東京の外れの外れ、繁華街ではあるものの人通りが多いとは決して言えないその場所に、私の店は存在していた。
 店――と、ひと口に言っても、ここいらの所謂繁華は普通のそれとは大きく違う。つまるところ「賭場」――更に細かく言えば「雀荘」と呼ばれるそれを私は一人で経営していた。
 そもそも、この店は私の父が運営していたもので、私がそれをそっくりそのまま受け継いだ形であった。父も相当なギャンブルジャンキーであったから(本人曰く“俺は麻雀だけ”とのことだが)、麻雀のイロハは幼いときに叩きこまれた。この世界の濁りなど何も知らない幼き頃の私が父の教えに素直に喜んでいたのが父も楽しかったのだろう。当時、お世辞にも強いとは言えないレベルの打ち方を見せる私に、父はいつだって屈託のない笑顔で「お前は強いな」と言っていたのを今でもよく覚えている。
 そんな父が、長らく迷惑をかけた母と二人で余生を過ごしたいのだと私に言い放ち、店を預けたのは十年余り前のことだった。
 預けた、というよりは投げた、といったほうが正しいような唐突さであったが、父のそういった性格をこれまでの人生で悉く理解していた私は二つ返事で頷いた。諦めに似た気持ちも確かにあったかも知れないが、父がこよなく愛していた麻雀を、私もいつの間にか愛していたのだろうということが今なら分かる。
 「お前が飽きたら店を売ってその金で好きに暮らせ」と父は笑ったが、こうして今も甲斐甲斐しく店の世話をしていることからもそれは察せられた。

 雀荘自体は、人気の少ないこの辺りでは珍しいくらいに繁盛していた。目立つ賭場がここしかないことも起因しているのかも知れないが、だからこそ、変な客というのも少なからず存在していた。
 店を運営している人間が女だと分かると途端に舐めた態度を取る客も居れば、その逆も居た。ただ、そういう奴らは全員、卓の上で黙らせた。賭場とは「そういう」場所だと、かつての父にすでに教えられていたし、父の言っていた私自身の麻雀の強さというものがどんなものなのかということはそれこそ随分と前に理解していたから、こうして店を続けることが出来ていた。
 言ってしまえば私は、才能があったのだと父は伝えてくれていたのだった。
 けれども、そんな日常に変化をもたらした男が居た。
 ――その男の名は、赤木しげると言った。

 この世界に居れば、嫌でも耳に入ってくる名前を持つその男は、方々から聞かされていた噂とは裏腹に随分と飄々とした人間であり、初対面こそ、随分と想像と違っていたことに驚かされたが、その打ち筋を一見してみれば彼が普通ではないことがすぐに分かった。
 神域の男――と世間に言わしめる彼は、負け知らずという言葉さえも知らないというくらい圧倒的な強さと運を持ち合わせている、非凡でいて……浮世離れしていて、どこか儚い。
 それでいて……
 はっきりとした輪郭をその身体に持つ不思議な男だった。

 “赤木しげる”

 裏世界の麻雀を語るには、彼の名前は避けては通れないだろう。



 * ・ * ・ *



「……あんたも相変わらず懲りないねぇ」
 深夜にほど近い時間の雀荘は、今日も独特の賑わいを見せていた。
 ――けれども。
 相も変わらず、カウンターにていつものように受付と店番を並行してこなしていれば、気配なく現われた男の姿がいきなり視界に入りこんできたものだから、私は少しだけ気分が悪くなった。
 彼がここへ来ることに対して否定的な気持ちがあるわけでは勿論ないが、これは所謂、些細な驚嘆は僅かな揺らぎを心臓に与えるのだという生理現象の一環によるものだった。
 そうして、私がそんな気持ちを得るのだということを知っているこの男は、何度言っても「それ」をやめないのだから、どんな人間であるかは言う必要もないだろう。
 …………。
 ……つまるところ、私がどれだけ不躾な視線を押しつけるだけ押しつけて返してもなんら問題ないということだ。

