「生きる、ってどういうことなんでしょう」

 唐突にそんな問いかけを投げてきたという女は、赤木しげるにとって「許容の範囲を超えた何か」であり、また、「許容の内側に入りこんでくるような何か」であった。それを「想う」という感情であると気がついたのはいつのことだったかもうすでに忘れてしまったが、まがりなりにも確かに赤木の「想い人」であったこの女は、何を考えているのか分からないような顔で彼からの返答を待っている様子だった。その赤木はと言えば、の突拍子のない問いに少しだけ虚を突かれてしまっていたのだけれど。そんな彼が一瞬、辺りを徘徊しようとする間を追いだすように手のひらにうけていたグラスを手持無沙汰に揺らせば、その微振に合わせるように中で氷がからんと回ってみせる。
 夏の夜の縁側は木造独特の穏やかな風と涼しげな静寂に包まれていて、普段なら気にもかけないような些細な音さえもどこか神聖なもののように感じさせた。同様に、からの問いかけも、赤木にとっては遥かに遠い位置からかけられているような、そんな気がしてならなかった。

「よぉ、急にどうしたんだ? 難しそうな事フリやがってよ」
「……いや、ふと気になって」
「ほお……」
「なんだかこうして夜を堪能してると、不思議な気持ちになりませんか? ほら、あそこなんか月がひとつだけぽつんと大きな空にあるでしょ……もしかしたらあの月は空にあるはずの穴を埋めているんじゃないかとか、そんなふうに思ったりしませんか?」
 そう言いながら、は片手の人差指と親指で輪を作ると、空に向けてそっと掲げた。きっと彼女の角度からは、その輪は月を捕えているのだろうが、赤木からは窺えない。
 にも関わらず真剣な目つきで赤木と自分の手の内とを見るその様が妙におかしくて、こりゃいい肴になるなぁ、と口元に浮かぶ笑みを隠そうともせずに、赤木が一口、酒を口へと持っていけばその口元に彼女の急かすような視線があてられる。
「……思わねえなぁ」
「…………。まぁ……赤木さんはそう答えると思いましたけど、」
「それとさっきの質問と、どう関係してんだ」
「ああいうのって、結局想像するかどうかだと思うんです。穴とか、普通に生活してたら気にもしないし、実際宇宙に月が存在してるんだって知ったら“あり得ない”ってなるじゃないですか。でも、人生もそうだなぁとか考えちゃって」
「……そりゃまた難儀な」
「本当は自分の人生に大きな穴があいていて、身近な誰かがその穴を埋めてくれているのだとしたら、その穴がまたあいたとき、死んじゃうってことなのかなぁとか……」
「クク……お前はそういうタマでもねぇだろ」
 返しながら、寂しそうな顔で横たわる彼女を想像して噴きだせば、は怒ったように身を乗り出して声を荒げた。
「……違いますよ!」
「……あ?」
 ――直後、自身が発した声の大きさに驚いて、その身体はすぐ元の位置に引っ込められることとなったが、彼女がその最中に漏らした反論は赤木には予想外に他ならなく、グラスを持っていた手が図らずも僅かに震えた。

 言ってしまえば、“勘”と言うヤツなのだろう。
「私じゃないです。その、塞いでくれていたほう……。居なくなるって、“そういうこと”なんだろうなって。でも、そしたら、生きるってなんなんだろうって思ったんです」
「…………」
 だが、ことはその勘が非常に優れていた。
 それは彼女をこれまで近くで見守っていた赤木が誰よりも身をもって感じていたことであり、保証できることでもあった。
 先見の明とはこういうことを言うのだろうか、と思わせられることも度々あった。
 それは「勘」などという不確定で不明瞭な言葉で片付けてしまって良いものだとは思えないほどに酷く的を射ているものが多かったから、きっと彼女には自分の見えていない何かがはっきりと映っているのだろう――と、赤木はその「勘」を信頼していたし、同時に不安に思っていた。彼女は自分のように賭け事もしなければ命を張るような勝負だってしない。けれども、その先の、かつての自分が馳せていた「深淵」にほど近いところにその勘でもって意識をたゆたわせることが出来るのではないか、とそんな現実味の無いことを時折考えてしまうからだ。
「多分、それまでは気にもしないんですよ。穴の周りには沢山の星たちが回っていて、輝いていてくれたから、気にならなかったんです。穴があるんだ、って思っても、気のせいかも知れないなって思うんです。でも、一度その穴に壁を張ってもらったら、本来漏れだしていたものがすべて収まって、ああ、本当は飽いていたんだなって気がつくんです」
「…………」
「もし、……もしそうなってから再び、元の状態に戻ったら、いくら周りが励まそうと輝いても、そんな輝きよりも穴の存在が気になって、ずっと下を向いちゃうんじゃないか……って」
 ただ彼女が「それ」を求めていない内はまだ心配するところではないだろうと赤木は思っていた。
 ――だからこそ、少しだけ。
 彼女の言った話が気になった。

