い瞳が細められる。
 なんで、どうして、――そう思っても、何も発することも出来ず、そうして遂にプリントをまとめる手が止まってしまった。
「俺、今日ロード家に置いてきたんだよ。だからかも知んねぇな。帰るのが億劫でなァ……」
 冊子が重ねられたすぐ横に、荒北が肘を突く。
 独り言のように呟かれた言葉に、私はまたあの言葉を思い出していた。
 “察してやれ、ちゃん――
 そう思ってたら言ってやればいい――”
「……なら、せっかくだし一緒に帰ろうよ。もうこれで終わるし」
 さっきの質問みたいに、特に意味を持たない発言だったかも知れない。
 けれど、これは私でも分かる。きっと――嘘だ。荒北の普段の様子を見てれば分かった。彼が一日とて、自転車に乗らない日はないと言うことくらいは。
 期待していいのなら、それに乗っかって私も前に進みたい。意を決して返した言葉に、私の心の中で、カチューシャを付けた男がぼんやりと透けながら高らかに笑った気がした。

 荒北が私の言葉に僅かに口角を持ち上げて、突いていた肘をそのままに、私がまとめていたプリントを右手で奪っていく。トントン、と端を一度整え直して、それからパチリ、とホッチキスを通していく。その時間が焦れったくて堪らないで居ると、荒北は閉じ終わった冊子を積み重なったそれへと乗せてから、私を見てまたふっと笑った。
「まァ……悪くないんじゃナァイ。たまには、そーいうのもサ」
 その声色に、微弱な照れが隠されていることに気がついてしまったから――もしかしたら、彼も同じ気持ちなんじゃないか、とか。そんな気持ちさえ浮かんできて……
 このまま卒業すると思っていた矢先に訪れた大きな「進展」とも言える展開に、高揚する気持ちを隠すことも出来ず、私は俯きがちに頷いた。

― 浪漫星(20131030)