 そんな男に対して、顔を合わせるなり開口一番「懲りないね」と、私が咎める視線を隠しもせずに言い放てば、彼――赤木しげるはそんな視線を気にも留めずに楽しげに瞳を細めてから、表情に似合わぬ冷たい声で反論してみせる。
 これは彼の一種の「癖」のようなものだった。
 それでも決して怒っていたり機嫌を損ねていたりする、というわけではないのだから質が悪い。曰く、穏やかな波の中に心が存在するとき、彼はこうして意識の外で会話をするから、どうにも感情を乗せるのが苦手であるということだった。
 意識するとかしないとか、そういう問題ではないのではないだろうか、と問いただせば、彼はいつぞや、「これでもマシになったんだ」と屈託の無い顔で笑って答えていた。
 彼の昔を知らない私は、いつもこういうとき、言葉につまる。

「クク……懲りないのはここの客だろう?」
「はぁ。それをあんたが言うかね」
「俺が来ると分かってて未だも来るなんてとんだ物好き野郎か、はたまたイカれちまってるのか……嫌いじゃあねえが関心しないな」
「……どの口が言うんだか」
 今思えば、赤木しげるとの邂逅は、突然のことだった。
 その日は生憎の雨の日で、いつもより店の回転率が高く、卓の掃除と客の捌きを繰り返す時間が続いていた。そうなれば当然、いつもなら常連客にする挨拶も手短なものになり、意識出来る部分でさえ意識出来なくなるというのが人間というもので……私は自身の店に「赤木しげる」が来店してきたことに全く気が付いていなかった。
 普段ならお客さんの足音でさえ聞きわける私であったが注意も散漫になっていたそのときは、彼に声をかけられるまでその存在を視界に入れることは叶わなかった。
 ――「一番強い卓に入れてくれ」。
 けれども、そう言われ顔を上げた先にいた白が“あの”赤木であることは、なぜだかすぐに分かった。
 身体的特徴は何一つ知らなかったが、彼がそうであると一瞬で分かってしまった。

 そして彼もまた、私が分かったことを“分かっていた”。

 このとき、赤木しげるに対して私が抱いた印象と言えば、妙に不躾で、神聖で、それでいて酷く子供びた人間だということだったのだけれど、後に本人に告げたところ全く同じ印象を私に抱いていたというのだから、釈然としなかった。
 彼に言わせれば、それは褒めている――「らしい」のだが、どうにも信用ならなかった。

 その日私が通した卓で楽しい競り合いが出来たのか、何が気にいったのかは分からないが、赤木はそれ以来頻繁に店に顔を出すようになった。噂では、一度顔を出した雀荘には二度と訪れないと聞いていたから驚いていたのだけれど……私はなんとなく理解していた。
 ――。
 たぶん彼は幾度も追い出されたのだろう。
 あの勝ちっぷりでは客も寄り付かなくなっても仕方が無かった。
 その証拠に私の店も赤木が来るようになってから徐々に客足が減ってはいたが、それでも私は彼を跳ねのけたりはしなかった。
 恐らく、彼は追い払わずとも、いつか知らぬ内に居なくなってしまうのだろう……そんな予感がしたから、出来る限り、見ていたかった。
 彼の麻雀を。
 それに、父もきっとそうしただろうと私は感じていた。
 救いようもないほど、愛していたのだから仕方が無い。
 私も、この世界を。彼と同じように。


「今日も打ってくのかい?」
 空いている卓を確認しながらカウンター越しに彼を見つめてそう言えば、目じりに浮かべていた皺をゆっくりと伸ばしてから彼は私を見つめ返すと、小さく頷いて、それからややあって首を振るった。
「ああ」
 次いで発せられた言葉は“頷き”の部分にあてられたものだと分かって、私は無意識のうちに僅かに身構えた。