 夜にあてられているのか、それとも本当に世間話のように切り出しただけなのかは赤木の分かり得るものではなかったけれど。
 砂利の残る細かい砂の撒かれた地面に乱雑に投げていた片足をゆっくりと持ち上げ、柱の下で胡坐を組み直しながら、赤木はに向き直ると穏やかに笑みを浮かべた。

「……それで、生きるって何か、なんて規模のでけぇ質問が出たのか」
「はい。赤木さんなら、知ってそうだったから」
「……? 何をだ?」
「月の場所には穴なんて無いんだ、ってこと」
 自身が力説していた話の前提を覆すような、彼女のそんな一言にも、赤木は尚も楽しそうに笑う。
「ハハ、そんなこと、お前さんだって知ってるだろうに」
「私は、知ってても探しちゃうような人間なんですよ」
「だろうなぁ。はそういうやつだ」
 きっぱりと言い放たれると、カラカラと一頻り鳴ったグラスは、赤木の手を離れて床へと置かれた。
 それを見ながら目じりをきゅっと窄ませたが、意地悪そうな顔で赤木を見やって言う。
「でも赤木さんは違うでしょ?」
「ま……そもそも俺は月に行こうとも思わねえからなぁ」
「神域の男、ですもんね」
「クク……そういう意味じゃあねえよ」
「じゃあどういう意味なんですか?」
 言葉とともに、向かいで暫く正座をしていたの足が崩され、彼女のつま先が赤木のかいた胡坐の膝をつんと刺激したが、赤木は一瞥をくれただけでその視線をすぐ空へと仰ぎ直した。
 話始めてからまだそれほどの時間が経ったようには思えなかったが、先ほどまで綺麗な円を描いていたはずの月はその周囲を雲に覆われようとしていた。それを見ていたら何故だか、もじもじと冷たさの温さの共存する自分の素足が、妙に忙しなさを訴えてくるのが赤木には分かった。
「結局のところはよ、穴を埋めてた月がその空では一番光ってたってことだろう」
「……え?」
 徐々に光を失っていく空を見上げて言えば、合わせるようにの視線も空へと動いていく。
(バカみてぇに素直なやつだ……)
 ――と、言葉を続けるよりも先に赤木がふとそんなことを考えてしまえば、彼女の視線の端が僅かにこちらに揺れるのが分かった。

「眩しいモンが近くにあったせいで気付かなくなってんのさ。電気を消した部屋で携帯を付けるとさ、ちっぽけなバックライトでさえ眩しいなって感じるだろ。それと一緒だ。そのときは明るいと感じても、外に出ちまえば逆に暗いと感じたりもする……、お前の言ってることはそういうこった」
「……暗いものを明るいと勘違いしてる、ってことですか?」
「さぁなあ……。だが、がそれを“生きる”ってことだと思ってるんなら、それはきっと間違っちゃいない」
「…………」
「明るいところには暗いもんがあって、暗いところには明るいもんがある。そしてそれは必ず直結していて、お前の言うように互いの穴を埋めあってるんだろうよ」
「……それって、良いことなんでしょうか」
「クッ……それが分かりゃ誰も苦労しねぇよ」
 は怪訝そうな、けれどもどこか曖昧な表情を浮かべて空を見た後、そのまま視線を赤木へと引き戻した。
 かち合った視線はまるでぱちりと音を立てるように重なると、一度の瞬きと共に離れていく。は、こういった「刹那」を赤木と居るときに何度となく経験してきた。
 ――本より彼自身が、酷く刹那的だったからだ。
 そしてそれが紛れもない彼の魅力であり、彼を形成しているものの一部であるのだということをは知っていた。
 人はそれをよく彼の「穴」であると表現した。だからといって今しがたの話したことが赤木のことであったという訳ではない。自身、彼のそういった側面を穴であると感じたことなど一度たりとて無かったし、何よりそう言ったところにより強く「赤木しげる」という存在を感じていたから、にとってはその側面を穴だと言うなら、彼は穴で出来ているような人間だという話になってしまう。例えるなら、ブラックホールのような、すべてを飲み込む穴だろうか――塞ぐ必要もなければその方法もないような、途方に暮れる穴。
 けれども不用心にも近づいてみたくなるような、そんな……。