 ――彼は、いま、確かに、首を振るったのだ。

「ただ……これで最後にする。もうここには来ないだろう」

 言葉を発したのは自分ではないというのに、口の中が妙に乾燥した感覚と、それに比べてすっかり納得している動きを見せる心臓に辟易していた。今しがた思い浮かべていた彼との慣れ染めのそれらに、まさか、こんなに早くそのときが来てしまうとは――と、思いかけて、思わず舌打ちをした。
 早いも遅いもない。この別れは予想が出来るものだった。
 事実、私は予想していたじゃないか。
 出会った時から、それだけは覆ることのない未来だったはずだ。
 ……それでも、当たり前のように惜しんでしまう。
 どうしようもないほど当たり前な前提として、赤木しげるは酷く魅力的な人間だったからだ。
「……そう、」
 どこかへ浮いて行ってしまいそうな意識をぐっと静めれば、視界にちらついた自身の前髪すらも煩わしく感じられて、思わず私は顔を顰めて頷く。
 それが機嫌の悪そうな顔に見えたのだろうか。赤木はふっと笑みをこぼして目線を下ろした。
 その拍子に、カウンターの天井につるされた小さな灯りがぼんやりと彼の顔を照らして首の動きに合わせるように上から濃い陰を作っていく。

「ああ。だから記念に、、お前と二人打ちがしたい。……打てるんだろ?」
 今までも。彼は時折、こうして私を卓へと誘うことがあった。
 それでも私は頑なに拒んでいた――とは言っても軽口を叩いてそれとなく躱す程度であったが――ので、それが一度とて成立することはなかった。
 けれど、突然与えられた“最後”という無情な単語は、そんな私の素っ気ない部分にやたらと噛みついて、ぐらぐらとその柱をへし折ろうとしていた。恐らく、彼がここに通う目的のひとつに、私とのそれがあるということを私は知っていて、だからこそ実現しないように立ち回っていたのかも知れない。
 これで別れだと分かって、今さら申し出を受け入れようとした自分に気がついたとき、ふとそんな事を思わされた。

「……それは、どうしても今日でなくてはならないお誘い?」
「……なんでそんなことを聞くんだ?」
「らしくもないしみったれた顔で、最後だなんて言われたら、気になるでしょ」
「へぇ。はそんなことを気にする女にゃ思えなかったがね」
 情けない事だけれど、私が本当に気にかけている部分でさえ、この男にはお見通しなのかも知れない。
 赤木しげるに巡り会って、どれだけの月日が経過したかは覚えてはいなかったが、少なくとも短いとは言えない付き合いの中で、私は彼を一人の人間として、確かに大切に思っていた。

 そのことは、たぶん、伝わっている。
 彼は人の気持ちに敏感だから、気付かなくていいことまで気が付いてしまうのだ。

「そんなふうに言えるほど私のことなんて知らないくせに」
「お前が教えてくれなかったんだろうに」
「そうかな。聞かれた覚えもないけれど」
「たくさん聞いたさ。心の中ではな」
「……あんた、そんなこと言うタイプだった?」
こそ、そんな口をきけるほど俺のことを知ってるのか?」
「はぁ……ねぇ、そういうの。“意地が悪い”っていうって、知ってた?」
「クッ……流石にな、それくらいは俺でも知ってる」
 ――だからわざわざこうして「言いに来て」くれた。
 ほんとうは、こういう形を好まない人間だというくらいは、それこそ流石に知り得ていた。
 私が赤木に出会って初めて「噂通りだな」と感じた部分だったから。

「じゃあ、早速だが、今日は貸し切りだ。金はいくらだって払ってやるから、今居る客は全員帰せ」
 そんなことを考えていれば、次いで、至極当然のような顔で告げられた言葉に、ほぼ反射的にため息が零れた。
 肝の据わった客、と赤木が称すウチの常連は何度か彼と顔を合わす内にもうすっかりその存在に慣れてしまったらしく、最初は赤木が来店する度に猛っていた人間たちも今では卓を放り出して途中で立ち上がり彼に向っていったりすることは無くなった。
 その代わりに、やけに落ち着いてしまって、今では赤木の方が辟易としている様子さえ見せていた。
 今日も例外には漏れず、こうして私たちが会話をしていても誰も気に留めている素振りすら見せず、黙々と牌を切っているみたいだった。
 私と話している傍らで、彼の意識がちらとそちらに移っている気配がしたから、妙なことを言い出すかも知れない、という予感は薄々感じてはいたけれど、本当に言うとは――以前彼から聞かされた深夜のふぐ刺し事件を思い出して、苦笑する。
 板前でさえ無理なものだ。
 こうなった彼をいなす手段など、私にはない。
「……あんたも大概無茶いうね」
「それに応えるのがお前だろ?」
 力なく頷いた私を見て、赤木は満足そうに笑って見せる。
「…………これも含めて、最後の頼みとでも言いたいの?」
「そうだなぁ……それもいい。そういうことにしといてくれや」
「全く、相変わらず調子だけはいい男だねぇ、赤木は」
「クックッ……そうかも知んねぇなぁ……」
 赤木はそう言うと、入口横にあった簡素な椅子に腰をおろして煙草をふかし始めた。ぷか、と白い円が宙に浮かんだのを横目に見ながら、私は一度見せつけるように肩を竦めると、客の元へと歩みを進めた。
 …………
 ……



 二人きりとなった店内は、驚くほど静かだった。
 私が客を説得している間、赤木は椅子に座ったままの体勢で煙草を片手にこちらをじっと見つめていた。
 何を考え、何を思っているのかは分からないが、それを見て本当に「最後」なのだろうと私は思った。
 私の思い違いでなければ――彼が何かを尊ぶような視線を一瞬だけ、その瞳に浮かべていたからだ。

 客が居なくなって初めて、そのしんとした空間に身を寄せるように、赤木はそっと腰を上げ一足早く卓へとついた私に向かい合う形で椅子に座った。片手に携えたままの煙草はすっかり短くなっていて、私がそれを視界に収めてすぐ、赤木の手によって灰皿へとそれは押しつけられてしまった。
 その様子を見て、思わず声が出てしまいそうになった自分に気がついた時、いつの間にか必死に彼の一挙一動を目で追っかけていたのだということもにも気付かされ、今しがた消されたばかりの煙草の僅かな残り香さえ、いまはやけに鼻にこびりつくようで、私はそんな自分に呆れながらふと笑った。

「何が楽しいんだ?」
 それを視界の端で捉えたのか。
 赤木はやや訝しそうに私をみつめて、そう問うた。
 静かだった空間に、小さな衣擦れの音と一緒に、赤木の声が木霊して、私は妙な胸騒ぎに襲われた。
 なぜだか無性にこうして彼が目の前に存在する現実が、「いま」が――まるで「ありえない」ことのように感じてしまって、焦燥したのだ。

 これが最後……。
 ここにはもう来ないということは、二度と会えないということとは違うと私は思っている。例え赤木がもう二度と私に会うつもりが無くても、彼のように有名であれば探すのはたやすい。
 事実、それをこの男に言ったところで、彼は否定しないだろう。
 けれども、そう思っていたにも関わらず“それ”と等しいのではないか、と。いま、一瞬でも思ってしまった自分に、驚いた。
 わたしは、
 私は一体どうしたいのだろう……
 ――そんなことを考えて、刹那。
 目の前に座る男の本意こそが、今度は気になった。

「楽しいわけないでしょ。最後だなんて急に言われて。……どういうつもり?」
「……今さら聞くのか? つっても、まぁ、普通今まで聞かなかったことが不思議なくらいか……はよく分かんねえ女だなぁ」
「それ。あんたには言われたくないんだけど」
「ククッ……まぁ、何もここだけじゃねぇさ。雀荘にはもう足を運ぶことはねぇだろう。そういう意味では、ここが正真正銘“赤木しげる”が訪れる最後の店になるってわけだ。お前にとってはちっとも光栄じゃあないかも知んねぇがなぁ……」
「……なにそれ。それじゃあまるで――」