「ただ、求めちまうんだろうなぁ。もしそれが間違ってると分かったとしても」
「…………」
「それが人間ってやつで、生きる、ってやつなんじゃないか?」
 ぽつり、と呟きながら赤木が先ほど床に置いたグラスを優しく持ち上げれば、結露で流れ落ちた雫の輪っかが木床の年輪に反発するようにその場で円を描いていた。水滴によってすっかり一部が白けたそれを見つけたが指摘すれば「どうせ乾くんだから良いだろう」と赤木は唇を尖らせる。
「……赤木さんって、意外とロマンチストですよね」
「そうか?」
「でも現実的で……なんかあやふやっていうか、」
「なんだそりゃ」
「そもそも、赤木さんに出来ないことなんてあるんですか?」
「……はぁ?」
 崩していた足を再び正座に直しながらが言う。
 その頬をほんのりと照らしていた灯りの元は、既に半分以上が横から伸びてくる雲の層に隠されてしまっていた。そうなってしまえば、未だ明りのついたままの障子の奥から漏れた僅かな光だけが、と赤木の視界を照らしているばかりで、寒々としていた静かな夜が更に孤独を匂わせ始める。その匂いを感じながら、氷の溶けかけているグラスの中身を一気に飲み干せば、喉を一瞬の熱さが通り抜けたあと、体中が芯から冷えるような感覚に、赤木はふと笑った。
「その質問に上手く答えることすら、俺には出来ねえことだ」
「……なんかそれ、屁理屈ですよ」
「考えたこともねぇからな。出来ないことなんて、最初から。そもそも“出来ない”ってことは“やる”って前提があるだろ? 俺は出来ることしかやらねぇって決めてるんだ」
「それって結局なんでも出来ちゃうってことですよね?」
「出来るまでやる、ってことだよ。出来るって結果が残りゃ、出来なかったことは無かったことになる」
「それはそうですけど……」
「ただ……そうだなぁ……」
「……?」

「……なんです?」

「お前に関しちゃ、そういう意味では出来ねぇことばっかだ」

 中身の無くなったグラスとそれを掴む自身の手のひらを見比べながら淡々と漏らす赤木に、はひっそりと息を飲んだ。こうして弱音にも似た台詞を吐く赤木を見ることなど今まで無かったから、言葉を安易に返していいような、そんな雰囲気とは到底思えず反射的に口を噤んでしまった。考えても見れば、はいつも「そう」だった。赤木に近づきたくて、けれどもどこか離れたいと思っている――矛盾していることは自分が一番分かっているつもりでも、どうすることもできない、抗うことの出来ない引力を感じていて、ふと意識付いたときには彼の隣に座ってしまっている。
 縋ってしまいたくなる半面、一番頼りたくない存在として赤木を見ている。それが「対等」でありたいという根底の表れであるのかどうか、には分からない。ただ、そうしている内は、彼は自分を拒まないでいてくれるだろうと無意識下で感じ取っていたのかもしれなかった。
 赤木は気付いていないだろう。
 ――それでも、は赤木を好いていた。
 だからこそ彼が刹那的であることも流動的に生きていることも理解することが出来たし、同時に、自分では彼の存在「し得ない穴」を補うことが出来ないだろうということも理解していた。
「……そんなことないですよ」
 待たれていない返事を放り投げながら俯いた視線の先、まるい形を残した染みは、夏風に当てられてもう半分が掠れようかというところで、はただ唯一それによって、制止したような空間で確かに訪れている時間の経過を計っていた。
 怯えているのか、昂揚しているのか分からないような表情を浮かべたの抑えきれない体の小さな震えは、赤木の黒眼をちらりと通り過ぎたが――気がついていて、彼は見て見ぬふりをした。
 そうしている内は、彼女は自分を拒んだりはしないだろう、などという至極当たり前な、その何物にも代えがたい甘さを心痛めず利用せしめられる程度には、また赤木も同様にを長く想っていたのだ。

「俺はさしずめ、月を隠しちまう雲ってとこなんだろう」

 そう呟く赤木の視線の先にはすでに、かつての綺麗な円など見る影も無く――呆気なく体の全てを飲みこまれたそれの端光さえ、とうとう彼の瞳に映りこむことは叶わなかった。

見えないものを信じたいよ