 まるで、

「ああ。麻雀はもうやめるんだ。今日きっかりでな」

 もう麻雀はやらないみたいな口ぶりじゃない。
 ――そう続けようとした言葉は喉を通らないまま霧散してしまった。
 “あの”赤木が、麻雀をやめる。
 彼について色んなことを考えてきた私ですら、そんな言葉を聞く日が来ることは、想像してこなかった。
「悪い冗談はよしてよ、それ、すごくつまらない」
 唇が乾いて仕方が無い。
 つっぱねる言い方なんてしたくないのに、いつもより早口で言葉が口から飛び出ていく。聞きたいことや言いたいことが沢山あるせいかも知れない。私は急いでいた。いざ面と向かって別れを告げられ、遠くに行ってしまう、と思った赤木が、自分が思っていたよりも遥かに前へ進んでしまっているのだということに、酷く狼狽していたのだ。
「面白く言ったつもりはねぇさ。無論、冗談でもねぇ」
「……誤魔化さないでよ」
「……何が言いたい? よぉ、
「私はただ、あんたが“そんなこと”を言う理由が知りたいの」
「クッ……理由? 理由なんてねぇさ。俺が気まぐれなのはそれこそお前もよーく知ってんだろ?」
「嘘よ。気まぐれなのは本当だけど、麻雀に対してそんな態度をとるのは赤木らしくない」
「……またそれか。らしいらしくないの話じゃねえことくらい、分かってんだろ。俺がやめると言ったらやめる。理由だっていくらだって作れる。ただ、俺は……お前に嘘をつきたい訳じゃない」
「でも……吐いてる」
 うろたえを見せる胸中とは反対に、私の口はいつになく達者に動いて赤木を責め立てようとしていた。自分がいま、どんな顔をして彼を見ているのか分からなくなるほどに穏やかではない心の内で、私の視界に囚われた赤木はそれこそいつもと同じ飄々とした態度でこちらを見つめていた。
「……そこまで言う“何か”確信でもあんのか?」
 自信があるのかも知れなかった。
 いままで、そうやって沢山のひとたちを煙に巻いて、ひとりきりで生きてきたのであろう彼には、私には想像も出来ないくらいの闇といっしょに、大きな自信があるのかも知れなかった。

「あるよ」
「…………」
「だって“言いに来た”じゃない。私なら聞くって、それこそあんたもよーく知ってるから」
 あれほどまでに鼻孔を刺激していた煙草の香りは、いまは微塵も感じられなかった。
 気付けば私は、泣きそうな気持ちで、赤木を見ていた。
 赤木は未だ涼しげな顔で、けれども私と視線を合わせてすぐ、少しだけ楽しそうな顔を浮かべて、それから薄く口を開いた。
「……言うねぇ」
「……否定しないの?」
「言ったろ? 俺は別に、嘘をつきたい訳じゃねぇんだってよ」
「……じゃあ、どうして」

「…………本当のことは、もう少し隠しておくつもりだったんだがなぁ。まぁ、の言葉を借りるなら、言いに来た俺が悪いのか……お前の質は知ってるつもりだったが……いや、もしかしたら、知っててここに来ちまったのかも知れねぇな」
 お世辞にも広いとは言えない店内は、私たちの声を響かせては、ひっそりとことの成り行きを見守っている様子だった。
 その中に置かれていた、赤木が先ほど腰をおろした椅子は、この店の中でもひときわ年期の入ったもので、彼が呼吸をするたびにちいさくきぃ、きぃ、と音を立てていたけれど、私たちの会話が途切れるときに限ってはその音をそっと顰めて、部屋の静けさを誇張させていた。
 私は、赤木との対話が心地よくて、そして怖かった。
 麻雀をしよう、と私に声をかけたのに、卓を目の前にした時も隅に寄せられた牌を一瞥するだけで、彼はそれに手を伸ばそうとはしなかった。そしていまも。私が話を切り出すのを待っているというふうでもなくただ静かに座りこむだけで、誘いとはなんだったのかというくらい自然に彼は私との会話を続けていた。
 だからこそ、何気ない口調で返された“ほんとうのこと”。
 その一言が、恐ろしく怖かった。

「……赤木、あんた、もしかして、」
「麻雀は、もうやらねえ。正確に言うなら、“やれねぇ”んだ」
 座った時、一度だけ牌に送られた視線が再びそこへと向けられた。慈しむような、なんとも言えない横顔は私に微細な衝撃を与えて、そして霧散していく。
 その刺激は、まるで赤木そのもののようだと思った。いつか消えてしまう、そう分かっていても、もう少しだけ見ていたいような、形容しがたい感情を与える刺激は、穏やかな波にも関わらず簡単に人の心を攫って行くのだ。
 もうやれないのだ――という彼の告白は、言っている彼の表情がそうさせたのか、私の焦る気持ちをすっと穏やかにさせ、砂浜へと運んでいってしまった。
「……ねえ、それって、」
「だから最後に、ここへ来た。ここなら俺を追い返す人間も居なかったからな」
「やれないって、どういうことなの?」
「ククッ……お前さっきから質問ばっかりだなぁ。聞きたがりでもねぇが珍しいこともあるこった」
「だって、肝心なところは聞いていないもの」
「それもそうだな……だが、すまねぇな。こればっかりは言いたくねぇんだ。ただ、俺は麻雀をやれなくなった。一身上の都合とでも思ってくれりゃあいい」
「それで私が納得すると思ってるの?」
「お前を納得させる必要がどこにある?」
「……私との麻雀も、出来なくてもいいの?」
「クッ……そうだな。たしかに、それは困った」
「…………赤木」
「だが、言うつもりはねぇさ。言ったら俺は、――」
「……?」
「いや…………なんでもねぇ」
 いつの間にか、煙草の香りがまた辺りに漂っていることに気がついた。
 見れば、赤木の右手には思い出したようにそれが握られていて、私はいつそれを取り出して火をつけていたのだろう、とそんなことをぼんやりと思った。
 思いながら、ここにいる赤木がまるで私の知っている赤木とは別の人間なのではないかと思い始めて、彼が先ほど放った言葉の重さを再認識する。冗談で言っているみたいに繕うのは、彼の礼儀のようなものだ。そうして本心も何もかもを有耶無耶にして、悲しみも喜びも濁して生きてきたのが、彼なのだ。
 放心したようななんとも言えない気持ちの中、私は煙草の煙を嗅がせられながら、ぼうっと彼の顔を見つめていた。

「なら……なら、どうして私を麻雀に誘ったの? もう、やれないんでしょう……?」
 酷いことを言った自覚はあったけれど、言わずには居られなかった。そして彼がこの言葉を望んでいるような気持ちさえ、私にはあった。
 その証拠に、赤木は僅かに目を見開く様子を見せた後、至極愉快気に喉を鳴らせて、ゆっくりと肺へ吸い込んだ煙を宙へと吐いた。

「もっと早く強引に誘っとけばよかったなぁ、なんて柄にもねぇことを思っちまったんだから、仕方ねえだろう」

 ――なにそれ、と思わず形づけられた唇は、そのまま何も発することなく一文字に引き結ばれた。たとえ口調がおどけていても、穏やかな波などでは決してない。それが彼の何よりの狂おしいほどの本音に聞こえてしまったせいだ。
 そして同時に、自分が我慢をしていたことを知った。
 「また来てよ」、一番言いたかった言葉のそれは形にはならず、代わりに酷く自分勝手な言葉が口をついて出たから。

「……忘れないでね、私のこと」
 それでも。
 彼が出会ってきた中で一番、困った顔をするものだから、きっと、間違っていなかったのだろうと私は思い、気持ちがあふれだしそうになって力の入る瞼を瞳を細めることで誤魔化した。
「クッ……にはつくづく驚かせられる。……ほんとうは、全部分かってんじゃあねぇだろうな」
 的を射ない悪態でありながら、赤木が僅かに喉を詰まらせてそう言って寄こすから、今度こそ私は何も返すことが出来なかった。
 唇を噛みしめながら震える心臓を置き去りして赤木を見つめれば、僅かに遅れてこちらを見た彼と視線がかちあい、それと同時に彼の座る椅子が、きぃ、と一度軋んだ。
 “呼吸をしたのだ”と理解した刹那、赤木は徐に立ち上がると卓に身を乗り出して私へ瞳を近付ける。

「……、」
 次いで一度だけ放たれた名前に、たとえ別れを背負っていたとしても、「遅い」と言ってしまうのは野暮な気がした。
 瞳孔すべてに彼を捕えた今、口に出せないことの多さを実感させられる程度には。
 どうやら思っていたよりも私たちは、お互いのことを深く理解していたみたいだった。
天叢雲